第5話


 頭が真っ白になる。


 真顔で言い放った彼女は、目が据わった迷惑そうな顔と、頬杖を突いていた姿勢に戻って俺を睨み上げた。


「……何が面白いんだよ全く。これが部長に頼み込んでまでさせる事かい。……おい何をボーッとしてるんだ聞いてたのか? 言えと言ったのは君だろう」


「ああ、いえ……」


「何だよみじかぎたかい? なら量の指定までして欲しかったもんだ。やり直すよ。はあ」


 彼女は迷惑そうな顔のまま嘆息すると、一旦伏せてから目を開けた。


 瞼が持ち上がるその瞬間に、表情が変わる。


 あくまで賞品に従おうとする真面目さからなのか、それとも本気で言っている故の真剣さからなのか、直向きでありながら腹の読めない一本気を放つ。細いシルバーフレームの眼鏡の向こうの目は確かに真っ直ぐ俺を見ているのに、幾ら見ても動物のように何を考えているか分からない。


「うち君の事、めっちゃ好っきゃで。いっつもチェスの相手してくれるし、最後まで諦めへんから。後輩ん中でいっちゃん気に入っとるし、いっちゃんカッコええて思てるよ。……おい何で肩を落とすんだよ。お望み通りのロングバージョンだぞ」


 子供っぽい不満顔になる彼女に、つい緊張の糸が切れて零した。


「……いえ。さっきはみじかぎたので誤解しました」


「ああ、突然告白されたんだと思ったんだろう。男子の頭じゃありがちな夢だ」


 あっさりと放たれた言葉に、思わず繕う事を忘れて瞠目する。


「えっ、わざとですか?」


「ああ、わざとだよ。びっくりすると思って」


 彼女は頬杖を突いていない手で拳を作ると、口元に寄せて肩を揺らした。


「……ふふっ……! 君、今自分の顔が赤くなってるの気付いてないだろ?」


 笑う彼女は、悪意とは対極の無邪気を振り撒く。すぐに責めるような俺の視線に気付いて笑いを堪えた。


「はいはい。二度とからかわないよ。君に彼女がいたら大変だからね」


 少しムッとして答える。


「……彼女なんていませんよ」


「だろうね」


 嘲りも同情も無い、相槌の機能しか持ち合わせていない声で返された。


 不機嫌になっているだろう俺の顔に、彼女はまた面倒そうな目を向ける。


「……何だよそのつまらなさそうな目は。“えぇ〜? 君が彼女いないなんていがぁ〜い。優しいのにぃ〜”とか、君の機嫌を取って私にはストレスをもたらす虚言を吐いて欲しいんなら、世渡りに媚びに用いる女の子に頼んでくれ」


 突然ギャルみたいな甘ったるい調子で喋られてぎょっとした。


 別人が話し出したのかと思ったぐらいの演技力だ。いや、彼女の中学時代の部活は短期間のバスケ部だったし、人より芝居の経験がある訳では無い。……つまり生来の能力なのか? それとも友達にギャルがいて、その人の口調を真似ただけ? 同学年で無いという関係上、部外での学生生活には詳しくない。


 混乱に引っ張られそうになる意識を、何とか繋ぐ。


「……部長こそ彼氏とかいるんですか」


 彼女は動じない。


「ほう。分かり切った事を」


「ならいると仮定した場合、その人の好きな所を挙げて下さい」


 途端に彼女は、露骨に嫌そうな顔になった。


「……何重の妄想だよ」


「突然声が低くなりましたよ」


「いや引いたからだよ。その提案、何だか病的じゃないか?」


「それを関西弁でお願いします」


「キショいな君……」


 普通に傷付いた。男なんてそんなものだというのに。


 曇った俺の顔に、彼女は困ったように空いている手を振る。


「はいはい。分かったよ。勝ったら何でもって約束だからな。やっと先輩から念願の一勝を取った日にやるのがそれかよ……。豚に真珠を寄越したかも」


 頬杖をやめ、足を解きながらぼやいて上体を上げると、視線を前へ泳がせた。


 ……あれだけ真っ直ぐ向けていた視線を外した事や、中々切り出さない所から、多分照れている。


 行儀よく揃えた膝の上で手を組んだ彼女は、やっぱり視線は前へ泳がせたまま口を開いた。


「えー、あー、まあ、一度決めたら曲げへんというのは、男らしくてええんやないでしょうか。今時、芯のある男子って貴重ですし。どいつもこいつもナヨナヨして」


「タメ口でお願いします」


「おい先に言えよ」


 一気に鋭くなった目で睨まれる。彼女の視線を収めるシルバーフレームの眼鏡が、刃物のような眼光を増加させた。


まあ慣れているので動じない。


「急に敬語ですけれど照れてます?」


「まさか。礼儀を重んじただけさ」


「彼氏に敬語を使う彼女なんていませんよ」


「いるかもしれないだろうるさい奴だな。全国の大和撫子に謝れ貴様。……分かった分かったやり直すよ」


 不満そうな目を向けた途端に折れた。


 真面目過ぎると言うか、やや心配なぐらいに従順である。


 眉がすっかりハの字に下がった彼女は、膝の上で組んだ両手を、忙しなく解いたり組み直したりし始める。


「…………」


 お互いが黙った部室に、静寂が横たわった。


 やらないという事は有り得ない。この人は先に宣言していた通り、決して約束を違えない。その証拠に、さっきより酷く目が泳いでいるし紅潮している。……試合中もこれぐらい分かりやすいと、本当に助かったのだが。


 やがて彼女は、沈黙にえ兼ねたように遠くを見たままボソッと言った。


「……一辺倒て笑われても自分を曲げへんとこが、カッコええなあて、思う」


 かと思えば、彼女はそれは凄まじい勢いで頭を抱えてうずくまる。上体を腿に貼り付けるように折ったまま、よっぽど恥ずかしかったのか消えそうな声で零した。


「……いや何なんだよこれマジで……」


 試合中の凜然とした態度とはすっかり乖離していて、他の部員が見たら絶句したかもしれない。



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