第5話 線香花火
じゃぽん。
桶の中の水が揺れる。足下で灰色の枯草が濡れた。
「ちょっとアレックス、こぼさないでちょうだい」
「ご、ごめん……」
「このレーダ・フォン・シプナーが井戸から汲み上げた貴重な水なんですからね!」
そんなことを言われても、重いものは重い。
男子といえどもまだ十歳、アレックスの腕力は十四歳の姉レーダには全然及ばなかった。
「うう……つらいよぉ……」
ときどき井戸水と弱音をこぼしながら、昼過ぎに姉弟はどうにか「家」へ帰り着いた。
「やあ、お帰り。よく頑張ったね」
水汲みを終えてソファに身を投げ出したふたりに、マンドラゴラのジークがぽてぽて歩み寄ってきた。
「慣れない仕事をして疲れたろう。さあ、これをお飲み」
うっすら黄色がかった液体が、姉弟へのご褒美らしい。柑橘に似た、さわやかな香りがする。口に含んでみるとほんのりと甘く、姉弟の疲れた身体に染み渡った。
「ありがとうジーク。ところでこれ、何のお茶?」
「私の根毛さ」
それを聞いてアレックスはひどくむせた。
「人間の『殿方』も毎日髭剃りをするだろう? それと同じようなものだ。まあ私は双子葉類だから、ひげ根ではないがね! ハッハッハ」
「素敵!」
レーダが目を輝かせた。
「毎日身だしなみを整えるなんて、さすがジークですわ。だからこんなにお肌がすべすべなのね! ねえジーク、抱きしめてもよくって?」
「どうしてもというなら、仕方ないな」
レーダに頬ずりされてまんざらでもなさそうに笑うジークは、繰り返すがずんぐりむっくりのマンドラゴラである。
(姉さん、適応能力高すぎじゃない……?)
魔女のしもべになってから五日が経った。
アレックスは、まだこの生活に戸惑っている。
***
ここは「
一年中「灰枯」、つまり植物が枯れて花咲くことも実ることもない、死の森である。
王都エンペリアから逃れてきたふたりは常灰の森へ迷い込み、偶然一軒の家を見つけた。
そこには、しゃべって歩くマンドラゴラと、恐ろしい老婆が住んでおり……というのが、前回までのおさらいである。
「やかましいねえ。何をギャーギャー騒いでいるんだい」
奥の赤い扉が開き、この家の主が姿を現した。
黒いローブの袖から、しみだらけでしわしわの黒ずんだ手が覗く。黄色く濁った白髪を頭頂で丸く束ねていて、その毛先は悪魔の角のように天に逆らっている。顔面もまたシミと皺にまみれ、若かりし日の容貌を遥か時空の彼方に遠ざけていた。
老婆の名はゾルマという。彼女は恐ろしい魔女だった。
「小娘、根っこと遊んでないで、さっさと働きな」
「あらゾルマ、水汲みなら、さっき終わりましたわよ」
「しもべの仕事が水汲みだけだと思ってるのかい? このバカたれめ」
ゾルマが爪の長い、節くれ立った指を姉弟に向けた。
「魔女ゾルマがしもべらに命ずる。庭からカゴいっぱいにハゼランを摘んでおいで」
「は……はい、ゾルマ様」
もっと休みたいのに、意志に反して姉弟は立ち上がった。
この家に来た日、ふたりはゾルマによってしもべとなる呪いをかけられた。呪いが解けないかぎりは、ゾルマの命令には絶対に逆らえないのだ。
「……でも、『ハゼラン』というのがどんな植物なのか、わたくし存じ上げませんわ」
「僕も」
アレックスも控えめに続いた。
「ハゼランも知らないのかい? ふん、無知なガキどもめ。ハゼランていうのはね、食べられる草だよ。この時間帯なら線香花火みたいな花が咲いているはずさ。さあ、行った行った」
「はーい」
姉弟はひとつずつカゴを抱えて渋々家を出た。
「ハゼランは、私が腕によりをかけておいしく料理してさしあげよう。頑張りたまえ!」
そう言うジークもまた、ゾルマのしもべである。
***
「ねえアレックス、さっきゾルマが言っていたこと、どういう意味かしら?」
枯草を踏みしめるたびに、がさがさと音が鳴る。
「庭」は家の裏手にある草ぼうぼうの平地だ。まあ、常灰の森には人間も動物も近寄らないのだから、この森すべてがゾルマの庭のようなものだが。
「うん、『花が咲いている』って言ってたよね?」
この森は「常灰の森」、一年中花が咲かないのだと、そうジークが言っていた。アレックスも、ここに来てから花が咲いているところなど見たことがない。
「もちろん、それも疑問だけれど……」
そのとき、アレックスの目はこの森にあるはずのない色彩をとらえた。
「姉さん、あれ見て!」
灰色に覆われた庭の一角に、そこだけみずみずしく生い茂る緑の草むらがあった。
長く伸びた茎がいくつにも枝分かれし、星形をしたピンクの小さな花と、赤くて丸い実をつけている。
「これが、ハゼランなのかなあ?」
「これが、線香花火なのかしら?」
姉弟は同時に言葉を発し、しかし別々のことを言った。
レーダがゾルマの言葉で不思議に思ったのは、「線香花火」だったのである。
「姉さんも知らないの?」
「ええ、でもきっと、綺麗なものなんでしょうね」
この花に似ているのだから、とレーダが微笑んだ。
「摘んでしまうのは惜しい気がするなあ」
「でも、おいしそうだと思わない?」
アレックスが姉の楽しそうな笑顔を見たのは久しぶりだった。
これも魔女の呪いのなせるわざなのだろうか?
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