第2話 金魚

 姉弟は夜な夜な屋敷の外へと忍び出した。

 レーダが街を脱出するために狙いをつけたのは、宿場街に停められている行商人たちの馬車だった。

 今日エンペリアで商売をした行商人たちは、宿場街で一泊して明日早い内に次の街へ向けて出発する。山積みにされた荷物に身を隠せば、自分の足で歩かずとも遠くへ連れて行ってもらえると考えたのだ。

 とはいえ、ほとんどの行商人は用心深い。停車場に止めてある馬車には頑丈な錠前つきの幌がかかっているか、見張り番がついているものがほとんどだ。

 ときどき夜更けにうろついている姉弟を不審がって声をかけてくる見張り番もいたが、レーダがにっこり笑って「少し遅くなってしまって。これから宿に戻るところですわ」と答えると、不思議と誰も疑わなかった。

 根気よく探しているうちに、ふたりはおあつらえ向きの馬車を見つけた。藁ばかりが束になって積まれた馬車である。錠前も見張りもついていない。行商人というより、農夫が出稼ぎに来たのかもしれない。

「いまは『百花』なのに、珍しいわね……」

 レーダがつぶやいた。

 フリーゼ王国には、ふたつの季節しかない。

 一年を十二ヶ月に分けた暦のうち、おおむね一月から三月までは寒冷ですべての植物が枯れたり休眠したりする「灰枯はいがれ」で、四月から十二月までは「百花」、逆に温暖ですべての植物が生長し、花を咲かせて果実を実らせる季節だ。

 世界広しといえども、こんな気候はフリーゼ王国だけである。この国は島国で、南の海の向こうの大陸とは全く気候が異なるのだ。ちなみにいまは「百花」、六月三十日の深夜である。

 藁や枯草は、「百花」にはあまり売れない。需要は主に農家が飼っている牛馬の餌としてだが、「百花」の間は藁を買わずとも無尽蔵に牧草が生えてくるものだ。だからこの時季に、藁売りの馬車がいるのはなかなか珍しいことである。

「まあ、積荷が藁ならきっと乗り心地はいい方でしょう。だって庶民はこれをベッドに使っているというのだから」

 レーダは荷台に乗り込んだ。初めはためらっていたアレックスも、姉に急かされて後に続いた。

 ふたりは藁と藁の間に潜り込んで姿を隠した。ちくちくするし草の匂いがぷんと鼻につくし、お屋敷のふかふかのベッドとは比べるべくもないが、思いのほか温かい。

 こういうとき、レーダは深窓の令嬢とは思えないほど肝が据わっている。「よく休んで体力を温存しましょう」と言った数分後にはもうすやすやと寝息を立てていた。

 一方、アレックスはなかなか眠れない。

 もし馬車の持ち主に見つかったらどうしよう? その人がすごく怖い人だったら? 人買いに売られてしまわないだろうか?

 フォン・シプナー家よりももっと裕福な貴族の家では、市場で奴隷を買ってきて、きつい労働をやらせることもあるそうだ。ひ弱なアレックスにはとても務まらないだろう。

 気になることは、それだけではなかった。

(姉さんは、どうして足手まといの僕を連れてきたんだろう)

 レーダには愛されていない。そのはずだ。

 アレックスが美人のレーダに全然似ていないせいか、弱虫なせいなのか、それとも単にレーダが冷淡だからなのか――理由はよく分からないが、レーダがアレックスを見る目はいつだって侮蔑の色を帯びている。あれは取るに足らない虫けらを見る目だ。

(もしかして、少しくらいは僕のこと、好きになってくれたのかな)

 きざしかけた期待は、しかしすぐに消沈した。

 アレックスが身じろぎしたとき、ジュッと頬に熱に似た痛みが走った。

 藁の硬く尖った切り口にかすったせいだ。わずかながらに血がにじんでいるのを感じる。

(……そんなわけないか)

 アレックスは自分の頬を撫でた。

 何事もなかったかのように、傷口が消えた。

(僕が便だから、連れてきただけだよね)

 強いて目を閉じる。心に諦めを招き入れると、急に眠気と疲れが湧いてきた。

 明け方に馬車が動き出しても、姉弟はぐっすり眠っていた。



***



 レーダとアレックスはほぼ同時に目を覚ました。瞼越しに強い光を感じたからだ。

「おやおや、仕入れたつもりのないが載ってるな?」

 笑いを含んだ男性の声が耳に飛び込む。馬車は林の中に停まっていた。

 藁束を抱えた長髪の男が、荷台に乗って姉弟を見下ろしている。

(市場で売られるのは嫌だ!)

 アレックスはとっさに荷台から飛び降りた。

「ちょっと、待ちなさいよ!」

 レーダが後を追う。

 闇雲に駆け出した子どもたちに聞かせるでもなく、男はのんびりと呼びかけた。

「おーい、そっちは危ないぜー。こわーいが住んでるぞー」



***



 ふたりはいつの間にか、奇妙な森に迷い込んでいた。

 いまこの国は、「百花」真っ盛りのはずである。

 それなのに、立ち並ぶ木々はすべて枯れ木で、地面は茶色く干からびた葉や雑草で覆い尽くされている。花はひとつも咲いていない。

 これではまるで、「灰枯」だ。

 やがて姉弟は道に迷っていた。似たような景色ばかりで、どこから来たのか分からない。

 喉が渇いて、足が痛い。お腹もだんだん減ってきた。レーダはいくらか路銀を携えてきたが、この不気味な森では食べ物を買うこともできない。

「全部あなたのせいよ、アレックス。私ならあの行商人とうまく交渉できたのに」

「……ごめんなさい」

 レーダの苛立ちに対して、アレックスには反論の余地がない。

 と、姉弟の目の前に突然、人家らしき建物が現れた。古ぼけていて大きくはないが、煉瓦造でしっかりした家に見える。

「こんなところに人が住んでいるなんて……。助かったわ、食べ物を分けてもらいましょう」

 レーダは絶対の自信を持っている。どんな相手でも、自分の思い通りに動かすことができると。実際これまで、彼女のわがままがすべて叶えられるところを、アレックスは間近で見てきた。

 しかし、見れば見るほど不気味な家だ。枯れた蔦があちこち這っているし、灰色にくすんだ扉には、人間のドクロに似た枯れ花の束がぶら下がっている。

「姉さん、気味が悪いよ……」

「落ち着きなさいよ。これは『獅子の口』が枯れたものよ。うちの花壇にも咲いていたでしょう? 花が枯れると、こういう姿になるの。単なる魔除けのおまじないよ」

 レーダが扉をノックしようとした、そのとき。

 

 ギィィ……。


 内側から扉が開く。

「きぃやああああああああああーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!」

 鋭い悲鳴が、灰色の森に轟いた。



(作者注)

*「獅子の口」……金魚草のドイツ語名(Löwenmaul)をそれっぽく日本語にしたものです。

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