鐚一文【時代劇台本・男性3名】
鐚一文(びたいちもん)
・・・・・・
青年(せいねん)
名を水戸弓馬(みときゅうば)という。
常州の武門の生まれ。剣で身を立てることを願う若者。
父の薦めで海野老人のもとを訪ねる。
金貸(かねかし)
名を賽の四五六(さいのしごろう)という。
高利貸しをしのぎにするやくざもの。
市の貧者と病人に金を貸し付けている。
老人(ろうじん)
名を海野七二郎(うんのしちじろう)という。
かつては会津一の剣豪と謳われた男。
町の外れの朽ちた小屋に隠居している。
・・・・・
(青年、老人の住まう小屋の戸を粗雑に叩く)
青年:御免。
海野七二郎(うんのしちじろう)どのはご在宅か。
(老人、戸は開けず、馬鹿にしたような声で答える)
老人:おりませぬ。
青年:家人(かじん)でも良い。戸を開けていただきたい。
老人:へえ。人違いではございませんでしょうか。
青年:間違いない。
海野どのにお渡しする書簡(しょかん)を預かってきたのだ。
(老人、諦めたようにして戸を開ける)
老人:はあ。どちら様で。
青年:それがし、常州の水戸弓馬(みときゅうば)と申す。
海野七二郎どのに、こちらの書簡をお渡しに参った。
老人:ええ、うんこくそじろうどのですってえ。
そいつはなんとも、ひでえお名前ですなあ。
青年:海野七二郎どのだ。
ご老体、海野どのの下人(しもびと)か。
老人:へえへえ。シモの方はお陰様で富士の山のようです。
青年:誰もシモの話などしておらん。
ご不在ならばこの書簡を海野どのにお渡し願いたい。
老人:はあ、どれどれ。
(老人、青年から書簡を受け取るとその場であらためる)
青年:おい勝手に封を切るな無礼者!
老人:喝ァッ!
(老人、一喝と同時に青年の水月に正拳を見舞う)
(青年、大きく咽せ込み、その場に膝をつく)
老人:無礼者は貴様じゃボケナス。
武人(ぶじん)の分際で相手の間合いに死に体(しにたい)で立ちよって。
殺されなかっただけありがたいと思えこの青二才。
青年:なんだと……貴様!某(それがし)を愚弄(ぐろう)するか!
(老人、膝をついた青年の鼻にさらに掌底を見舞う)
老人:一手貰ったら吠え面かく前にすぐさま後方に飛び退け。
それともお主、もっと殴ってくれと言うとるのか。
青年:貴様、覚悟しろ!斬って捨てる!
(青年、鼻血を垂らしながらようやく刀の握りに手を掛ける)
老人:後手の後手、さらに後手。遅いのよ。
(老人、青年が提げた刀の鞘に手をかけ、それを軸に青年を投げ倒す)
老人:これで三度、死んだ。
(老人、大の字に倒された青年を覗き込み、文を乱暴に投げ返す)
青年:海野七次郎どのとお見受けする。
どうか、某に剣を手ほどき願いたい。
老人:寝言は寝て言え。あっ、もう寝てたかの。
青年:何卒(なにとぞ)、お願い申し上げる。
老人:素性もわからぬ相手の前で正中(せいちゅう)を晒(さら)す呑気(のんき)。
少々揶揄(からか)われたくらいですぐ刀を抜く短気。
そうして亀のように倒され、天を仰いだまま剣の手ほどきを乞う能天気(のうてんき)。
何から何まで滅茶苦茶じゃこの莫迦者(ばかもの)。
青年:強くなりたいのです。どうか、某に剣を。
(老人、ため息を一つ、諦めたように手のひらを青年に向ける)
老人:さっさと出さんか。
青年:えっ。
老人:支度金じゃい。たんまり持ってきたんじゃろうな。
(青年、慌てて起き上がり懐から包みを取り出す)
(老人、不作法にその場であらためる)
老人:ほほお。切り餅とはまあ豪気だの。
果たして、この莫迦にそれほどの価値があるものかね。
青年:これで弟子入りをお認めいただけますか。
老人:まだじゃ。
(老人、切り餅を懐に捩じ込み、さらに手のひらを差し出す)
青年:えっ。
老人:路銀(ろぎん)も出せ。どうせたんまりもらっとろう。早く。
