早坂慧悟

第1話


 その患者は、名の通った一流企業の社員だった。

 最近、管理部門に異動になってから、どうも様子がおかしいらしい。

仕事中にずっと窓の外を眺めてはため息をつき、最近は上司が注意しても反応すらしないという。

わたしは電話で話しながら、届いたばかりの患者の書類に目を通した。履歴を追う、彼は地方都市の進学校から都内の大学に進学し、今の会社に就職していた。その後、すごいスピードで昇進していて、過去にも大きな賞罰等はない。都内にマンションを構え、外車を乗り回し、妻も子もいる。わたしより若いのに年収は遥かだ。うちへの受診案内がなければ、何一つ問題無い順風満帆な男の人生に見える。

産業医は電話の向こうで言った。

「それで、新潟に住んでいた頃に心を病んでしまったらしいんです」

「履歴書で確認します・・・ええっと、この方が小学生の頃ですね・・・」

わたしは書類を見ながら答える。

「はい。その時、友達が失踪したそうなんです」

「失踪?」

「ええ。仲の良かった女の子が姿を消したそうです」

「そうなんですか・・」

「余程ショックだったんでしょう。以後、彼は一時引きこもりになってました」

「そのことが原因で、今も精神が不安定なのでしょうか」

「原因はわかりません。しかし当時の状況は今で言う、適応障害だったと思われます。心配した親が心療内科に連れていき薬を処方されたと聞きました。医者にかかるほどだったわけですね。」


 電話の話だと、本人はすぐ心療を望んでいるとのことだった。早速、面談のためのスケジュール調整となった。

「わかりました。では早い方がいいんですね、今週でしたら木曜の午後の遅めの時間が空いておりますが……」

診療室で産業医と電話連絡を取りながら、わたしは目の前に開いた手帳のページを手繰ると、赤いボールペンで木曜日欄に意味も無く大きな丸を何重にも記した。季節がらこの時期は他にそれほど予約は入っていない。

「では3時半で……はい、はい…それではお待ちしてます…」

手帳に書いた大きな丸に花マークを添えると、患者の社員の名前をその中の記す。久しぶりの企業案件に気持ちが高まった。

電話を切ると診療室に静寂が訪れた。時計の針は午後7時を指している。こんな時間では、医院の受付パート事務員は既に全員帰っていた。わたしは新規診療者用の書類の準備を終えると、机の上に広げたままの患者の資料を封筒にしまおうと、帰り支度を始めた。その時、封筒にしまった履歴書から男の写真がこぼれ落ちる。私はあらためてその写真の顔を見た。眼鏡をかけ痩せた頬…その男の表情は、どこか翳があり神経質そうな感じがする。すこし前に流行ったある俳優に似ているが名前を思い出せない。そして、その顔が中学校の時に好きだった同級生に似ていることを思い出した。




木曜日の午後遅く、彼の男は医院受付にやってきた。

薄いグレー色の細身スーツに身を包んだその姿は、仕事帰りの会社員にしか見えず、とても心を病んでいる人間のようには思えない。

男は慇懃にお辞儀をすると真っ黒なカバンを床の上に置き、促されるまま目の前の椅子に腰掛けた。男は写真で見るよりも、柔和な顔立ちで若く見えた。

「こんにちは、わたしは心療医の、三柴(みしば)です」

「下楽葉(したらば)と言います。よろしくお願いします」

「それでは、下楽葉さん・・・・」

わたしは初めての診療時のセオリー通り、まず最初に簡単な世間話をすると、彼に生い立ちや家族についての身近ことなから質問を始めた。彼は寡黙だったが、自分のことになるとスラスラ答えた。やがて話は彼の大学時代の事、そして就職してからの仕事の事へと進んでいったが、彼は淡々と質問に答えていた。わたしは彼ととめどないような会話をくり広げていった。

 そして、現在の職場での話が終わる頃になると、彼は顔つきが変わり始めた。徐々に精彩を失っていった彼は、やがて部屋の窓ガラスをジーッと見つめるなり、吶々にこう言った。

「この窓・・」

「窓がどうかしましたか」

「不思議だと思いませんか・・」

「どこか気になりますか」

「窓に空間が遮られているところが……。窓の向こうもこっちの部屋も、同じ世界のはずですよね」

「・・同じ世界ですね」

そう答えながら、わたしは彼が言ってることを理解できなかった。

「それなのに、僕は窓の向こう側の世界に、どうしても行くことが出来ないんだ・・。最近、仕事中もそんな事ばかり考えてしまって」

急におかしなことを言い始めた男に、わたしは統合失調症を予感する。同症によくある妄言パターン…言ってることが少し支離滅裂だ。

「その話、もう少し聞かせてもらえますか」

男に話を促す。

「僕は子供の頃、こうしてぼんやり窓の外を見てました。雪国で育ちましたから、冬は雪が積もって外に出れないのです。窓の外を見ることが唯一の楽しみでした。」

子供時代を思い出したのか、男は少し笑った。

「家の窓は、庭をはさんで道路に面してました。窓から通りすぎる人の姿がよく見えたのです。田舎だから動物や鳥たちなど自然も多く、外の景色に退屈はしませんでした。僕は窓から人を見るのが好きでした。」

