守護刀【時代劇台本・男性3名】
海野七二郎
うんのしちじろう。岩戸町(いわとちょう)に流れ居着いた牢人。
早矢仕伊織
はやしいおり。岩戸西奉行所(いわとにしぶぎょうしょ)の同心。
水蜘蛛の弦蔵
みずぐものげんぞう。岩戸町へ逃れた畜生働きの悪名高き盗賊。
松五郎(弦蔵役が兼ねる)
岩戸町の博徒。町の顔役を気取っていたが海野に顎で使われる。
語り
各役者が持ち回り。( )で指示。
・・・・・・・
伊織:おい。おるか海野(うんの)。おらんのか。
俺だ、早矢仕だ。戸を開けるぞ。
海野:海野はおらんぞ。
伊織:なんだおるではないか。開けるぞ。
海野:おらん。さっき帰ったばかりだ。おらんったらおらん。開けてはならんぞ。
伊織:急ぎの用だ。開けるぞ。
海野:夜通したっぷり餅をついてきたのだ。どうか寝かせろ。
伊織:また岡場所か。そのうちその鷲鼻がもげるぞ。
海野:その折はいい付け鼻をくれ。儂(わし)は寝る。
伊織:貧乏同心にそんなものを買う余裕はない。
ほれ、開けるぞ。
海野:お前もしつこいな。しつこい男は嫌われるぞ。
伊織:火急の用で参ったのだ、許せ。開けるぞ。
海野:ああついに開けよった。で、何ぞあったか。
伊織:水蜘蛛の弦蔵(げんぞう)がこの街に戻った。
海野:水蜘蛛の。はて、どこかで聞いたか。
伊織:畜生働きの盗人よ。
海野:それは剣呑。大捕物だな。では儂は寝るぞ。
伊織:しかしこの町には同心どころか目付すら足りておらんのだ。
海野:うむ。このところどうも治安がよくない。ぜひともお上に掛け合え。
伊織:海野。事は急ぎなのだ。
海野:また助(す)けろというのか。
伊織:そうだ。
海野:威張るな馬鹿者。ちっとは悪びれたらどうだ。
伊織:この町を守るためにお前の腕を貸してくれ。
海野:お前の頼みでつい先日、ゴロ蒔いてる町外れの博徒どもをのしたばかりじゃあないかよ。
伊織:うむ。東町奉行から礼状が届いたろう。
海野:礼状で酒が飲めるかってえの。
伊織:お前に金子を渡しても安酒を飲むか博打を打つか、はたまた女郎を買うかだ。
礼状の一筆の方がよほど活きるというものよ。
海野:儂が貰った金をどう使おうと勝手だろうが。
伊織:剣客(けんかく)の本質はその剣で何を為すかではないか。
海野:抜かせ。剣は所詮は肉斬り包丁、いいとこ首切りの下手剃刀(へたかみそり)よ。
伊織:海野。そう斜(はす)に構えるな。お前の天稟(てんぴん)は世のために使うべきだ。
海野:うるせえなあもう。そうおだてるんじゃあねえよ。
わかったよ、煮売屋でも叩き起こして豆腐と酒を買ってきてくれ。迎え酒でもやりながら話そう。
伊織:そうでなくてはな。では銭を。
海野:なんだその手は。
まさかお前、一働き頼みにきておいて、儂に払わせるのか。
伊織:貧乏同心に余裕はないといったろう。俺の分も頼む。昨日の昼から何も食っておらぬ。
海野:お前はどこまでがめついんだ。
伊織:たっぷり餅をついてきたのだろう色男。
今更煮売と酒代(さかしろ)くらいどうということもあるまい。
海野:はぁ。もうよ、お前同心やめて商売やれよ。きっと向いてるぞ。
伊織:何を言う。この町と民を守るのが俺のつとめだ。
海野:儂の懐も守ってくれぬもんかね。
伊織:では行ってくる。
海野:都合のいい時だけ遠い耳だな。
語り(弦蔵が兼ねる):長屋のどんつきに住まう海野七二郎が早矢仕伊織と既知を得たのは半年ほど前の春雨降り頻る曇天の午後であった。
伊織:そこの御仁。
海野:何か。
伊織:海野七二郎殿とお見受けする。
海野:はて。知らんな。
伊織:鷲鼻の総髪に紺の井桁の着流し。
海野:他人の空似だろう。
伊織:貴殿がこの町に現れて以来、肩で風を切って往来を歩いていた破落戸(ごろつき)どもが借りてきた猫のようだ。
海野:そうかい。
伊織:岩戸町同心、早矢仕伊織と申す。