(青年、言われるがままに財布を老人に渡す)
青年:ではこれで、弟子入りを……。
(老人、財布も懐に捩じ込み、さらに手のひらを差し出す)
老人:腰に提げてる無用の長物(ちょうぶつ)もよこさんか。
青年:刀は武士の魂。それだけは。
老人:じゃあ教えん。剣は教えん。
青年:ぬう。
老人:つまらん短気を起こす魂なぞ、いっぺん手放してしまえ。
青年:ですが。
老人:抜き身は納めてこそ刀。
儂(わし)に預けてみよ。
(青年、奥歯を食いしばり、唸るようにしてしばらく。老人に刀を渡す)
老人:ようやく頭(こうべ)を下げたのう。この大莫迦者が。
儂は海野七次郎(うんのしちじろう)と申す。
その昔、やっとうを多少、遣(や)っていた。
青年:某(それがし)は……。
(老人、咳払いを一つ、青年の頭を強く叩く)
青年:……私は常州鹿島郡(じょうしゅうかしまぐん)は駒場村(こまばむら)の水戸家嫡男(みとけちゃくなん)水戸弓馬(みときゅうば)と申します。
海野先生、ご指導の程どうぞ宜しくお願い申し上げます。
老人:海野先生は止(よ)せ。尻の穴が痒くなる。
では弓馬よ。早速だが、そこに積んである薪(たきぎ)を割ってみせよ。
青年:は。薪(まき)割りですか。
老人:んむ。
青年:それが剣の修行なのですか。
老人:いいから、はようやれ。儂が一服し終わる前に済ませろ。朝風呂に入りたい。
(青年、錆浮いた手斧を拾い、老人に指示された通りに薪を割る)
(老人、煙管を吸い付けながら独白)
老人:太刀筋(たちすじ)はまあ可(よ)し。
だがやはり、脇がまあ甘いのう。
(青年、太く短い掛け声と共に薪を割り続ける)
老人:それが終わったら今度は風呂焚きじゃ。
急げよ、日が暮れてしまうぞ。
(ひと月あまりの時が流れる。しばらく間)
青年:師匠。
老人:なんじゃい。
青年:私がここへ来てひと月が経とうとしています。
老人:おお。もうそんなに経つか。早いもんだ。
青年:私はただの一度も剣を振っていません。木剣(ぼっけん)さえ、です。
老人:はて。そうだったかの。
青年:してきたことといえば薪割りに炊事、掃除、洗濯、買い出し。
私はここに飯炊(めしたき)に来たのではございません。
老人:そりゃそうじゃ。飯炊を頼むなら尻の張った後家(ごけ)にする。
青年:稽古をつけていただきたい!
老人:喝ッ!
(老人、鋭い発声と共に青年の水月へ拳を打ち込む)
(青年、老人の拳を払い退け、すぐさま後方に飛び退き身構える)
老人:ほれ、ひと月前よりも進歩しておる。
青年:私を試すおつもりでございますか。
老人:薪(まき)割りをさせ続けたのは、お主に脇を緩める癖があったからじゃ。
青年:どういうことです。
老人:脇が甘い剣士はどれだけやっても物にならん。
この極意は、いくら口で教えたところでなかなか身に付かんが、
切れ味の悪い手斧で素早く薪(たきぎ)を割り続ければ、脇を絞めて獲物(えもの)の重さを遣う癖がつく。
青年:そんな理由が。
老人:それと、お主は咄嗟(とっさ)の場面で息を止める悪癖(あくへき)がある。
それでは薄皮一枚で仕損(しそん)じる。
手っ取り早いのは、一心不乱に火吹き竹を咥(くわ)えて風呂を焚くことよ。
(青年、その場に膝をつき、深く頭を下げる)
青年:御見逸(おみそ)れいたしました。
老人:脇が締まり、呼吸が深まれば不意の水月(すいげつ)打ちも自(おの)ずと捌(さば)けるようになる。
では次の稽古じゃ。山に入れ。
青年:山籠もりですか。
老人:飯の支度じゃ。川魚(かわうお)と野鳥を獲(と)って参れ。
青年:それも剣の修行なのですね。
して、道具は。
老人:お主には対の手足がある。川魚は掬い上げてみせよ。
山中には無数に石がある。野鳥は撃ち落としてみせよ。
青年:承知いたしました。では御免!