わたしは聞いた。

「それは、お友達とか・」

「いいえ、知らないおじさんとか・・勤め人みたいなひととか・・見ず知らずの人です。ただ人が通るのを見るのが好きでした。」

わたしは、彼を少し変わった人と思い始めた。

「そうですか」

頷くと彼は話を続けた。

「そんなある日、窓の外を見ると、知らないおじさんがうちの庭を歩いてきました。うちに用事があるのかと思い、外に出ました。しかし、おじさんはどこにもいませんでした。 」

「はい…」

彼が何を言いたいのか分からなかったが、彼は話を続けた。

「その時、ふと思ったんです。もしかしたら窓の外の景色は、窓を開けたり外に出たりすると違うものに変わってしまうんじゃないかと…。僕が窓越しに眺めてるときだけ存在する世界なんじゃないかと。部屋に戻ったとき、それは確信に変わりました。」

「部屋に戻ったとき、なにかあったのですか」

「部屋に戻ってまた窓を見ると、さっきのおじさんが窓の外にいるのが見えて、こっちに近付いてきたのです。僕はいそいで窓の鍵を閉めました。カーテンをとじると、怖くなってそのまま親が帰って来るまで押し入れに逃げこんでました。それ以来、わたしは窓の外について詮索する事をやめたのです。」

それは不思議な出来事、というより妄想に近かった。子供の頃に、こんなせん妄に憑りつかれていた人間は、いったいどんな大人になってしまうのか。わたしは精神科医師として心が寒くなるのを感じた。

「それでは、もう窓の外のことを気にしなくなった訳ですね」

わたしの言葉に彼は笑いながら言った。

「いいえ、その逆です。」

「・・・というと」

男は眼鏡の縁をずりあげ言った。

「窓のむこうの世界を、もっと尊重するようになったのです。」

「窓の『むこうの世界』・・・」

私は一瞬言葉を失った。

「窓の向こうの世界は存在します。窓ガラス1枚隔てて、こっちとは全く違う世界になってます。だからその存在をより注視することにしたのです。」

「そうですか・・」

職業柄、わたしは過去にもこういった独白を患者から受けたことがあった。しかし、いまの彼の話は独特すぎて少し気味が悪い。話の辻褄が合わないのに、やけに理路整然とした印象を受けるのも不気味だった。まるでこちらの窓に対する認識が間違っているようにも思えてくる。

話を変えなくては・・・。一方的に、彼の歪んだ認知に関する話をされても、問題解決への道筋とするには、埒が明かないと踏んだ私は、何か話題を変える端緒を探そうと、先日心療に前立ち、彼の産業医と電話でやり取りした内容について思い返していた。

そして、産業医から聞いた、あの女の子の失踪事件の話を思い出すと、この女の子の失踪が彼のメンタルに何かしら影響を与えたのではないかと考えた。

「ところで雪国にいた頃、あなたの知ってる女の子が突然いなくなったと聞いたんですが」

私の質問に、彼は淡々と答えた。

「ああ、ミヨちゃんのことですね」

そういうと彼は、眼鏡の縁を触った。

「当時の事、詳しくおぼえてますか」

わたしの問い掛けにしばらく間があったが、彼は答えた。

「はい、彼女、帰宅途中に急にいなくなってしまって。可哀そうな女の子でしたね、今思えば」

産業医が言っていたほど、彼にはそのことを気にしている素振りはなかった。わたしは少し拍子抜けした。

「同級生だったんですか」

「そうですね、たまに道ですれ違い、見かける程度でしたけど。」

彼は特に女の子には印象が無いようで、そう答えていた。彼にとっては、窓の外の世界の方がより深刻・重要なようで、この過去の出来事については特に関心は無いように思われた。

こうして彼との初診面談は、ものの40分も経たずに終了した。そして彼は、来月も同じ木曜日の午後に、ここに来ることを約束したのだった。



翌月の木曜日の午後に、男は約束通りの時間に医院を診療に訪れた。前回よりも早い時間だったが、この日は有給を取ったらしく普段着できた。こっちの方がスーツ姿より若く見え印象はいい、とわたしは男の外観を品定めした。

「あれからどうですか、まだ窓の外が気になりますか」

私の問いかけに、男は答える。

「先生に話を聞いてもらってから、かなり良くなりました。仕事場でも窓は気にならなくなりました。たまに自宅でぼんやりしている時に、まだ窓を見てしまうことはありますが、窓に不安感を抱くことはなくなりました。」

先週の初診の際、彼には強迫観念の発生を抑える軽い精神安定剤と睡眠導入剤を処方した。彼はそれを一カ月近く飲んでいて、病状は改善しつつあった。

「そうですか、よかった」

しかし、思いのほか元気そうな彼を見て、わたしは少し物足りなかった。彼の病状が回復していないことを前提に、これからの治療法についてすでに検討をしていたからだ。彼がすぐに快癒したら、この千載一遇の機会は失われてしまう。一流企業の相談案件など簡単に入るものではない。この診療相談がうまく行けば、そこから得られる評判と利益は一般外来の患者とは比べ物にならないくらい大きいものなのだ。