海野:お上の犬か。
儂をしょっ引きに来たのか。
伊織:違う。奉行所を代表して礼を云いに参った。
海野:そんなもんを言われる筋合いはねえよ。
伊織:この町の荒みようったら、かっぱらいひとつ追う人手さえ足りん。
だが貴殿のおかげで小悪党どもはすっかり鳴りをひそめた。
とうだろう、今後も町のために一肌脱いでくださらんか。
海野:断る。儂は公儀(こうぎ)が一等嫌いでな。
ましてお上の狗(いぬ)など御免被るよ。
伊織:狗などではない。
貴殿にはこの町の守護刀(まもりがたな)になって欲しいのだ。
海野:守護刀だと。
刀ってンなら、その腰の立派な二本差しがあるだろう。
牢人なんざあ頼ってんじゃねえ。
伊織:これか。うん。
これはな、竹光(たけみつ)だ。
海野:はあ。
伊織:嘘ではない。ほら。この通りだ。
海野:刀はどうした。
伊織:とうに質種(しちぐさ)に流れた。
海野:御公儀の同心様が素寒貧(すかんぴん)か。さては博打にでも入れ込んだか。
伊織:人手も足りなければ家計も火の車、ということだ。しかし先立つものがなければろくに調べも出来ん。
海野:気の毒なこった。
その竹光も質種にならないよう精々倹約(けんやく)めされよ。
さ、用は済んだろう。帰ってくれ。
伊織:海野殿。
海野:まだ何か。
伊織:明日また来る。
海野:来んな!
語り(弦蔵が兼ねる):四、五服目ほど煙管を飲み、雁首をたばこ盆の端に叩いたころ、ようやく長屋の戸が引かれた。
伊織:今戻った。
海野:遅かったな。
酒だけか。煮売はどうした。
伊織:すまぬ。やってしまった。
海野:やってしまったって、野良犬にでもくれちまったのかい。
伊織:町向こうに渡る橋のたもとに孤児(みなしご)の兄妹がいてな。
海野:それがどうした。
伊織:手足など枯れ木のようであった。
海野:そいつらに煮売を食わせたってか。
伊織:銭では大人に巻き上げられる。腹に仕舞えば盗られることもないからな。
海野:孤児など、このご時世珍しいことでもあるまい。
伊織:ひもじい思いは辛かろう。
海野:早矢仕。お前が仏心(ぶっしん)を出したところで、その子らは行き倒れて死ぬかもしれんぜ。
伊織:その通りだ。たとえ行き倒れで死ぬさだめでも、腹を満たしてから死なせてやりたい。
海野:はあ。だからお前は竹光なんだよ。
伊織:何のことだ。何を笑っている。
海野:何でもない。呆れて腹の虫もどっかにいっちまった。飲もうか。
伊織:うむ。
海野:それで、水蜘蛛のってのは。
伊織:ああ。水蜘蛛の弦蔵は川越宿(かわごえじゅく)辺りを根城にしていた賊でな。
年寄り子供は殺す、女は犯す、盗人(ぬすっと)なんてもんじゃない、凶賊(きょうぞく)だ。
荒っぽい仕事を繰り返しながら逃げるように北へ上ってきた。
海野:そいつがこの町に入ってきたと。
伊織:うん。水蜘蛛の弦蔵はとにかく仕事が早いと聞く。
目星をつけたらあっという間に押し込み、やるだけやって蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまうそうだ。
海野:嘗(な)め役も繋ぎも付けねえのかい。
伊織:地場の悪党を金で集めて力尽、と聞く。
海野:救いようのねえ外道だな。
伊織:全くだ。
徒党を組まれでもしてみろ。この町の頭数では抑え切れぬかもしれぬ。
増援を呼ぶにしても果たして間に合うかどうか。
海野:どうする腹づもりだ。
伊織:賊がどこぞに押し込む前に捕える他あるまい。
海野:どうやって。
伊織:弦蔵の身柄を挙げるのだ。
海野:だからどうするのだ。
伊織:隠れ家を見つける。
海野:ほう。目星はついておるのだな。
伊織:いや未だだ。
海野:はあ。仕事の早い賊相手に気の長いことだな。
伊織:この町にはどうにも空き家としもた屋が多過ぎるのだ。
