第4話 滴る
フリーゼ国王フランメルは、いかなる朝も身だしなみをきちんと整える人物だった。
自ら艶めく黒髪を乱れなく結い上げ、冷たい水で丁寧に顔を洗う。そうして身にまとうだけでも肩が凝りそうな十重二十重の白絹の衣で臣下たちの前に現れ、晴れやかな顔でこう言うのだ――今日も一日よろしくお願いします、と。
王の側近、侍従長ハインリヒ・フォン・シプナーは、かつてフランメル王に注進したことがある。客人のない日くらい、少しは御身をくつろげてもよいのではないか、と。
フランメル王はこう答えた。
「いつも身綺麗にしていると、天が恵みをもたらしてくださる気がするのです。私自身にも、この国の人々にも」
***
七月一日、フリーゼ国王フランメルが牢獄へ繋がれた日。
ハインリヒもまた、妻とともにエンペリア城内の客間に幽閉されることになった。
本来ならこの部屋に、彼の子どもたち、すなわちレーダとアレックスも連れて来られるはずだった。しかし七月一日の朝、姉弟は屋敷から
レーダの寝室には、書き置きが残されていた。
私たちのことは心配なさらないで。お父様、お母様、どうかご無事で。
レーダ・フォン・シプナー
こうなることが分かっていたから、レーダは弟を連れて逃げたのだろう。
(あのとき、俺がレーダの言葉に耳を貸していれば……!)
後悔は尽きることがない。しかし昨日までのハインリヒに、宰相の裏切りを信じるのは到底不可能だったろう。ハインリヒとフランメル王、そして宰相ヴァルター・フォン・グローバーは、幼い頃からの学友で、四十を過ぎても変わらぬ友情を保っていたのだから。
ヴァルターはつい昨日まで、フランメル王の優秀な右腕だった。頭脳明晰で決断力があり、国のためになることならいつでも迅速に行動した。多くの仕事を抱えながらも不満ひとつ口にせず、フランメル王のみならず部下たちからの信頼も厚かった。
――それなのに、なぜ。
考えても考えても分からない。親友でもあるフランメル王に忠誠を誓った若き日の言葉は、嘘だったのか。――ハインリヒには、どうしてもそうは思えなかった。
七月三日の夜、そのヴァルターが現れた。
彼は護衛も伴わず、ひとりでハインリヒが幽閉されている部屋にやってきたのである。
「フランの処刑が決まったよ。明日だ」
恐ろしい宣告をする宰相の声はやわらかだった。自ら裏切り投獄した王を愛称で呼びさえする。
ヴァルターはハインリヒやフランメル王より三つ年上の四十三歳だが、相変わらず若々しかった。濃い金色の髪には白髪の一本も見受けられないし、色の白い肌にも皺がない。紫色の瞳は、いまだ少年の頃の無邪気さを湛えて煌めいている。
「明日は刑の執行まで、一緒にいてもいいよ。最後にお世話をしてあげるといい」
「……なぜだ。なぜ、陛下を裏切った?」
ハインリヒは蒼白な顔で詰め寄った。
数十年来の友情は、そのぶん激しい憎悪に塗り替えられていた。できることなら、刺し違えてでもいますぐ殺してやりたい。だがここでは妻が見ているし、何より自分では絶対にヴァルターに敵わないことを、ハインリヒはよく知っていた。
「それと、もうひとつ君に用事があって」
ヴァルターはハインリヒの問いを無視した。
「レーダとアレックス、だっけ? ふたりして行方不明だそうだね。どこへ行ったか、本当に知らないの?」
「知らない。私が聞きたいくらいだ」
「そう、残念」
ヴァルターはあっさりと引き下がった。ハインリヒが嘘をついていないことを――上手に嘘をつける性分ではないことを、彼はよく知っていた。
「まさか……子どもたちにも手を出すつもりか!?」
「出さないよ」ヴァルターは薄い唇を細めて言った。「君の子どもにはね」
ハインリヒの顔からいっそう血の気が引いた。
ヴァルターは、何もかも知っているのだ。
「それじゃ、また明日ね」
「俺の質問に答えろ、ヴァルター!」
ハインリヒの叫びに、一旦は背を向けたヴァルターが振り向いた。
「君には分かりっこないよ、ハインツ」
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
***
王国暦三百二年、「百花」七月四日。
その朝にも、フランメル王は顔を洗った。長かった髪はざんばらに断ち切られ、衣服は白絹ではなく囚人が着るみすぼらしいものだったが、それでも顔を洗うことだけは許された。
「今日も一日、よろしくお願いします」
これから断頭台の露と消えようというのに、フランメル王はいつもと変わらぬ調子でハインリヒに微笑みかけた。
鬚のない顎から、透明な雫がしたたり落ちた。
ハインリヒは王の顔を拭う前に、番兵によって手荒く引き離されてしまった。
「フラン……!」
刑場の舞台の上で、ヴァルターがフランメル王の罪状を高らかに読み上げている。
「フリーゼ国王フランメルは、『百花』にあっては食糧や富を己の
嘘だ。彼はこの奇妙な気候の国の統治者として、歴代の王たちの誰よりも身を削って民のために尽くした王である。そのことは、他ならぬヴァルターが一番よく知っているはずだ。
王は舞台への階段を踏みしめて登る。大勢の民衆が彼を待ち構えている。歓声ではなく、怒号でもって。
それを目の当たりにして初めて、ハインリヒは知った。フランメル王が――彼の無二の親友フランが、これほどまでに憎まれていたことを。ヴァルターが起こした反乱は、民衆にはむしろ歓迎されていたことを。
フラン自身に何の落ち度があったろう。彼は、善き王だったはずだ。それでも、気の遠くなるような長い時間の中で少しずつ蓄えられ、かつ無視されてきた歪みが、いま彼だけを裁こうとしている。
「百花」の陽光が、断頭台の刃を舐めるように反射する。
ああ、わが王よ――。
それが落ちる音を聞くと同時に、ハインリヒの意識は暗転した。
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