 わたしは自分が構想していた治療法について、まだ2回目の診察であるにも関わらず彼に提言せざるを得なかった。


「窓の外に?」

はじめてその治療法について聞いた彼は、首を傾げて言った。

「そうです、あの窓を打ち破り、窓の外の世界に出ることを疑似的に体験するんです。」

「窓を打ち破るって、どういうことですか?」

「窓ガラスの代わりに、壊れやすい安全な素材で模した物を用意します。それをあなたが壊すことで、抑圧されていた心が解放されるはずです。欧州で有名な、状況体験型の治療法です。」

「窓を壊すという意味が、よくわからないのですが・・・」

彼は明らかに困惑した様子であった。

「あなたは前に、窓の外の世界は尊重すると言ってました。つまり窓の外の世界とこの世界を隔てるのは、窓の外の世界そのものではなく、間にある窓ガラスだけなのです。過去の同じような症例と照らし合わせて検討した結果、あなたには、疑似的に窓を開けたり外に出たりする経験ではなく、元凶となっている遮断物、窓ガラスそのものを壊す経験こそが、必要だと判断いたしました。」

「窓を壊すのは・・・・ちょっと怖いです。いままで窓の外を大切にしてきたので、窓を破壊するなんてことは自分の世界を壊すようなものですから、最悪でしかありません。」

「でも、いまのままでは、症状はよくなっても根治にはなりませんよ。」

「窓を破るくらいなら、このままで結構です。僕はこの病気と・・いや、窓の世界と一緒に生きていくつもりです。」

彼は結局、頑としてこの治療法を受け入れなかった。来月の診療予約は入れたものの、彼は余所余所しく帰っていった。 


 彼との面接を終えて臨床の最終レポートを纏めたわたしは、数日後、医長と話し合いをした。今後の彼の治療のための、新たな設備が必要になったからだ。わたしはこの医長が苦手だった。若いころ、新米の医師として着任した当時、医長から何度か夜の食事にしつこく誘われたことがあった。それを断って以来、どうも関係がギクシャクしていて、わたしの提案する治療法はなかなか認められなかった。今回の件も、すんなりとは通らないであろうと予感した。


「・・・以上の症状から、患者には過去の環境を再現した形で状況治療を行うべきだと判断します。」

レポートの最後に、わたしはそう申し伝えた。

「状況治療・・。欧州で一時流行ったあの疑似体験療法か」

医長が言う。

「はい。ちょうど、アレを治験するのにぴったりな症例だと思います。」

「でも、アレは一種の曝露療法だろ・・危険じゃないのか。」

「実証のとれているマルドック式曝露反応方式で実施します。再現環境は最小限にとどめます。彼のように強迫観念の強い障害治療においては抜群の効果が期待できます。」

「しかし、あの療法は問題があって現在ではドイツ本国でも中止されているはずだが。」

「ですからそこは、アメリカ精神医学会のDSM『精神障害の診断と統計マニュアル』で公開されている 治験レポート" article244 1964 Kroll, J; Pouncey, C (June 2016) "を参考にして、再現して与える環境療域を限定します。具体的に説明しますと、まず使用する窓の素材ですが・・・」


 一時間ほど粘って説明し、なんとか医長より、治療方法と予算の承諾を得ることが出来た。医長も、この療法が成功すれば当医院に新たな業績が加わることは認めざるを得なかったようだ。近年、他の競合する医院の台頭で、企業案件の実績は低迷する一方だった。ここで巻き返しを図りたいと思うのは、わたしだけではなかった。この患者は当医院の将来に光明をもたらす可能性があったのだ。


 しかしその後、この患者からこの治療法への返答は無かった。翌月また心療をする予定だったが、その後産業医経由で仕事がいそがしくなったため診察をキャンセルしたいと彼から連絡が入った。そしてその後も、連絡はなかった。

しかし、予算がおりてしまった手前、わたしは彼のため状況治療の準備に取り掛からねばならなかった。医院の一番奥に、今は使われなくなったせまい物置部屋がある。わたしはここを、治療部屋にした。ちょうど部屋には、ぴったりな場所に窓があった。

準備と言っても、何か特別な治療の機械を買うわけではい。ただ、患者が病気を発症する原因となった環境を再現するに過ぎない。いわばトラウマの再現と言ってもいいこの治療法の最も危険な点はそこにあった。発症に至った要因をそっくりそのまま再現するため、この治療が原因で様態がさらに悪化する可能性もあるのだ。