流れ者が身を隠すにはあまりに都合が良い。
海野:儂のようなのが居(お)れるくらいにな。
伊織:お前は違う。
海野:変わらんさ。
伊織:そう臍を曲げないでくれ。
なあ海野、なんぞいい知恵はないものか。
海野:……そうさな。
今夜、川沿いの小屋に賭場が立つから、そこに顔を出してみるのはどうだ。
悪党ってのは埃と同じだ。
伊織:そうか!わかった、今夜だな。
海野:待て待て。お前は行かんほうがいい。
伊織:何故だ。
海野:蛇の道は蛇というだろう。
お前は要らぬ薮をつつきかねん。
伊織:そういうものか。
海野:うむ。儂が行こう。そのほうが話が早い。
伊織:そうか。恩に着るぞ。
一安心したら腹が空いたな。
海野:では孤児に呉れてやった煮売を取り返してくるか。
伊織:はは、もう腹の中に仕舞ったろう。
海野:何ぞ拵(こしら)える。少し待っておれ。
語り(弦蔵が兼ねる):そう言うと海野は狭い土間に降り、甕(かめ)から金盥(かなだらい)に水を張り、大根を泳がせて泥を洗った。
家に包丁はなく、小刀を起用に捌(さば)いて厚く皮を剥き、細長い短冊に切り分けた。
水気を軽く払って、皿に乗せた上に砕いた煮干と塩を振りかけ、ささやかな酒肴(しゅこう)とした。
海野:葱(ねぎ)でもあればよかったが。
伊織:ほう。手料理とは器用なものだ。
海野:料理などとは烏滸(おこ)がましい。酒飲みの口汚しよ。
伊織:ありがたくいただくぞ。
海野:うむ。ときに奥方は息災か。
伊織:元気でやっておる。気が強くて敵わん。
海野:お前には過ぎた良妻だ。坊主は、名を何と言ったか。
伊織:九兵衛(くへえ)だ。よう乳を飲んで日に日に肥えておる。
海野:何よりだ。
ところで長子(ちょうし)なのになぜ九兵衛という。
伊織:お前から肖(あやか)った。
海野:なんと。
伊織:言わなかったか。
海野七二郎の七と二を貰って足したのだ。
海野:儂から名を取ってもろくなもんにならんぞ。
伊織:お前のようないい武士になる。
海野:武士なとではないよ。ただの牢人だ。
伊織:お前の剣は誰かを助けているだろう。
海野:だがな。
伊織:それが武士の本分かと。
海野:面と向かってそう言われるとどうも尻が痒くなるな。
伊織:つまらぬ世辞ではないぞ。改めて礼を言う。
海野:もうよいわ。では儂は夜に備えて少し眠るから。
伊織:うむ。宜しく頼むぞ、海野。
語り(弦蔵が兼ねる):岩戸町から少し離れた峻厳(しゅんげん)な岩肌を剥く川の、川上に向かい少し登ると川魚漁(かわうおりょう)の備小屋(そなえごや)がある。
かつて町が栄えていた頃に建てられたもので、中は広く木組みも確かであり、それでいて人気(ひとけ)もなく、町の灯りを嫌う狐狸(こり)の類が集うのにはもってこいである。
七二郎は粗雑に二、三、引戸を叩いた。
海野:おうおう、儂も遊ばせろ。
松五郎:誰だ。げっアンタは……
海野:その節は世話になったな。どうじゃ、達者にしておったか。
松五郎:うちの若い衆(し)一人残らずのしちまって、何が達者だってんだ。
海野:揃いも揃って破落戸(ごろつき)の癖に覇気がねえからよう、一丁揉んで景気をつけてやったのよ。
松五郎:金ならたんまり払ったじゃねえか。もううちの組に関わるのはよしてくれよ。
海野:はて。そんなもの貰ったかのう。
松五郎:堪忍してくれよ。
海野:いいから通せ。悪いようにはせんから。
松五郎:全くよう、頼むぜ旦那。
海野:うんどれどれ。賑わってるじゃねえか。
松五郎:隣町から足伸ばしてくる奴らもいるんでね。
海野:あそこの壺振(つぼふ)り。
松五郎:へえ。あいつが何か。
海野:声がでけえ。ありゃあ、おめえさんとこのかい。
松五郎:いんや、あいつは外様(とざま)だよ。由(わけ)あってこの前からうちで面倒見てる。
海野:流れもんかい。道理で筋がいい。あいつの名前は。
