彼だけが知っている

泉 水白

彼だけが知っている

「いただきっ!」

「はいストーップ」


 私の唐揚げを奪おうとした不届き者の箸を止める。

 こちらも咄嗟に箸で対抗したので、カチャカチャと箸同士のぶつかる行儀の悪い音が鳴る。家でならともかく、大学の食堂という不特定多数の目がある場所で、女二人が行う戦いではないように思えた。


「いーじゃん詩織しおりのけちんぼっ! 強欲! ジャイアン!」

「いや、私のものは私のものでしょうが」


 目の前に置かれた定食は、正真正銘私のお金で買った私の食事である。添えられたキャベツや小鉢ならまだ恵んでやってもいいが、メインの唐揚げだけは譲れない。

 私の決意を感じ取ったのか、鍔迫り合いに興じていたなぎの箸が離れていく。


「むむむ……わたしのおねだりが通じないとは……」

「せめてねだりなよ……」


 強奪とおねだりは別物である。強請ねだる、と漢字で書けば似ている気はするけども。

 盗人の箸が自身のサバの味噌煮定食に伸びていくのを確認し、警戒態勢を解く。私も食事を続けるべく、守り切った唐揚げを安心して口に運んだ。

 不貞腐れながらサバを頬張る凪はまるで、嫌いな食べ物を親に無理矢理食べさせられている子供のようだ。

 面倒くさいやつだなと思わなくもないが、そんな行為でも可愛らしさのほうがまさるのだから、愛嬌というのは大事なんだな、といつも感じさせられる。


「そんなに肉が食べたいなら、なんで魚なんて頼んだんだか」


 唐揚げを美味しく味わい終えてから、純粋な疑問を口にする。

 食券を買うとき、凪は迷うことなく嬉々としてサバを選択していたはずなんだけど。


「分かってないなぁ。魚を食べてるから、肉を食べたくなるんだよ」

「隣の芝は青く見える的な話……?」

「何それ? 誰かの名言?」


 うーん……。本当に同い年か? とたまに疑いたくなる。高校で出会ったときから身体は小さいままだし、顔付きも幼い。実は年齢を偽っているんじゃないだろうか。

 しかしその場合飛び級ということになるのだが、私の知る限りでは日本の高校に飛び級はない。あったとしても、馬鹿が飛び級はおかしい。


「なんか失礼なこと考えてない?」


 勘だけは鋭い馬鹿が、懐疑的な視線を向けてくる。迫力など皆無なので痛くも痒くもないが、凪のご機嫌斜めは一日中続くことがあるので、早々に対処した方が得策に思えた。


「唐揚げ、サバを一口くれるならいいよ」

「マジっすか!」


 瞳を輝かせた凪が、椅子から立ち上がらんとする勢いで身を乗り出す。

 表情の変わる速度に苦笑しつつ、唐揚げの一つを空いている小鉢に置いてやった。


「しかも一つ丸ごと!? よっしゃー!」


 お得な交換に、凪がガッツポーズを決める。箸を置け箸を。行儀が悪い。


「ありがとー! 愛してるぜ詩織!」


 投げキッスと共に、軽薄に想いを伝えられる。

 愛の言葉にほだされたわけではないが、喜びに水を差すのもなんだか悪い気がして、いさめる言葉は心に留めて、サバの味噌煮へ箸を伸ばす。

 かなり色を付けた取引をしてやったのだから、とサバを気持ち大きめにカットした。


「ぐぅ……ッ!」


 何かをこらえるような音が、凪の喉から聞こえてきた。いや、このぐらい許せよ。

 文句を直接言って来ないのは、凪自身も破格の取引だと自覚しているからだろう。聞こえなかったふりをして、カットしたサバをそのまま口に運ぶ。


「あ、美味しい」

「ヨカッタネー」


 隣の芝の青さに感想を漏らせば、起伏のない声が返ってきた。ご機嫌取りを行った結果がこれと考えれば失敗に見えなくもないが、唐揚げが口に入りさえすればすぐに感情を取り戻すだろう。