わたしは新潟の家具メーカーから取り寄せた勉強机や炬燵を部屋に設置すると、内装業者と毎日遅くまでそこに籠り、彼の部屋を細部まで再現すべく作業に没頭していた。


その後、しばらくして医長に呼ばれた。

「あの患者の件は、その後どうなった」

開口一番、こうたずねられる。

「しばらく診察に来れないと連絡がありました」

わたしは答えた。

「じゃあ、状況治療の件はどうするんだ。部屋をあのまま遊ばせておくわけにもいかないんだよ」

「ほぼ設備は完成してます。患者の都合がつけば、すぐに治療を開始できる状態です。もうしばらく時間をいただけませんか」

「今月、役所の監察が入るんだ。あんな中途半端な治療設備を見られたら困るよ。とにかく、監察の日までに、もとの部屋に戻しておいてくれ」

 わたしはそれに従い、すでに出来上がってる部分をシーツで覆うと、部屋を元に戻すことにした。設備と言っても、そこには部屋の一角に学習机と炬燵が置いてあるだけなので、シーツで隠せばただの休憩室にしか見えなかった。

 あの設備は、監察で特に何も問題にならず、部屋が開けられることもなかった。わたしに強く提案され予算を炊きつけられた割に、その後、状況治療がはかばかしく進展してないことが、医長の癇に障ったのだろう。監察はただの言いがかりに過ぎなかった、医長は危険性のあるこの状況治療をやめさせようとしていたのだ。わたしはあの患者が戻って来るのを待つしかなかったが、やがて他の診療が忙しくなり、あの患者や部屋に残る設備のことも、すっかり頭から離れてしまっていた。


 それから数カ月して、久しぶりに例の産業医から電話があった。わたしはとうとう診療の取りやめの連絡がきたのだなと思った。

 しかし電話に出ると話の様相はまったく違い、産業医の声は切迫していた。

「至急また、彼(下楽葉)を診療願えませんか・・・。そちらに行くことを強く希望してまして」

「下楽葉さんが、どうかなさいましたか?」

「それが・・・・」

産業医の電話での話では、彼は違うクリニックに通院していたらしい。先週辺りから症状が増悪し、昨日職場でちょっとした事件を起こしたようだった。

彼は仕事中、閉まっている窓から外に出ようとして、それを止めようとした他の社員たちと大騒ぎになったらしい。

「本人は、そちらで前に提案された治療法を受けたいというんです」

「でも、あれから違うクリニックに行かれてたんですよね。当医院の処方とは違う薬を服用していたなら、その薬の影響が消えるまでうちでは診ることは難しいですが。」

 わたしは、彼が手に負えず、そのクリニックから施設への入院でも薦められたのだろうと推測した。つまり、精神病院行きだ。もしそんな状況になれば、会社としては外聞も悪いし、優秀な社員を失うことになり影響が大きい。

あれからろくに診療にも来ず、薬の服用も中断してるのだから悪くなるのは当然のことだった。

電話の向こうで、産業医は言った。

「・・・もし今回受け入れてくれるのであれば、そちらと正式に契約を結び、今後も当社専属の心療施設として利用していきたいと、人事のほうも申しておりますが・・・」

その言葉に、わたしの態度は一変した。なんて大きな魚を釣り上げたことか。わたしの直感は正しかった。わたしは小躍りしたい衝動を抑え、冷静な声を装い言った。

「・・・・わかりました。そこまでお困りでしたら、当医院としても、ほっておく訳にはいきませんから。取り敢えず、面談希望日だけ先にー」


そして、その数日後。ひょっこり、あの男が医院にやってきた。

見た感じ、前回来たときとそれほど変わっていなかった。電話で、産業医が

伝えた感じとは全然様子が違う。仕事帰りだろうか、この前と同じく高そうなスーツを着ている。

目の前に座ると男は言った。

「色々聞いたと思いますが、あれからだいぶ落ち着かなくなりまして・・・」

そう言って、しばらくこちらに診療に訪れなかったことを詫びた。

「あれから、職場で上司が変わってしまって。今度の上司は、仕事に厳しい方だったので、前のように半休してここに来れなくなってしまったのです。土日も仕事の整理で会社に行くことが多くなり、気付いたら前回からこんなに時間が過ぎてしまいました。」

その話を、全部信じることが出来ず、わたしは聞いた。

「どこか別の医者に行っていたと聞いたんですけど・・」

彼はバツの悪そうな顔で言う。

「大学の知人で、会社近くに開業した医者がいるんです。そこには、前から不眠症の薬だけもらいに行ってました。治療とかそういうのではないですよ。」

聞いた話とだいぶ違う。どうも産業医が、この件を放置していたんではないかとわたしは疑り始めた。

「会社から、ここに来るように、今まで指示とかなかったんですか?」

「会社の方からは、普通に仕事ができるのなら、もうあそこに行く必要はないんじゃないかと言われました。逆に行き過ぎると、薬漬けから抜け出せなくなるよと忠告されて、自分も、いつも貰っている不眠症の薬だけで大丈夫だと思っていたのです。先生にはいろいろと準備していただいてたのに申し訳ありませんでした。あの時聞いた治療法について、今さらながらよく考え、受けてみようと思ったんです。」

「窓をうち破る、あれですか」

それは、わたしが提案したものだったが、それから時間もだいぶ過ぎ、準備した設備も埃まみれになっていて、いまさらという気持ちが私の中にはあった。

「はい。あの時は怖く感じましたけど、やはりいつかは打ち破らねばならないと思ったんです。これから世の中で普通に生きていくためには、越えていかねばならぬひとつの壁だと思います。」