松五郎:弦蔵(げんぞう)って名乗ってるが。
海野:弦蔵。
松五郎:それがどうかしたか。
海野:おめえらんとこに居着いてどれくらいだ。
松五郎:もう十日ほどになるかね。
海野:へえ。どんな野郎だ。
松五郎:無口な奴だよ。余計なことを喋らねえ。
博打の腕は大したもんだが取り分を欲張らねえから親分にも可愛がられる。
海野:そうかい。あいつと一寸話がしてえ。鼻向けてくれや。
松五郎:なあ。もううちの組に関わるのはよしてくれ。
海野:出来ねえってんなら、お宅さんの本家まで顔を出して頼みにいくが。
松五郎:堪忍してくれよ。
海野:なら弦蔵の寝床を教えな。
松五郎:岩戸銀座(いわとぎんざ)の辺りだ。
海野:岩戸銀座のどこだ。
松五郎:そこまでは知らねえよ。
本当だって、そんな顔されても知らねえもんは知らねえんだ。嘘じゃねえ。
海野:ふん、そうかい。
じゃあ場が御開きになるまでここで待たせてもらうとするかね。
語り(伊織が兼ねる):客が一人、二人と抜けて、いつしか夜が明けて空は白み始めた。
賭場が閉じて暫(しばら)く。七次郎は岩戸町へ戻ろうとする弦蔵を、ろくに距離も取らずに尾(つ)けた。
弦蔵:もし。何ぞ御用ですかい。
海野:いい腕をしてるの。
弦蔵:恐れいりやす。
海野:なけなしの金子(きんす)をすっかり巻き上げらてしまったわ。
弦蔵:お客人は丁も半も張らず、松の旦那と話し込んでたじゃありませんか。お戯れを。
海野:腕だけでなく目もいいときた。
こいつは本物だ。こんな片田舎でチンケな賭場の壺振りさせとくにゃ惜しい。
弦蔵:とぐろ巻いた蛇みてぇにまわりくどいじゃねえか。
あんた何用(なによう)だい。
海野:賭場荒らしじゃあねえんだ。安心しなよ。
賭場荒らしはな、この辺じゃ両手を切り落とされるんだ。
弦蔵:そうかい。
海野:面を潰されても、簀巻きにしてこの川に沈めねえんだよ。
全く、見せしめのつもりかねえ。
弦蔵:管巻(くだま)きてえなら他所(よそ)でやってくれるか。
こちとら見ての通り一仕事終えたところでよ。
海野:水蜘蛛ってのは、どういう意味だい弦蔵さん。
弦蔵:水蜘蛛だあ。
あんたが何を言ってるやら、あっしにゃ皆目見当がつかないね。
海野:そうかい。
賭場荒らしはこの辺じゃ両手が飛ぶが押し込み働きなら首が飛ぶ。
それは、知ってるかい。
弦蔵:当たり前(めぇ)よ。
それがどうしたってんだい。
海野:そいつが、浮世の道理だよな。
弦蔵:ふん。
語り(海野が兼ねる):弦蔵は嘲るようにして鼻を鳴らすと、これ以上は最早無用と小径に横入(よこい)って消えた。
時を同じくして、今しがた姿を消した弦蔵と瓜二つの男が、町の目抜き通りである岩戸銀座を彷徨っていた。
伊織:もし。もし。
弦蔵:へえ、なんでしょう。
伊織:こんな夜明けに何をしておられる。
弦蔵:ええ、その、さんぽでござますよ。
どうもねっつけませんでね。
おぶけさまはどうなさいましたか。
伊織:武家ではない。岩戸西奉行所(いわとにしぶぎょうしょ)のものである。
弦蔵:これはこれは、みまわりでござますか。
もうよあけだというのにごくろうさんでござます。
伊織:貴殿の名と住まいは。
弦蔵:へえ。あっしは……その、トクジと申しまして、すまいは……すぐそこの、ながやのおくでござます。
伊織:なんと奇遇な。私もそこに用があるのだ。
家までお送りいたそう。ここ最近はどうも物騒でな。
男と言え、暗がりの独り歩きは気をつけたほうがいいぞ。
弦蔵:ええ。ああ……そりゃあいけません。
おつとめのさなかでござましょうし。
どうぞおきになさらず。
あっしもすぐにけえりますので。
伊織:よいよい。さあ、参ろうではないか。
弦蔵:黙って聞いてりゃ墓穴を掘りやがって。
伊織:うん。お主、何か言ったか。
弦蔵:あ、あにき!