(青年、急ぎ足で山へと向かう)
老人:莫迦は莫迦でもありゃ莫迦正直じゃ。
(老人、含み笑いを浮かべてゆったりと煙管を一服)
老人:強さを追い求めればどこかで驕(おご)りが顔を出す。
驕りは濁(にご)りを連れてくる。濁った川は見誤る。
さて弓馬よ、上手くやれるかの。
(場面転換、山中。青年、息を切らして立ち尽くす)
青年:近づくどころか足を動かしただけで魚は逃げる。
投げても投げても石は鳥にかすりもせん。
この有様では日が暮れてしまうぞ。
(途方に暮れる弓馬に、後ろから声がかけられる)
金貸:おや、こんな人寂しい山奥でどうなされました。
(青年、振り返り自嘲気味に笑う)
青年:野鳥と川魚を獲りに。
金貸:なるほど。難儀(なんぎ)されておられるようで。
青年:魚とりなど子供の頃にやったきりだ。
鷹狩には父の供連(ともづ)れで出向いたことはあるが、投石で野鳥を撃つなど、果たして。
金貸:鳥や魚を捕まえてどうするってェんです。
青年:夕餉(ゆうげ)にするのだ。
金貸:ふむ。早々に山を降り町に出て、煮売(にうり)を買えばよろしいではありませんか。
青年:生憎(あいにく)と持ち合わせがない。
(金貸、嬉しそうに小さく笑い、懐から銭を取り出し、青年に握らせる)
金貸:ここでお会いしたのも何かの縁です。どうぞお受け取りください。
(青年、眉を顰め、握らされた銭を拳ごと押し返す)
青年:そこもとに施(ほどこ)しを受ける謂(いわ)れはない。
金貸:そう言わず、お納めください。
青年:要らぬ。返す。
金貸:善(よ)いことがあったのですよ。祝儀(しゅうぎ)だと思って、ここはひとつ。
青年:要らぬと申しておる!
金貸:然様(さよう)でございますか。
では、魚の餌にでもいたしましょうかね。
(金貸、青年から返された銭を小川に投げ捨てる)
青年:何も川に放(ほう)ることはなかろう。
金貸:己(お)れァ仕事柄、けちが付いちまった金は鐚一文(びたいちもん)たりとも懐(ふところ)にゃ仕舞えねえんですよ。
青年:商売人の験(げん)担きか。
金貸:まあ、そんなもんです。
それにしても旦那もまあ、頑固な御人(おひと)だ。
祝儀くらい御笑納(ごしょうのう)くだせえ。へへ。
青年:済まんな。して、何の祝いだ。
金貸:ええ。
借りた金を返さないろくでなしを痛めつけてきたのですよ。
青年:金の取り立てか。
金貸:借りた金で酒を買い、飲むだけ飲んで仕事の一つもしねえろくでなしだ。
取り立てても取り立てても、剥げるのは爪と垢(あか)くらいなもんです。
だからね、剥いでやったんですよ。
青年:どういうことだ。
金貸:そっくりそのままですよ。
金を返さない、返そうともしない野郎の生爪を全部剥いでやったんです。
(金貸、返り血のついた袖を青年に嬉しそうに見せつける)
青年:惨(むご)い真似をする。
借主を痛めつけたところで貸した金が返ってくるでもなかろう。
金貸:そんなこたァ百も承知でございますよ。
向こうが返さないというなら、こっちが取り返すまでです。
青年:これだけの仕打ちをするのだ。さぞ、貸し付けたのだろうな。
金貸:二分(にぶ)ほどですよ。
青年:たかだか二分金(にぶきん)のために、爪を剥いだというのか。
金貸:金額の多寡(たか)じゃねえんだ。わかるでしょう、旦那。
己(お)れにとっちゃあ、金は命なんだ。
金という命を貸してるんだ。返済は、鐚一文(びたいちもん)たりとて、まからねえよ。
青年:さすがに度が過ぎるのではないか。
金貸:そう思うンなら、旦那が介抱(かいほう)してやったらどうです。
野郎はこの奥の茂みでそれこそ芋虫のようにしてますよ。
青年:御免。
金貸:己れァ金貸、賽の四五六(さいのしごろう)ってもんです。
どうぞ、ご贔屓に。
(青年、答えずに金貸の来し方へ小走りに向かう)
(しばしの間、場面転換。老人の住まいにて)
老人:儂は確か、川魚(かわうお)か野鳥を獲って参れと伝えたはずだが。
青年:魚も鳥も獲れませんでした。
老人:見ればわかるわ。
それで、お主が背負ってるその死に損ないは。
青年:素性は存じません。
老人:行き倒れ、と見るにはどうも物騒な形(なり)だの。
青年:山中で、借金のかたに叩きのめされ、生爪を剥がされておりました。