「そうだったんですか」

わたしは、彼の説明にいまいち腑に落ちない所もあったが、こうしてこのクランケが戻ってきたことについては、受け入れざるを得なかった。しかも今回は、彼の勤める企業との専属契約がおまけでついてくる、わたしはこれからの彼の治療を万全にするため、彼からいろいろ詳しく話を聞いた。

「まず・・・・飲んでいた睡眠導入薬についてですが、どんな名前の薬ですか、お薬手帳、ありますか?あと、その医院の名前なども・・・・」

 調べたところ、その薬も医院も、特に今回の治療法を受けるにあたっては、問題になりそうではなかった。わたしはその事について、カルテへの書き込みを終了すると、今度は、先日職場であった「事件」について聞いた。

「それでは本題に入ります。あの日、職場でなにがあったのですか?なぜ閉まった窓から外に出ようとしたんですか?」

彼は静かに語った。

「あの日仕事場で・・・久しぶりに窓を見たら、・・・いたんです・・・・」

「いた、何がです?」

「それは・・・・言えません・・・・わかりませんから」

「わからない?でも、あなたはなにかを見たんですよね」

「はい、見ました。しかし見えた瞬間、頭の記憶にシャッターが下りてきて、分からなくなったのです。その時僕は何かを助けようとして、自然に体が動いてしまったようなのですが、気が付くと会社の医務室で寝ていました・。」

この話を聞かされ、自分はこれから彼を治療すること危惧を抱いた。今、状況療法を彼に行うのは、危険ではないか。

「そうですか、でも、しばらく薬物治療で様子をみてから、状況治療を受けるという方法もありますが」

わたしの言葉も歯切れが悪い。

彼はそれを察して、こう言い切った。

「僕にはもうこれいかないと思っています。たとえ薬で落ち着いても、それは一時的なものです。これからも、絶えず窓におびえて生きていくことはできません。先生、あの治療をぜひ受けたいんです。お願いします。」

 医長も、この会社から専属契約の話が出たことを知っていて、最近態度を変えていた。昨日もわたしに、もっと広い診療室を使うか、とか、予算をもっと増やそうか、などと急に厚遇してきて気味が悪かった。まったく現金なやつだ、さらに嫌悪感が増す。

しかし、最終的にわたしの心を動かしたのは、この患者の状況治療を望む強い言葉、その固い意志だった。彼はもう、自分にはこれしかないと知っている。またここで、もしこの前みたいに症状が一時的に寛癒すれば、彼は二度とこの治療法を受ける機会はないだろう。つまり、逆に彼の意思が固まった今しかこの病気を根治する機会はなかったのだ。

「わかりました」

わたしは、彼へこの治療法を行うことを決めた。

「それでは、この同意書を読んで、確認をいただいてから、サイン願います。まず、今回の治療方法である曝露反応施術についての説明ですが、この・・」

私は準備しておいた、「状況治療法(曝露療法)についての同意書(ただしマルドック式曝露反応療法に限る)」と長い題名の記された、数ページにわたる同意書の説明を始めた。そして、最後には彼からサインをもらった。

「・・・・それではこれから、状況治療に向けた準備期間に入ります。あなたには、一週間後の施術日まで、毎日この精神安定剤を飲んでいただきます、また今後お酒やたばこや刺激の強いものの摂取は禁止してー」


1週間後ー。

男が例の治療室に入ると、その一角に、彼の少年時代の部屋が再現されていた。

それはわたしが数か月前、苦心して作り上げた部屋だった。

物置部屋の、半ば埃を被っていたシーツを取り払うと設備の備品はまだ綺麗なまま残っていた。それを再び設置し直し、なんとか施術のこの日まで準備を終えることができた。

 勉強机の横には、当時人気だった読売ジャイアンツ選手のポスターが貼られている。小さな炬燵の上にはファミコンと当時のお菓子まで置かれていた。

「ここに再現したのは、あなたの精神の原風景そのものです。この部屋に見覚えありませんか、懐かしいでしょ。あなたの子供の頃の写真を見て、部屋を再現したんですよ。」

「これはすごい。炬燵の上のミカン籠の位置や、机の傷までちゃんと再現されてます。これは、あの頃の僕の部屋そのものですよ。」

彼はとくに、特注で作った窓枠に驚いていた。

それは特注の軟状ゴムでつくった偽物のガラス窓だった。

「本物に見えるでしょ。それゴムで出来てるんですよ。あ、触らないでくださいね、内側からの力で、すぐに壊れてしまうから」

私が説明すると、彼は言った。

「すごいですね。ツヤといい、ぱっと見、本物のガラスにしか見えません。」

「これは偽物ですから、手で簡単に破ることが出来ます。この前の説明通り、今日はこれをあなたに破ってもらいます。」

彼はしげしげと、このよく出来た模造ガラスを眺めていた。


そして状況治療は始まった。

「それでは、当時の環境を再現します。その時あなたは部屋でどうなさってましたか。」

部屋の片隅の指令ブースに座ったわたしがマイクで聞く。

「炬燵に入って窓を見てました」

「では、炬燵に入ってください。窓の風景を、お願いします。」

わたしがマイクで合図すると、窓の外の職員が、大きなスクリーン状の立てかけにスイッチを入れた。それは最新式の超薄型電子液晶パネルで、彼の郷里にある実家の部屋からの風景が映し出された。