「唐揚げサイコーっ!」


 予定通りに事が進んだのを見届けて安心すると、ふと周囲の様子が気になった。

 公共の場でそれなりに騒いでしまった――主に凪が――ので、周りの目が気になる。

 私たちを煩わしい目で見る人間がいれば、軽く頭でも下げておこうと、そう思い周りを見渡したのだが、


『――五日前、凄惨な殺人事件がありました。被害に遭われたのは、三年生になったばかりの男子大学生――』


 こちらを見ている人間は、少なくとも私の視界内には映らなかった。

 ほとんどの人が、壁の少し高い位置に取り付けられたテレビから流れる情報番組に注目していた。

 

 ガタッ、という大きな音が近くからして、肩が跳ねる。

 後ろを振り向くと、椅子が一つ倒れていた。少し視線を上げれば、走り去る女の子の背中が見えて、続いてその子を指しているであろう名前を呼ぶ声が、不自然な静けさの蔓延する食堂に響いた。

 一瞬の静寂と静止を置いて、声を上げた人物もまた、女の子を追って走り出す。

 二人の背中が見えなくなると、凪が口を開いた。


「まだ残ってるのに。もったいない」


 凪の視線は背中が消えていった食堂の出入口ではなく、私の後ろのテーブルに向けられている。

 テーブルの上には、走り去った二人の食べ掛けであろう定食が置きっぱなしだった。


「……凪は、なんともない?」


 私の不明瞭な問い掛けに、凪が他人の定食から目を離す。

 代わりに私を捉えたその瞳は力強さに満ちていて、この場の暗い雰囲気にそぐわない。


「あの先輩が死んで悲しくないか、ってこと?」


 馬鹿で、食いしん坊で、能天気な凪でも、空気を察することは出来るらしい。食堂の陰鬱な空気の原因を、しっかりと理解している発言だった。

 凪はテレビに体を向けると、腕を組みうなる。


「うーん……ぶっちゃけ、全然」


 声のトーンを抑えたのは、周りへの配慮だろう。先輩が殺されてからもう五日経ったが、まだ五日しか経っていないとも言える。先程走り去っていった女の子のように、先輩の死を受け止められず、心を痛めている人物がまだ近くにいないとも限らない。


