恋よりも恋に近しい

尾八原ジュージ

りほさん

 父の葬儀で、初めてあなたに会った。片親になったわたしと、元よりひとりぼっちだったあなた。母親を亡くして中卒で働いていたあなたを、わたしの母は突然引き取ると言った。

 あなたは父の愛人の娘で、つまりわたしの腹違いの、同い年の妹だった。

 母はあなたを全寮制の高校に通わせた。だからあなたとふたりで暮らした記憶はほとんどない。ごく稀に用事があって家に来るあなたはあくまでお客様扱いで、長時間滞在することもなかった。わたしはあなたの顔を見ながら、目元が父に似ているなと思った。

 母はあなたに淡々と接した。わたしに対するような態度でなかったのは当然として、あれは母の精一杯だったのだろうと思う。母があなたを虐げたことはなかったはずだ。そして、わたしの前であなたやあなたの母親を悪し様に罵ることもなかった。わたしも母も、あなたのことは常に「りほさん」と他人行儀に呼んだ。

 あなたは優秀な学生になった。特待生扱いで難関大学に進学することが決まったとき、あなたはその日のうちにそのことを母に報せた。あのとき母が電話越しに微笑んでいたことをあなたは知らない。

 母はあなたのことをあまり語らなかった。ただあなたに罪はないと言っていた。あなたが父の不貞の証だとしても、あなた自身が望んでそうなったわけではないのだからと。わたしは母が、童話に出てくる継母のようにあなたを虐げていたならどうだったろうと考えたことがある。何度も何度も考えたことがある。あのときの気持ちはなんだったのだろう、未だに上手く名づけることができない。

 わたしは凡庸そのものだった。それでもそれなりに満ち足りていたし、あまり交流のなかった父はともかく、母の愛情を疑ったことはない。おそらく、一度も。だがあなたの存在は心の中にいつも、ひっそりと、指に刺さって抜けなくなった棘のように感じていた。


 ほとんど交流のなかったわたしたちが思わぬ場所で出会ったのは大学二年生の夏、所属していたサークルの集まりで他大の生徒が大勢やってきたときのことだった。わたしたちはまるで運命に導かれるように同じテーブルに案内された。

 ひさしぶりに会うあなたの顔はどこか線が柔らかくなり、笑顔が増えて美しくなっていた。わたしは「うそでしょ、りほさん」と呟き、あなたは「祥子さん。わぁ」と応えた。

 その日はふたりだけで話す機会に乏しく、しかし思いがけない邂逅にわたしたちふたりは興奮していた。だからわたしたちは後日、あらためてふたりで会うことにした。集まりの最中、わたしはあなたのことが気になってしかたなかった。あなたもきっとそうだったのだろう。わたしたちの視線は黙ったまま何度かぶつかりあった。あなたはもの言いたげにわたしを見つめ、きっとわたしも同じような顔をしてそれに応えた。

 後日わたしたちは駅前の喫茶店で再会した。紅茶を飲みながら、あなたはわたしの母に感謝していると言った。母のおかげで一年遅れで学校に通うことができ、人並みの学生生活を楽しんでいると。本当なら憎まれても仕方がない立場なのに凄いひとだと言った。わたしは、母はそういうひとだと答えた。妾の娘(とはもちろん言っていないが)を虐げるようなことは、母は嫌うだろう。かえって愛人に負けたように思うのだろう。そういえば、あなたが今の大学に合格したとき母がとても喜んでいたと、わたしはあなたに教えなかった。意図があったことではなかったけれど、教えてあげた方がよかったのだろうかと今は思う。

 あなたはわたしのことも褒めた。祥子さんもこうしてわたしに普通に接してくれる。恨まれても仕方ない立場なのに、冷静で優しいひとだ。先日サークルのイベントで会ったときも、発言が的確で堂々としていたので格好いいと思った、などと。

 わたしはあなたの明るい表情を浮かべた美しい顔を、すらりとした首や手を見ていた。あなたの通っている大学の偏差値は、わたしのところよりも高かったはずだ。サークルのイベントで的確な発言をして称賛されていたのはわたしよりもむしろ彼女の方で、そんな事共を思い出しているうちに、わたしの心にはさざ波が不穏な気配を帯びて立ち始めた。それをあえて胸の奥ふかくに押し込んで、わたしはあなたと談笑を続けた。にこにこしながらあなたの話に相槌を打ち、時には会話の主導権を握り、可笑しな話題には声をたてて笑った。

 別れ際、あなたは「楽しかった。また会いたい」と言った。わたしは「もちろん!」と答え、また連絡しようと言葉を交わし合った。喉の奥に何かがつかえたような気持ちがした。