部屋の中からは、完全にそれは外の景色のように感じられる。

炬燵に入ってそれを見ていた彼は、窓の景色のあまりのリアルさに声をあげた。

「本物です。これは本物の自分の部屋からの風景です」

当日のように、風が窓に当たる音もスピーカーから再現させる。

「先生、見えます、当時の風景が見えます。はっきりと・・・」

彼は興奮して言う。

この状況療法を見学している他の医療スタッフも、現場の様子を固唾をのんで見守っていた。その中には、あの医長の姿も見える。

「下楽葉さん、当時の事をよく思い出して、その通り行動してください」

わたしはマイクで彼に指示をする。

すると、彼は窓を見つめ、微笑んだ。彼には何が見えているのか。

そして、彼は炬燵から這い出すと窓の方に寄った。完全に過去の世界に意識は戻っていた。

窓の前で誰かと話をしている様で、しきりに窓に向かってなにかを言っている。わたしは、彼の胸に付けた小型マイクのボリュームを上げた。

「・・・・そうなんだ。葛城さん、明日行っちゃうんだね、学校でもそのこと言えなかったね・・・ごめんね、うんうん・・・さよなら・・・」

同級生と話していたのか、子供口調で彼は残念そうにそう言うと、しばらくだまってそのまま窓の外を見ていた。

しばらくして、窓を見ている彼の表情が急に固くなった。

いままで微笑んでいたのと、打って変わって、何かを見ておびえてるような表情だった。

「葛城さん、どうしたの? えっ、そのおじさんだれ?えっ、えっ?」

顔がみるみる青ざめてくる。わたしは固唾をのんで見守った。

窓の外の誰かに何か言われたのか、男はなにかにビビり、震えながら何度も頷いていた。

「・・・・・わかりました。だれにもいわない・・・だから、ころさないで・・たすけてください・」

泣きながら小声で彼は言う。場内がざわめく。

あの呆然としている顔、あの初めてきた時の表情に近い。これがこの患者のトラウマの正体か。

ここが分岐点だと、わたしは確信した。

この時、彼が窓の外の世界に対し行動を取らなかったため、その後何年も彼はそのトラウマに囚われ苦しんできたのだ。

わたしはマイクに向かって彼に強く言った。

「下楽葉さん、窓の向こうに何が見えますか」

「うん・・・・・」

彼は子供のように泣きながら答えない。

「下楽葉さん、何がいます、答えてください」

「ああ!もう行っちゃう、いっちゃう、ああ、どうしよう、助けて」

「下楽葉さん、何がいますか?」

「ああ、葛城さんが連れてかれちゃうよ、誰か助けて、あああ」

わたしは、もう窓を打ち破るときと判断した。このまま見えてる対象が窓から消えれば、彼はまた窓のこっちに留まざるを得なくなる。

いまこそ窓を打ち破り、境界を無くす時だ。

「下楽葉さん、窓の向こうに行きましょう!!窓をぶち破って、追いかけましょう!」

「・・う、うん・・・・で、でも、・・・・」

目の前、ぶ厚い窓ガラスを見て、彼は躊躇する。

わたしはマイクで再び言った。

「さぁ、窓を打ち破るのです!窓に飛び込んで!」

「う、うん!・・・・」

わたしは、なにか嫌な予感がした。

彼は2、3歩後ずさりそこから助走すると、そのまま窓に頭から突っ込んでいった。


ゴスン!!!


しかし窓は破れなかった。

窓に勢いよく頭をぶつけてよろめくと、彼はそのまま床に斃れた。

口から泡を吹き、全身を痙攣させている。

「おい!救急、急いで!!」

それを見ていたスタッフが駆け寄ると、医長が大声でいった。

思わぬ事の成り行きに、わたしは呆然と立ち尽くす。

・・・なんで、なんで、あの窓が破れなかったのか・・・・特注の軟状ゴムで作った筈なのに・・・・・!

わたしは、彼が頭を打ち付けた窓に駆け寄ると、窓を調べた。

そして真実を知る。そこに填めてあるのは分厚いもとの窓ガラスだったのだ。


男は脳震盪を起こし、そのまま医院の緊急外科室に搬送された。幸い、大きな外傷などはなかったが、大事を取り1日入院することとなった。

当然のことながら、翌日わたしは医長を始めとする医院幹部に査問会議という場に呼び出された。わたしが選んだ治療法でアクシデントを起こし、患者にケガを負わせる事態となり、詳しく事情を聞かれたのだ。部屋には医長の他、病院の理事や役員も揃っていて、わたしは完全に悪者扱いだった。