伊織:兄貴。何のことだ。
弦蔵:ようやく懐(ふところ)に入り込めたと思ったら、このザマだ。
伊織:お主は……トクジ殿。同じ顔が、二人だと。
弦蔵:あにき、すまねえ!あにき!
伊織:そなたは、トクジ殿の兄上でらっしゃるか。
弦蔵:ええ。
伊織:ご兄弟とはかくも似るものですな。
この暗がりではもうどちらがどちらか。
弦蔵:あっしらは忌み子(いみご)でしてね。
生まれてすぐ捨てた実の親どころか、育ての親ですら、顔も声も区別がつかないほどでさ。
伊織:なるほど。
弦蔵:弟はちょいとおかしなやつで、たまの夜中にふらふらっと出ていっちまう癖がある。
何をするわけでもねえんですが、ね。
どうもこの度はお騒がせいたしやした。
あとはあっしが連れ帰りますんで、どうぞお務めにお戻りください。
伊織:気遣い痛みいる。
だが、この町に凶賊が流れ込んだという話があってな。
弦蔵:凶賊。
伊織:うむ。手荒い仕業(しごと)を働く悪党と聞く。
お二人を疑っているわけではないが、そういうわけでな。
明日(みょうにち)人別帳(にんべつちょう)を検(あらた)めたい。
よって住まいまで同行させていただくぞ。
伊織:(短い悲鳴、うめき声)
弦蔵:そうかい。
なら人別帳の代わりに地獄で閻魔帳(えんまちょう)覗かせてやるよ。
語り(海野が兼ねる):焦茶の角帯(かくおび)に呑ませた匕首(あいくち)を音もなく抜き、早矢仕の腹に突き立てた手応えを確認してから、弦蔵はそう吐き捨てた。
造作ない、手慣れた遣り口であった。
弦蔵:あにき、なんてことを!
弦蔵:賭場の帰りに面倒臭えのに絡まれた。
この同心の手下かも知れねえ。
全くどこから漏れたか知らねえが……こりゃ潮目が変わるぞ。
弦蔵:だからってよ、おかみをさしたら……
弦蔵:お上を刺したら何だってんだ。
刺さなけりゃ所払い(ところばらい)で済んだってか。
いいか、己(おれ)とお前にゃあ、なあんもねえ。
けちな渡世の名前ですら、二人で一つしかねえじゃねえ。
底なしの沼をどうにか泳いでいくしかねえ。
今更吠え面かくんじゃねえ。
伊織:お前が、お前らが、水蜘蛛の弦蔵だな。
弦蔵:あんたよ、喋ると死ぬぜ。
もう黙ってろ。な。
よほど運が良けりゃ、生き延びるだろうよ。
伊織:どこに、押し込むつもりだ。
弦蔵:行くぞ。
伊織:待て。答えろ。待たんか。
(しばしの間)
海野:おい起きろ。起きんか早矢仕。
伊織:その声は海野か。
海野:何があった。誰にやられた。
伊織:水蜘蛛の、弦蔵は。
海野:弦蔵は。
伊織:二人居る。
海野:二人。どういうことだ。
おい早矢仕。しっかりしろ。おい、くそ!
