ハッシュド

有城もと

本文

 止むことのない六月のため息が、窓を濡らしている。

 こんな日はあの日を思い出して、少しだけ笑ってしまう。

 それからどうしようもなく、胸が苦しくなるんだ。

 

  ・ ・ ・ ・ ・


 深夜、黄色い看板のコンビニ。

 彼女が地鳴りみたいなバイクと共に現れたのは、私が全財産をはたいてポテトを注文した直後の事だった。

 その日は間が悪く、私はお風呂上がりに家を追い出されていた。支度をする暇もなかったせいで、つっかけサンダルによれよれのTシャツ、ノーブラ。髪も半乾きのぼさぼさだったし、おまけに出掛けに引っ掴んだ傘は骨が三本も折れていた。

 自分でも随分情けない格好だったと思う。けれど、びしょ濡れのまま店内に入ってきた彼女は私がただの背景になるほど個性的で、衝撃的だった。

「ハッシュドポテト一つ。え、売り切れ? まじかぁ、最悪や」

「しゃあないか。じゃあ百八番一つ。あとライターも」

 少し低い、この辺りの人ではない言葉。フルフェイスのヘルメットから伸びた金色の髪。穴だらけのスキニーデニムと左右でサイズも色も違うビーチサンダル。細長い身体は何故かあちこち擦り傷やあざだらけで、ショート丈の白いキャミソールには赤い汚れが飛び散っていた。

「ポテト、お待ちの、おきゃくさま」

 タバコをポケットにねじ込んで店を出ていく彼女の背後で、少したどたどしい店員の声が響く。

 気がつけば私は、熱々のポテトを握ったままその背中を追いかけるように自動ドアをくぐっていた。

 

 外は、狭い町を打つ水音しか聞こえない。

 星代わりの街灯はぼやぼやと滲んでいて、体中にまとわり付く暑さが重苦しい、そんな夜だった。

 「ええなぁ、めっちゃ美味そうやん」

 唐突な声に両肩が跳ねた。 

 良かったら。なんて声をかけようかと考えていたし、そうしなくとも彼女の方から声をかけてくれるかもしれない。

 そんな予想をしていても、実際そのとおりになると驚きにびくついてしまった。

 顔が熱くなるのは、たぶん気温のせいだった。

「ごめんごめん、気にせんと食べて。美味いよなぁ、それ」

 軒下に並んだ私に向かって、ヘルメットを取った彼女は顔いっぱいで笑っていた。

 同時に、高い鼻から赤い液体がつうっとこぼれ落ちて、キャミソールの胸元にまた赤い染みを増やす。

 その時確かに、一瞬だけ、空から落ちる雫が止まって見えた気がした。

「あの、鼻血、出てますよ」

「うわ、ほんまや! 止まったと思ったのにくそぉ」

「これ……」

「自分ええ子やなぁ、ありがとう!」

 彼女は私が差し出した紙ナプキンをくしゃくしゃの笑顔で受け取ると、乱暴に血を拭ってから千切って丸めた紙を鼻に押し込んだ。そんなもの似合う人が存在する事を、初めて知った。

「で、うちほんまむかついてさ、全部ひっくり返して別れてきたったわ」

「やばいで、あいつの家台風の後みたいなっとったし」

「服とか荷物とか全部そのままやけどもうええわ、いらんいらん」

「殴り返してくる男とかやばない? 絶対やめときや」

「そっかぁ、娘より彼氏かぁ、きついなぁ自分のおかん」

「おかんって言うたらさ、うちのおかんもたいがいで……」

 彼女との話に、私はほとんど笑うだけだった。ポテトは半分になったけれど、空腹とか他のことなんて全部忘れていた。

 少しずつ、少しずつ、夜は遠くへ消え始めていた。


「どやった、初バイクは」

「ほんとに気持ちよかった!」

「そっかそっか、これで女バイク乗りが一人増えたなぁ」

 たった、三分だった。

 濡れた路面に気を使ってゆっくり走ってくれたのに、それでもあっという間に私は見慣れた団地の前に居た。誰かが起きてしまうくらいの低音が、コンクリートの谷に反響していた。

 濡れていて骨ばった背中から離れると、胸に残った温もりは藍色になった空気に溶けていく。それがすごく、いやだった。

「また」「うちさぁ、近々関西戻ろうと思っててさ」

 後ろに乗せて欲しい、言いかけた言葉が喉の奥に引っ込んだ。

「やっぱり、こっちは肌に合わんの分かったし」

「ええ子も、おるけどな」

 雲の切れ間から差し込み始めた日差しの中で、彼女は笑っていた。

 それなのに、黒い塊みたいな団地が作る影が私だけを覆い隠していた。

 二十分かけてもコンビニくらいしか行けない私は、この先何処に行けるんだろう。

 低い話声が、ずっと耳の横を通り過ぎていた。

「家出れたらさ、逆に関西来たらええやん」

「おもろいで、色々」

 その後も暫く、タバコを片手に自分の住んでいた街の話をしてくれた。それから、また地鳴りみたいな音でエンジンを吹かしてスタンドを蹴り上げた。

 「じゃあ、いくわ」と片手をあげる彼女の背中。

 私は結局「また」の先を言えないまま、光を弾いて揺れる髪を見つめていた。

 乾いたはずの顔が、何故かまた濡れていた。


  ・ ・ ・ ・ ・ 


 置いてきたものは、たくさんあった。

 ただ、いつからか細かい事はあまり考えなくなった気がする。

 窓から目を話すと、廊下の奥から私を呼ぶ声がした。

 

「ちょっと、やばい! シャワーとまらんくなった!」

「えー、またぁ? もう止まらんくてもええんちゃう」

「なんでやねん!」

 

 まぁええか、というやつだ。

 降りしきる雨は止まなくとも、それは、それで。


 了

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ハッシュド 有城もと @arishiromoto

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