「なんで、窓のガラスが本物だと気づかなかったのかね。事前にちゃんと確認

しなかったのか」

医長はわたしの責任を明確にしようと強い調子で詰問した。

「わたしの確認が不十分だったのは認めます。しかし、窓ガラスがまだ軟状ゴムのままだと思ってました。もとに戻したなら、一言こちらにも連絡がほしかったです。」

わたしは自分の非を認めながらも、そう不平を述べた。後でわかった話だと、あの偽のガラス窓は防犯上の懸念から、医院の総務部門の者が勝手に業者を呼んで、ガラス窓に戻してしまったようだった。

わたしの反論に医長は言った。

「あの時、きみの話だと、もうあの治療室は使わないとの話だったじゃないか。あんな風に医院の窓ガラスの一部をいつまでもゴムのままにしておける訳ないだろ。」

「いえ、ですから元に戻したなら戻したと知らせて頂きたかったと言ってるだけです。医長も、再びあの患者に部屋を使って状況療法をする事に合意されたじゃないですか、窓ガラスを戻したことは知ってましたよね、なぜ言わなかったのですか」

「なんだその言い草は、まるで治療を許可した俺のせいだとでも言いたげな態度だな。立場を分かってるのか、きみは。だいたい、こんな危険な施術を―」

お互いに言ってることが平行線をたどる中、今まで黙って座っていた古老の理事が医長の発言を制して言った。

「まあまあ二人とも。まあ今回は、三柴先生の方にも思い込みや行き違いが多々あったんでしょう。しかし先生の当初の思いは、新方式の治療法で当医院の顧客実績を上げようとしたものです、その点は大いに評価すべきだと思います。 しかし、結果としてこんな事態になったのだから、その点は猛省しなければなりません。まぁ今後、こういった危険性のある珍奇な治療方法は控える、ということでこの件は締めたいと思いますが、いいですかね。……では次に、当医院から患者に対しての保障についてですが… 」


結局わたしは、その場で責任を問われた訳ではなかったが、今後新たな精神療法の治験は認められなくなるなど、診療上の大きな制約をいくつか受けた。これはわたしにとってはペナルティー以上のものだった。

査問の会場を出る時、わたしはこの医院を辞める覚悟をした。

わたしは査問会議を出たその足で、あの患者のいる病室に向かった。患者は精密検査の結果、特に異常は見られなかったが、大事をとって1日だけ入院をしてもらうことになったのだ。もちろん入院代も治療費もこっちが負担した。

病室に入ると、彼はベッドに腰掛けくつろいだ様子でテレビを見ていた。

わたしは彼に今回の治療法の不備を詫びた。


「まさか本物のガラスだとは思いませんでしたよ、先生も冗談がきついなぁ、ハハハ」

彼は穏やかな様子でそう言った。怒る素振りはない。逆にそれが気味悪く感じられる。

「下楽葉さん、本当にもう大丈夫なんですか?しばらくはこの病室で様子を見ていただいても結構なんですよ」

彼は笑いながら言う。

「いえ本当にもう大丈夫ですから、ここでテレビを見るのは飽きましたよ。問題ないのなら退院したいです。来週からまた会社にいかねばなりませんし。」

「では退院手続きを取らせていただきます。本当にこんな結果になり、申し訳なく思います。」

わたしはまた頭を下げる。

すると彼は言った。

「とんでもない、先生には感謝してるんですよ。あの治療方法のお蔭で思いがけないものが甦りましたから。」

あっけらかんとした顔の彼は言った。

わたしは聞く。

「思いがけない、もの?」

「そう。ある記憶です・・・・」

「記憶?」

「ええ、子供の頃、新潟であの子がいなくなった時の記憶を取り戻せました。ボクの記憶の中にずっと閉ざしていたんですよね~」

明るい表情で彼は言った。

状況治療法は禁止となっていたので、彼があの治療法により何を取り戻したのかは、詳しく精査して臨床的に調べることはもう出来なかった。しかし、彼の話から、窓ガラスに頭を打ち付けた時の衝撃で、いつもならシャッターが下りて消去される窓の外の記憶が消えずに残ったことが推察された。そうなると、窓を破る疑似経験より、あの事故がショック療法として作用し、有効な結果を残したといえる。患者の身体に衝撃やショックを与えて精神治療する方法は昔はよくとられていたが、現在では行うことの出来ない治療法である。しかし近代以前の古い治療法にもまんざら効果がなかったわけではないと、わたしは思った。


そのあと彼が語った話の内容について、わたしは終生忘れることはないだろう。


彼の話した内容は以下の通りだった。


~新潟の実家で自分の部屋にいたあの日、小学生の友達の 葛城美世(みよ)という女の子の友達がいたらしい、彼はミヨちゃんとよんでいた。家が近いので、下校途中に彼の家ノ前をよく通り、そのうち彼の家に寄って話をして帰る仲だったようだ。そんなミヨちゃんが、ある日引っ越すことになり別れの挨拶をしに下校途中彼の家に寄ったらしい。彼はミヨちゃんと何時ものように窓越しに少し話して別れの挨拶もした。異変が起きたのはそのあとだった。彼の部屋の窓の向こうから去っていったミヨちゃんが怯えるようにまた戻ってきたのだ、後ろから見知らぬ男が走ってくるとこっちにやってきた。ミヨちゃんは窓を叩きながら助けを求めたらしい。しかし、背後から男がミヨちゃんを捕まえてしまった。