語り(弦蔵が兼ねる):七次郎は黙り込んだ伊織を背負い、夜明けの往来を疾駆した。
医者の戸を叩くころには、流れ出た血で着流しが朱に染まったことがわかるほど、陽が昇っていた。
弦蔵:あにき、ほんとにやるのか。
弦蔵:当たり前(めえ)よ。
ここで引いたらあの同心の殺し損だ。
弦蔵:でもよ、ひとでもあづまってねえ。
こんなんでおしこめるのかよ。
弦蔵:何もしけた商売屋(しょうばいや)に押し込む必要はねえさ。
弦蔵:どういうことだい。
弦蔵:相変わらず頭の回らねえ野郎だなお前(めえ)は。
見目形(みめかたち)は己(おれ)と瓜二つだってのに、どうにもこうにも足りねえ。
弦蔵:すまねえあにき。
弦蔵:いいかい。金はな、あるところからとりゃあいいんだ。別にどこだっていいんだ。
弦蔵:どういうことだい。
弦蔵:手前ェなんかにわかるもんか。
何より昨日みたいに下手打たれちゃたまったもンじゃねえ。
いいからお前は黙って己(おれ)のいう通りにするんだ。
弦蔵:ああ。わかったよあにき。
(しばしの間)
海野:戻った。
伊織:ご苦労だった。面倒な使いをさせてすまぬな。
海野:何、妻子を郷里(さと)に預けておくよう勧めたのはこの儂だ。
丁度良い散歩だったわ。
伊織:ところで土産か差し入れはないのか。
海野:ない。絶食を申しつけられておるだろう。
伊織:水菓子(みずがし)くらいよかろう。
海野:黙って寝ておけ怪我人。
伊織:しかし腹が空いて仕方がないのだ。
海野:お前の食い気は全く大したものだ。
一昨日(おとつい)に腹を刺されたやつとは思えぬ。
伊織:そう誉めてくれるなよ。
海野:誉めておらんわ。
お前あの晩、意識を失くす前に『水蜘蛛の弦蔵は二人いる』と言ったな。
伊織:うむ。
海野:どういうことだ。
伊織:弦蔵と思(おぼ)しき男は、どうやら双子のようだ。
海野:双子、とな。
伊織:自らをして忌み子と言っておった。
顔も声も服装も全く同じ。
瓜二つとはあのことだ。
海野:鼠色の着物に焦げ茶の角帯を締めていたか。
伊織:ああ。出立(いでたち)は間違いない。刺されたときに目に入った。
海野:奴の人相は。
伊織:目尻がこう下がって、口の端の片側がひきつれたような。
もっとも、提灯の灯りしかない夜目だから確かなことは言えぬが。
海野:俺が川沿いの賭場で見た『弦蔵』もこの世の何から何までも倦(う)んだという面をしていた。
伊織:奴めは賭場に居たのか。
海野:ああ。おそらくお前を刺した兄貴ってのが、そいつだろう。
伊織:こうしては居れぬ。
すぐに奴らを捕らえねば。
海野:まあ待て。
伊織:これが待っていられるか。
海野:怪我の功名でな。
伊織:何だと。
海野:お前が弦蔵に刺されたことで、ついに奉行所が重い腰を上げよった。
水蜘蛛の弦蔵を捕らえるため援軍を呼ぶそうだ。
伊織:それはまことか。
海野:与力にまで掛け合ったのだ。よもや方便とは言うまい。
伊織:何から何まで世話をかけた。
海野:水臭いことを。
援軍が来るとは言え、相手は公儀に刃向かうことをなんとも思っちゃいねえ悪党だ。
余計な血が流れねえといいが。
語り(伊織が兼ねる):岩戸町のはずれのあばら家で、二人の弦蔵は今日も息を殺していた。
町を見回る目数(めかず)は増え、兄弟を取り囲む法の網は日に日に狭くなっていた。
弦蔵:あにき、もうおしめえだ。
じきにここもあばかれる。
つかまるまえにずらかろう。
弦蔵:ずらかるだ。
馬鹿言うんじゃねえよ。
逃げてどうするってんだ。
この前の仕業(しごと)の金ももう使い果たしちまったんだ。
弦蔵:それはあにきがぜいたくするから……。
弦蔵:うるせえ!