老人:そいつは剣呑(けんのん)。
青年:この者の手当てをしてやりたいのですが、町に医者はおりますか。
老人:この手合いの傷なら儂が看(み)れる。
辻の薬種屋(やくしゅや)に出向き、軟膏(なんこう)と気付(きつけ)を貰ってこい。
海野(うんの)の名を出せば話が早かろう。
青年:御意。
(青年、弾かれたように町へと駆けていく)
(金貸、貧乏徳利を小気味よく揺らし、千鳥足で往来を揺蕩う)
金貸:おお、おお!これは先ほどの。
日に二度も遭うとは奇遇でございますな。
いかにも押っ取り刀という体(てい)ですが、いかがなされた。
(青年、息を切らし、歩速を緩める)
青年:貴様が打ちのめした男の、介抱の道すがらだ。退(の)け。
(金貸、含んでいた酒を勢いよく噴き出し、咽せて高笑う)
金貸:まさか。まさか本当にお助けになったので。
いや参った、こりゃあとんだお人好しだ。
己れはてっきり、奴から身包みを剥ぎに行ったものだとばかり。
青年:悪銭(あくせん)欲しさに雪上(せつじょう)に霜(しも)を加(くわ)う者があるか。
金貸:これで旦那に一つ貸しができちまいましたね。
どうか一席、この賽の四五六(さいのしごろう)に一席設けさせてくだせえ。
青年:要らぬ。退け。
金貸:それなら綺麗な女(の)も横に付けますから。
青年:この薬を持って帰らねばならぬ。退け。
金貸:代わりに若え衆(し)を使いに遣りますから。
青年:諄(くど)い。
手前が打ち遣った相手の始末を二度も放り投げるな。
金貸:あんなものはね、踏み消す雑作(ぞうさ)もねえ糞火種(くそひだね)だって言ってるんですよ。
そんなことより、やっぱり旦那と己れは似ているよ。思った通りだ。
これは否が応でも一献(いっこん)付き合ってもらわねえと、いよいよ気が済まなくなっちまった。
青年:某と貴様が似ている。そう抜かすか。
金貸:正しいと信じたものなら、押し通すに迷いなどなし。
無理も道理も通らねえってんなら、スパッとやって、こじ開ける。
(金貸、肌蹴た着流しに呑ませた匕首を覗かせる)
旦那は段平(だんびら)こそぶらさげてねえが、きっと士(さむれぇ)でしょう。
(青年、張り詰めた殺気を一笑のうちに緩め、自重気味に乾いて笑う)
青年:生憎(あいにく)と質種(しちぐさ)に入れてある。
金貸:それなら今夜にでも質受(しちう)けに。
五両でも十両でも構いませんぜ。
さあ。
青年:一度手放してみるのも、よい薬だぞ。
(青年、一人呟き、これ以上は無用と走り去り家路を急ぐ)
老人:戻ったか。
青年:遅くなりました。
老人:今しがた、ようやく眠ったわ。
随分な仕打ちであったな。両の指を全て潰されておった。
あれでは当分、仕事はおろか暮らしもままならん。
確か、借金のかたに叩きのめされた、と言っていたな。
こやつが自らそう言ったのか。
青年:いえ。
金貸しを名乗るサイのシゴロウという細面(ほそおもて)の男が、そのように。
老人:賽の四五六、か。
青年:ご存じですか。
老人:この辺りで目下(もっか)売り出し中の高利貸しよ。
青年:奇しくも薬種屋(やくしゅや)の鼻先(はなさき)でまた遭いまして、悪びれるでもなく酒を浴びるように飲んでおりました。
老人:その苛烈さから、閻魔(えんま)も怯む取立てなどと呼ばれておる。
青年:道理で。
老人:かくいう儂(わし)も客でな。
青年:……何と。
老人:彼奴(あやつ)からかなりの金を借りている。物入りでの。
青年:過日(かじつ)お渡しした支度金ではその借金は支払えませんか。
老人:あんなもん、とうに使うてしまったわ。
青年:はあ!今、何と仰いました。
老人:綺麗さっぱり無くなって、懐が軽いのなんの。
青年:路銀を合わせたら、三十両近くはあったはずでは。
老人:全部突っ込んでしまったわ。
青年:……何にです。
老人:男が突っ込むものと言ったら一つしかなかろう。
青年:博奕(ばくち)ですか。
老人:はて、どうじゃったろうか。
青年:悪所通(あくしょがよ)いですか。
老人:さて、そんな気もするのう。
青年:師匠、私は……。
老人:まあ待て、待て。
いずれお主にもわかる時が来るから。
そんな目で見るな。のう。
青年:ですが!