男はこっちに気づくと窓の向こうから開けるように言った。彼が恐る恐る少しだけ窓を開けると言った。

「父親です。言うことを聞かないので連れていくところです!」

ミヨちゃんは、ちがうちがうと泣き叫んでいたようだ。男は言った。

「きみ、この事は誰にも言ったらダメだよ、言ったら、今度はきみを殺すからね」

そういって内ポケットから折り畳み式ナイフを取り出すと目の前に突きつけたそうだ。

「いいね、わかったね。」

そう言って窓をピシャッと閉めると、ミヨちゃんを抱えたまま去っていったそうだ。

あまりの恐怖に彼は窓にカーテンを閉めるとそのまま親が帰って来るまで押し入れに逃げて哭いていたそうだ。あれはミヨちゃんのお父さんなんだから大丈夫だと思いながら。

それからミヨちゃんが行方不明になり、ミヨちゃんの両親や警察が家に来ていろいろ聞かれた。彼はその時ミヨちゃんのお父さんと初めて会い、あの男がミヨちゃんの父親なんかではなかったことを知ったが、ナイフで脅された恐怖からなにも本当の事を言えなかったのだという。そして幼いながらも自責の念に駈られた彼は、その後、徐々に心を壊していった。そして以後の人生では、その記憶を無意識に封印してしまったらしい。

あまりにも後味の悪い話だった。

しかし、もしかしたら、それは彼の記憶違いや妄想かもしれなかった。なにしろ子どものときの記憶だから、そういうことはよくあるものだ。わたしはそう言って彼を宥めながら、その独白を聞き流すより他なかったのだ。

「このことを話して、やっと楽になれましたよ先生」

最後にそう言うと、男は医院を去って行った。そしてその後、彼はこの医院に来ることは二度となかった。なぜなら、その数日後に彼は地下鉄に飛び込んで自殺したからだ。


わたしは、彼が死んですぐに、医院を退職した。彼の死への罪悪感が無かったといえば嘘になるが、それよりもわたしは、あの治療法が失敗したことで、医院への道義的な責任をとりたかったのだ。

退職後わたしは、彼が記憶を取り戻した件について考えていた。あのとき、彼が窓ガラスに頭を打ち付ける直前まで、治療は順調に進んでいた。なにか、頭を打ち付ける以外の、代替的手段があればこの治療法の実用化への道が開ける気がした。

退職してからのわたしは、すぐにまた仕事をする気は起きず、しばらくは学生時代に戻ったように図書館や大学に通っては、この件を一日中研究して毎日過ごしていた。

そんなある日、大学からの帰りに町を歩いていると、目の前のビルの窓に、誰かが立っているのが見えた。

よく見るとそれはあの患者、下楽葉の姿であった。地下鉄に飛び込んで死んだはずの男が、薄ら笑いを浮かべてこっちを見ていた。

唖然としてしばらく見つめていたが、私は踵を返すと大学まで戻ろうした。

きっと、疲れているのだ。下楽葉の幻覚を見てしまうなんて。

彼の死は自分の中では大したものではなかったが、深層心理ではショックを受けていたのだろうか。

しばらく歩いてから、おそるおそる振り返ると、ビルの窓に人影は見えなかった。あの患者の姿などどこにもない。

見間違えか、これなら大学に戻って休む必要もなさそうだな。

わたしは、また元の駅の方向に向かって歩こうとした、その時。

こんなことが・・・・・・・・・・・。

あまりの恐怖に体が硬直して動かなかった。気付くと、今度は目の前のビル一面、窓に人が立っていてこっちを見ているのがわかった。その顔にわたしは見覚えがあった。それは、私が今まで実験的な治療をして、心を病んだ患者たちの姿だった。彼らはその後命を絶ったり隔離施設に入院させられたりしていてそこにいるはずがなかった。わたしは幻覚でも見ているのだろうか。

ちょうど真ん中にさっき現れた下楽葉がいて、こっちを見て笑っていた。

自分は無意識に口走る。

「みんな、窓の向こうから、話していたんだ・・・・」

そのことに気づくと、今までしてきた治療が可笑しく感じられた。自分のやってきた治療はなんだったのだろう。自分の名声のために彼らを利用して新療法を試し、患者の人生をスポイルしていたに過ぎないのではないか。それは治療行為と言えるのだろうか。

そんなことを考えながら、いつしかわたしは歪んだ笑顔を作っていた。

フフ、フ。

あまりにも自分のやったことがおかしくて、思わず頬が緩む。

ビルの窓の向こう側でも、みんなが歪んだ顔で笑ってる。

アハハ!アハハハハハ!

その様子を見て、さらに大声で笑う。

みんなも大声で嗤っている。

アーハハハハハハハハーーーー・・・アアアアアアアアアア!!

笑い声はやがて叫び声となり、あたりに響いた。

道行く人たちが、わたしを怪訝な顔で振り返る。

しかしわたしには、この沸き上がる笑いを止めるような理性はもはやなかった。

(村田基 作品 改題)


              [終]




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早坂慧悟 @ked153

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