「お噂はかねがね、って感じだけど、実際に話したことは一回しかないから」


 受ける講義が被らなければ、席が隣にならなければ、同じサークルに加入していなければ、交流などそうそう生まれないのが大学生というものなのかもしれない。

 しかし、そういう枠組みなど関係ないかのように交友関係が異常に広いからこそ、先輩は有名だったんだけども。


「あぁ死んじゃったんだ、って感じ。……あれ? わたしって冷たい?」


 凪が小首を傾げる。可愛らしい所作は、冷たさとは無縁に見える。


「……いや、凪らしくて良いと思う」

「答えになっておりませんが。そんなことないよ、とか否定してよ」


 ぷんすかと頬を膨らませて文句を垂れる凪が面白くて、思わず笑みが零れる。凪も本気で怒っているはずがなく、私に釣られてすぐに笑顔を見せた。


「でも話したことあるんだね。意外」


 明るく、コミュ力に溢れているように見える凪だが、自分から積極的に誰かと交流しようとするタイプではない。

 高校のときから思っていたけれど、友達と呼べる存在は私しかいないのではないだろうか。


「まあ、ちょっと相談をね」

「相談?」

「おいおい。女子がする相談なんて、恋愛相談に決まっておろうが」


 どこか自慢げに薄い胸を張る凪に、女子をなんだと思ってるんだ、とツッコミを入れたくなったけれど、それよりも気になる部分がある。


「恋愛? 凪が?」

「何さその反応。失礼しちゃうわー」

「だって高校でもそんな話一回もなかったし……え、誰? 私の知ってる人?」

「……詩織には、内緒。この秘密は墓場まで持ってくから」


 そう言うと、凪は定食の残りに手を付け始めた。


「うまうま」


 私には目もくれずに、サバの味噌煮とご飯を掻き込むようにして食べていく。

 絶対教えないぞ、という固い意思を感じた。


「ともかく……恋愛相談したことあんだよね。でも、当たり障りない優しーいアドバイス貰っただけで終わったから、ほんと短時間の付き合い」


 凄まじい速度で定食を完食した凪が話を続ける。凪が食べている間、もちろん私も自分の定食を食べていたけれど、唐揚げを一個減らしただけに終わった。


「モテモテだから、色んな恋愛を経験してると思ったんだけどなー」

「……男女関係にだらしなくないから、モテるんじゃない?」

「それもそっか」


 先輩の悪い噂というものを、聞いたことがない。

 イケメンで、誰にでも優しく、常に周りには人が集まる。

 完璧超人、というよりはひたすらに親しみやすい『良い人』。

 それこそ、訃報に誰もがかなしむような――。


『――全身を刃物で三十箇所以上刺されていたそうです。ストーカー被害について友人に相談していたという情報もあり、警察は交友関係を調査し――』


「モテモテって、良いことばっかじゃないねぇ」


 嫌に耳にへばりつく音声に、凪が他人事のような感想を呟く。

 実際、凪にとっては一度話しただけの他人なのだ。大学の敷地内で殺害されたわけでもないので休校になったのは三日間だけで、私たちの日常は変わらず続いている。ショックを受けて自主的に休む生徒はいるだろうが、大半の大学生は、単位の方が大事だ。


「詩織は話したことあるの? あの先輩と」

「ううん。一度もない」

「そっかぁ。まあ接点ないよねぇ」


 凪の質問内容に、安堵する。

 よかった。『会ったことはあるのか』と聞かれていたら、嘘をくことになっていた。話したことは、本当に一度もないのだ。話す間もなく済ませたから。

 親友の凪に嘘は吐きたくない。単純に嘘が苦手っていうのもあるけど。


「交友関係を警察が調べてるってことは、私も色々聞かれたりするのかな? なんだっけ……尋問じんもん?」

「物騒すぎる。事情聴取ね」

「そうそれ。でも聞かれても困るなぁ。恋愛相談しただけだし、名前と評判ぐらいしか知らんぜ」

「まあ正直に答えれば、疑われることもないよ」


 凪も、嘘を上手く吐けるタイプではない。

 しかし凪は、私と違って本当に何も知らないのだ。

 私も、先輩の名前を知っている。彼の評判を知っている。

 そして、誕生日を知っている。血液型を知っている。身長体重を知っている。誰と仲が良いか知っている。県外からやって来たと知っている。運動が少し苦手だと知っている。小説が好きだと知っている。近所のカフェでバイトしていると知っている。好きな飲み物を知っている。住所を知っている。犬より猫派だと知っている。食堂では毎回同じ定食を頼むと知っている。人に頼み事をされると断れない性分だと知っている。妹が二人いると知っている。毎日同じ時間にお風呂に入ると知っている。私のことを知らないと知っている。泣き顔を知っている。短い悲鳴を知っている。


「でもストーカーの犯行かもってことは、先輩に恋してる人間の犯行かもってことじゃん? わたし一応恋愛中だし、恋する乙女の顔しちゃってるかも」

「してないしてない。高校のときから同じ顔してる」

「成長してないって言いたいのかコノヤロー!」

「あはは。まあ警察が顔で判断はしないでしょ。ちゃんと交流のある人間を疑うはずだよ」


 恋心を見抜く警察なんてメルヘンなものが存在すると、困ってしまう。

 私も、恋をしてるのだ。自分では気づかないだけで、乙女の顔をしているかもしれない。


「じゃあ私はもちろん、詩織も疑われないね」


 疑われないはずだ。そう甘くはないかもしれないけれど、警察の立場で考えれば、捜査の優先度はかなり低いはず。

 彼に接触したのも、気持ちを伝えたのもたった一度だけ。喉を切ってからだったから、返事は貰っていない。誰にも見られていない。

 この恋心を隠し通す限り、きっと私は大丈夫。


「……うん。そうだね」


 恋バナというものを、一度ぐらいは凪としてみたかったけど、しょうがない。

 これは、誰にも言えない恋。

 私だけのモノ

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