(老人、遮るように、湿った咳を三つ)
老人:一息ついたら手当てを行う。とくと見よ。
生殺与奪(せいさつよだつ)は表裏一体、奪い方を覚えたのならば、与え方の一つくらいは覚えておけ。
(老人、湿った咳を七つ。咳は徐々に強く苦しく、咳を持って場面転換と成す)
金貸:海野さん。海野七次郎さん。
金貸、賽の四五六でございます。
老人:おお。今な、妻が、幼妻が産気づいて大変なんじゃ。後にしてくれんか。
金貸:なンだい、居るじゃねえか。邪魔するよ。
(金貸、乱雑に戸を鳴らし、下駄も脱がずに土間へ上がり込む)
へえ。噂通り、たいそうなやつれっぷりじゃあございませんか。
老人:老いた姿を見られたくなかったんじゃ。
酔狂(すいきょう)を気取る割には、洒落のわからぬ男だよ。
金貸:急で悪いンだが、貸した金、今日中に用立てて頂く。
老人:はて。利子さえ払えば、返済は翌年(あくるとし)まで延ばす約定(やくじょう)ではなかったか。
金貸:悪いが事情が変わってねえ。
あんた、肺臓(はいぞう)を病んでもう長くねえんだろ。
老人:はて。この通り、いたいけな稚児(ちご)の如き肌つやをしておる。
金貸:勝手に死なれて貸し倒れってのは、百歩譲ってまあ、可(い)い。
己れが気に食わねえのはね、あんたの金の使い方だよ。
客の取れなくなった女郎(じょろう)や仕事のなくなった片端(かたわ)もんに
何かにつけて気前よく恵んでやってるそうじゃねえかい。
ええ、それも、人様から借りた金でだよ。
老人:はて。どこのどなたか存ぜぬな。
だがそんなお大尽(だいじん)がいるとは、この世も捨てたものではないではないか。
(老人、小さく咳き込みながら、それでも煙管に莨を詰めて火を移す)
金貸:しらばっくれンじゃねえよ。
金の取りっぱぐれは己れの不始末だから構わねえ。
だが、己れの命を使って徳を積もうとしてる手前には、どうにもこの、腹の虫が収まらねえのよ。
老人:ない袖は振れん。
金貸:だったら取り立てるまでよ。
(金貸、老人から煙管を奪い取り、一口強く吸い付けて、羅宇を二つに握り折る)
金貸:子の三つ(ねのみっつ)に、取りに来る。
(金貸、退場。老人、咳を三つ、代わりに青年が家内へ)
青年:師匠。
老人:うん。今日は獲れたか。
青年:はい。川魚(かわうお)も、野鳥も。
老人:ついにか。でかした。めでたいぞ。
青年:師匠。
老人:わかっておる。聞いておったのだな。
青年:はい。
老人:あれのいう通りじゃ。
青年:では、私の支度金も。
老人:病めるもの貧しいものを食わすにはいくらあっても足りんよ。
青年:なぜ師匠はそのような施しをなされた。
老人:儂は若い頃、強くなるためにうんと人を斬った。
躊躇うことも迷うこともなく、斬って捨てた。
だがある日、そこに疑問が生まれた。
天に続くものとばかり信じていた登り坂が、奈落へ続く下り坂に変わって見えたとき、儂の周りにはもう、斃(たお)すべき敵は、いなくなってしまった。
(老人、咳を立て続けに、呼吸を乱し倒れ込む)
青年:師匠、もう、もう結構です。どうぞ休まれてくだされ!