役に立たねえくせに一丁前に説教垂れんじゃねえ。
弦蔵:すまねえ。
弦蔵:それにしてもこの町の悪党どもはてんで使い物にならねえな。
押し込み仕業(しごと)なんて荒事張れたタマじゃねえ。
地場のやくざとチンケな賭場で銭のやり取りが関の山だ。
弦蔵:じゃあどうする。
おれたちふたりだけでしごとはむりだ。
弦蔵:そこでだ。
お前、ちょっと表で暴れてこい。
どこぞの商売屋に上がり込んで、ひと騒ぎを起こすんだ。
弦蔵:おかみがめをひからせてるのに、そんなことをしたらおなわをもらいにいくようなもんじゃねえか。
弦蔵:うるせえ!こうなったのも、お前がヘマをしたからだろうが。
弦蔵:そんな。
弦蔵:心配するな。
お前はちょいと騒ぎを起こして、人目を集めたらすぐ逃げちまえ。
弦蔵:あにきはどうするんだ。
弦蔵:己(おれ)かい。己はな、お前が起こした騒ぎに乗じてとりっぱぐれた金をさらってきてやるよ。
(しばしの間)
語り(海野が兼ねる):日も落ちきらぬ午後、岩戸銀座から少し離れた小さな乾物問屋に強盗が押し入り、店に居合わせた買付け客と丁稚の小僧に刃傷(にんじょう)を働いた。
市中を見張っていた増援の巡邏(じゅんら)たちに捕縛された強盗は、尋(しら)べを受ける前に自らが『水蜘蛛の弦蔵』であると白状した。
一昨日(いっさくじつ)自分を襲った下手人がこの弦蔵であるかを検(あらた)めるべく、早矢仕はまだ塞がらぬ傷を抑えながら、迎えに来た同僚の肩を借り、弦蔵の監(おさ)められた無宿牢(むじゅくろう)へと出向いて行った。
伊織:御勤めご苦労。あとは、私が。
随分と下手な仕業(しごと)をやってのけたな、水蜘蛛の弦蔵。
いや、あの晩はたしか『トクジ』と名乗ったか。
弦蔵:いきてやがったか。うんのいいやろうだ。
伊織:それとも、お前は私を刺した兄の方か。
弦蔵:おれは、おれさ。
伊織:そうか。
相棒はどうしたのだ。
弦蔵:さあねえ。
伊織:弦蔵。
弦蔵:なんだよ。
伊織:水蜘蛛とは、どういう意味だ。
弦蔵:ああ。
伊織:水蜘蛛とは忍者道具と聞くが、どうもお前らの荒い仕業(しごと)ぶりを聞くに合点がいかん。
弦蔵:しらねえよ。
おれたちは、もらっただけだ。
伊織:もらった。誰にだ。
弦蔵:おれたちをひろったやつにさ。
そいつからもらったものは、それだけだ。
あとはもっていかれるだけだった。
伊織:弦蔵。
お前はこれからどんな悪党も泣いて仏の慈悲を乞う責苦(せめく)に遭(あ)う。
弦蔵:だからなんだい。
伊織:お前、兄を庇(かば)ったな。
弦蔵:しらねえ。
伊織:奴はどこに逃げた。答えろ。
弦蔵:あにきはにげてなんていねえ!
伊織:お前が乾物問屋に押し込んだのは奴の尺金(さしがね)だろう。
弦蔵:なんでわかる。
伊織:わかるとも。
お前は、奴のために、奴に言われるままに働いただけだろう。
弦蔵:ちがう。
おれは、おれは。
伊織:弦蔵。
言うんだ。
言えば、責めの地獄から救われるかもしれん。
弦蔵:でもしらねえんだおれは。
ほんとうに、しらねえんだ。
伊織:弦蔵。
弦蔵;うそじゃねえ。
あにきは、おれに、あそこでひとあばれしてこいと。
そのうちに、とりっぱぐれたかねを、さらってくるからと。
伊織:そう言ったのか。
弦蔵:そうだ。
伊織:本当にそれしか知らんのだな。
弦蔵:ああ。それしか、しらねえんだ。
語り(伊織が兼ねる):日が暮れて、七二郎は一昨日(おとつい)賭場が開かれた備小屋(そなえごや)へと足を向けた。
川沿いを上ると、向こうから竹編みの行李(こうり)を大事そうに抱えた弦蔵が、しきりに辺りを気にしながら、こちらに向かって下ってくる。
弦蔵の鼠の着物と行李は真新しい血で赤く濡れていた。
海野:やはり、であったか。
弦蔵:おめえは。
どうしてここがわかった。
海野:大方、つるむ連中を探すために賭場にもぐりこんだってところだろう。
だが肝心の押し込み仕業(しごと)は出来そうにない。
ともすれば、いかんとするか。
儂(わし)だったら目先の金欲しさに賭場を荒らすと思ってな。
それにちょうど今日は、場が立つ日だ。
弦蔵:ご明算(めいさん)。
全く、手前みたいな悪党がもうあと何人かいたら、いい仕業(しごと)ができたろうよ。
海野:おうおう。悪党だなんていうんじゃねえ。
悪党ってのはな、汚ねえ小さな仕事のために双子の兄弟を出しに使うようなやつのことをいうんだよ。
弦蔵:七三(しちさん)だ。
海野:何の話だ。
弦蔵:さらってきた金の分け前だよ。
己(おれ)が七で、おめえが三だ。
海野:そいつは呑めねえ話だ。
弦蔵:ならこうしよう。
五やるから、己(おれ)と組んでくれ。
次の町へいってもう一仕事しようや。
勘働(かんばたら)きも腹のすわりもいいおめえとなら、きっと上手くいく。
海野:知ってるか水蜘蛛の。
賭場荒らしはこの辺じゃ両手が飛ぶ。
弦蔵:そんなこたあもういいじゃねえか。
なあ、己と組もうや。
おめえ、名前はなんていうんだい。
海野:(小さく息吹を一つ)
語り(伊織が兼ねる):七二郎は白刃を鞘から引き抜くと、竹編みの行李を抱えた弦蔵の両腕の、その肘から先を一太刀のうちに切り飛ばした。
海野:組むのは儂とじゃない。
お前の、兄弟とだよ。
弦蔵:(悲鳴)
海野:さあ、参ろうか水蜘蛛の。
牢でお前の兄弟が、お前を待っているぞ。
語り(弦蔵が兼ねる):かくして二人の弦蔵は捕らえられ、過去の悪行からほどなくして磔(はりつけ)の沙汰(さた)が下された。
刑死して三日張り付けられたのち、切り落とされた首は、死してなおも隣り合って晒されたという。
海野:もうすっかり傷はよいのか。
伊織:お蔭様でこの通りだ。
海野:重畳(ちょうじょう)だ。
伊織:此度はまたお主に助けられたな。
どうだ、これを機に町を守るために尽力してみる気はないか。
海野:儂に十手持ちでもやれというか。
伊織:うむ。
海野:真っ平御免被るよ。
伊織:お主は岩戸町の守護刀(まもりがたな)だ。
悪い話ではないと思うが。
海野:この町の守護刀はな、早矢仕、お前じゃ。
伊織:私など腹を刺されて寝込んでいただけではないか。
海野:それゆえに刀を抜かずに事を収めたではないか。
これほど縁起の良い守護刀など斯界(しかい)のどこにあるものか。
伊織:いやはや面目ない。
海野:刀に面目もなかろう。
伊織:ふふ。
ところで海野、水蜘蛛という忍び道具を知っているか。
海野:おう。それは儂も気になってな。
調べたところ、足に履き、ぬかるみや沼地を征く沓(くつ)のようなものだそうな。
伊織:その水蜘蛛の二つ名は、弦蔵の名とともに誰かから与えられたそうだ。
海野:ほう。
伊織:下駄や着物を汚さぬための泥沓(どろぐつ)。
思うに――
海野:もうよかろう。
そんな哀れな二つ名をもらったやつが、実の弟を泥沓にしたとは考えたくない。
伊織:ああ。
海野:今頃二人仲良く、冥土巡りでもしておるだろ。
伊織:そうだな。
ああ、腹が空いた。
海野:では快気を祝ってひとつ蕎麦でも手繰(たぐ)るか。
伊織:いいな。
今日は私が馳走しよう。
酒も好きなだけ飲むといい。
海野:お前が馳走するだと。
一体どういう風の吹き回しだ。
伊織:与力殿よりいくばくかの見舞金を頂いてな。
これもまた怪我の功名。
海野:ふふ。
宵越しの銭を持たぬ同心か。
全くこれだから守護刀が竹光なのだ。
(二人、笑いあって幕)
暗夜剣 AVID4DIVA @AVID4DIVA
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