 あなたから連絡がきたのはそれから十日ほど経った頃だろうか。来月そちらの大学に行く用事があるから会えないかというメッセージを、わたしはどう処理したらいいのかわからない気持ちで見つめていた。

 あのときとは打って変わって、ふたりきりで会うのが億劫に思えた。このメッセージを無視できないわけではない。あなたになんか会いたくない、立場をわきまえてほしいと突っぱねることもできなくはない。でも結局わたしが返した言葉は「午後三時以降だったらいつでも」だった。

 一度会うと決めてしまうと、あなたとの約束はわたしにとって一大事になった。何を着ていこう。会えたら何を話したらいいだろう。わたしはあなたに会うまでの何日かを、そんなことばかり考えて過ごした。まるで片思いの男の子と初めてふたりきりで出かけるときのようだった。

 二度目の約束もまた穏やかで楽しいものになった。おそらく周囲からは、ごく普通の友達同士がおしゃべりをしているように見えただろう。あなたは教育学部で教師をめざしているのだと言った。私みたいな家庭環境の人が教職なんておかしいかなと言うのをわたしは否定した。事実あなたのことは立派だと思った。でもあなたがすぐれた人間であればあるほど、わたしは自分がつまらないもののように思えてしかたがなかった。もしもあなたがわたしの立場であったなら、と口には出さずに思った。あなたが正妻の娘であれば、何の引け目もなく日々を過ごすことができたのではないか。なのになぜそうはならなかったのだろう。運命はどうしてわたしたちの生まれる場所を分けたのだろう。どうして。

 大学の食堂で冷凍のケーキを食べながら談笑したあの日は、やけに美しくて、わたしの胸に今でも写真のように焼きついている。「そろそろ帰らなきゃ」と言って立ち上がったあなたに、食堂の天窓から夕陽が差し込んでいた。あの一瞬は映画のワンシーンのようだったと今でも思う。

 あの日わたしは、わたしたちはまたこんなふうに会うだろうと思った。今度は学園祭に来たら、と誘いもしたし、あなたもいいね、と答えたことを覚えている。

 あなた。りほさん。

 まもなくあなたとは連絡がとれなくなり、そしてあなたが大学をやめたと母から聞いたとき、わたしは言葉を失った。学生食堂で話したあの日、あなたのお腹の中には小さな命が宿っていたのだという。駆け落ちしたんだってと言った母の冷たい顔を、わたしは忘れることができない。その顔を見つめながら、わたしはなぜ、と考えていた。

 なぜそんなことをあなたはやってしまったのか。そういえばあの日、わたしたちは恋愛に関する話を一切しなかった。あなたが妻子ある男性を愛してしまったことを、あなたがわたしに語ることはなかった。あなたはあの日、わたしと話しながら一体何を考えていたのだろう。

 なぜか胸がひどく痛んだ。わたしはあなたを恨むべきなのだろうか。軽蔑すべきなのだろうか。どうすればいいのかわからなかった。わたしが知る限り、それ以来母はあなたの話を一度もしていない。


 あなたらしきひとに再会したのはそれから十年後、わたしが夫と生後十一か月の娘と共に実家を訪れたとき、駅のロータリーであなたによく似たひとを見た。

 そのひとはひとりで立っていた。子どもも大人も連れていなかった。行きかう車とガードレールの向こうからこちらを見る女性は、やっぱりりほさん、あなたに似ていたと思う。

 そのときわたしたちは、まるで渡ることができないほど広い川に隔てられているかのようだった。もし本人ならば実年齢よりも老けているように思う、あなたによく似た人の女性を見て、わたしの胸はひどく痛んだ。そこにまだ抜けていない棘があったことを突然思い出したかのようだった。

 路線バスがやってきてあなたらしきひとの姿を隠し、次にバスが発車したときにはもうそこには誰もいなかった。突然肩を叩かれて振り返ると、娘を抱っこした夫が不思議そうな顔で立っていた。

「どうかした? ぼーっとしてたけど」

 尋ねられて、わたしは「なんでもない。知り合いに似たひとがいたから」と答えた。心の中はあなたのことでいっぱいだったけれど、そうやってとりつくろった。本当は泣きたかった。心が嵐のように荒れ狂っていた。

 あなた。りほさん。なぜだろうか、今ひどくあなたに会いたい。この気持ちは恋に似ていると思った。決して恋ではない。でもきっと私が今までしてきたどの恋よりも、この痛みはずっと激しい。

 やがてロータリーに母の運転する車が到着した。あなたに似たひとがいたなどと言えるわけもなく、車に乗り込んだわたしはみるみる駅から遠ざかっていく。

 りほさん。あなたの名前をひっそりと口の中でつぶやいた。あなたはわたしのことを、どう思っているだろう。わたしにとってあなたは、この胸の抜けない棘だ。おそらくこの先も、ずっと。

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