老人:弓馬。お主の刀はいつもの酒屋の蔵に預けてある。
親父に、この書付(かきつけ)を渡せ。
そして刀と、伝書(でんしょ)を受け取り、そのまま町を去れ。
青年:伝書……師匠、一体何を。私はまだ何も。
老人:生涯、人は斬るな。斬れば、もう、わかるであろう。
青年:そんなことができようものか。夜更けにはあの男が取り立てにくるのです。
老人:何、掛け取りが来るだけよ。
子の三つ(ねのみっつ)までにくたばれば、儂の逃げ勝ちじゃ。
(老人、大きくあくびを一つ)
老人:少し寝る。
最後の稽古じゃ。
夕餉の用意をしておけ。
(長い間の後、深夜、月もなく外は弱い雨)
(傘もなく、ただ立ち尽くす青年のもとに、強盗提灯を提げた金貸たちの一行が現れる)
金貸:これは旦那、お出迎えいただきありがとうございます。良い晩ですねえ。
こうなることはわかってましたから、腕の立つ若いのを二、三、連れてきましたよ。
それでね、旦那。
己れの邪魔立てをするってンなら、己れァ旦那でも許さねえよ。
道開けてくれよ。わかるだろ、旦那なら。
青年:海野七次郎どのは先ほど床(とこ)につかれた。
お引き取り願う。
(金貸、心底嬉しそうに手を叩いて笑う)
金貸:そうかい、死んだのかい、あのジジイは。
人の褌(ふんどし)で仏心(ぶっしん)出しやがってよ。
それでいて手前が逝(い)くときはこのザマだよ。
あの世にもきっと、他人の念仏で行くんだろうねえ。ええ。
青年:海野七次郎どのは先ほど床(とこ)につかれた。
お引き取り願う。
金貸:断る。
己れの取り立てが終わってねえんだ。
閻魔様がジジイをあの世に連れてっても、己れの取り立ては終わってねえ。
まからねえ、鐚一文(びたいちもん)まからねえぞ。
金がねえなら命で取り立ててやるよ!
青年:海野七次郎どのは先ほど床(とこ)につかれた。
お引き取り願う。
金貸:あのジジイの死体から首掻っ切って、泥棒野郎の入れ墨掘って、腐れて骨になるまで晒してやらなきゃ己れの気が済まねえんだよ!
青年:四五六(しごろう)。
金貸:……なんだい。
青年:そこもとと某(それがし)は似てると言ったな。
金貸:言ったねえ。
青年:その通りであった。
慧眼、実に見事であった。
(青年、愛刀を抜き、助走もなく低く駆け、一息のうちに一行を切り伏せる)
金貸:……だろう。旦那と、己れは、似てるんだよ。
(金貸、喘ぐような呻き声をこれより徐々に漏らしていく)
青年:故に、まからぬ。
金貸:そうだ、鐚一文(びたいちもん)たりとて、まからねえんだ。
なあ旦那、頼むよ、己れの首を刎(は)ねて、目抜き通りのど真ん中に、転がしておいてくれよ。
青年:骸(むくろ)は山奥に埋める。
金貨:お願いだ。キャンキャンと吠えた負け犬の生首は、世間様の目に晒されなくちゃなんねえよ。
青年:断る。
金貨:ええ、そうかい。そうですかい。
旦那もまあ、頑固なお人だ。
無理を斬って、道理を斬って、これから一体、何を押し通すっていうんで。
青年:無理も道理も、師の教えまでも斬ったのだ。
某に残るは、もはや剣のみ。
金貸:へえ。そうですかい。
己れは、三途の川向こうで拝んでいますよ。
(金貸、引き笑いを一つ。直ちに絶命の一声をもって舞台は幕)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます