灰枯と百花のゾルマ

泡野瑤子

第1話 黄昏

「アレックス、いまから一緒に家出するわよ」

 夜更け、いつもは弟のことなどろくに顧みもしないレーダが、寝室にやってきてだしぬけに命令してきた。彼女はさらさらの赤い髪を後ろでひとつに束ね、乗馬遊びをするときのズボン姿で手荷物をまとめている。

「家出……って、なんで?」

 アレックスは青い目をしばたたかせた。

 もう寝間着に着替えて、ベッドに入ろうとしていた。昼間は召使が整えてくれている黒いくせっ毛が、眠気に負けてあちこちびよびよと跳ねている。

 彼らはフリーゼ王国の貴族、フォン・シプナー家の子どもたちである。貴族の中ではさして身分が高いほうではないが、姉のレーダは十四歳、弟のアレックスは十歳、庶民の家と比べれば何倍も広くて豪華なこの屋敷で、優しい両親のもとでこれまで何不自由なく生活してきたはずだ。アレックスには家出をする理由が見当たらない。

「宰相閣下が、恐ろしい企てをなさっているのよ」

 レーダが言うには、こうだ。

 フリーゼ王国宰相ヴァルター・フォン・グローバーは、かねてから国家転覆を企図しており、明朝その計画が実行される、と。

 街に騒ぎを起こして火を放ち、軍がその鎮圧に当たっている間に、国王を捕らえるのだと。

「わたくし、今日お母様と一緒にお城のお茶会へ出かけたでしょう? そのとき道に迷ってしまって、偶然騎士風の殿方が物陰でひそひそ話をしていたのを聞いてしまったの。胸の紋章は群青ぐんじょうに白薔薇、あれはフォン・グローバー家の騎士だったわ」

 姉は確信を持っているらしいが、アレックスは半信半疑だ。

「それが姉さんの聞き違いじゃなかったとして、どうして僕たちが家出をすることになるの? ここにいたほうが安全じゃないかな」

「ばかね、あなたは」

 レーダは冷たい声で言い放った。

「わたくしたちのお父様は、国王陛下の侍従長じじゅうちょうで幼少期からのご学友でもあるのよ。宰相閣下が見逃してくださると思って?」

「お父様も捕まってしまうってこと?」

「恐らくはね」

「それなら、早くお父様に報せなくちゃ」

 部屋を出ようとするアレックスの手を、レーダが掴んだ。

「もちろん、わたくしからお父様にお伝えしたわ。でも、信じてはくださらなかった。『宰相閣下は無二の忠臣であるうえに、国王陛下と私の共通の親友だ。反逆など万に一つもあり得ない』と」

 子どものれ言とお思いになったのね、と悔しそうに付け足す。

「このままここにいれば、わたくしたちも捕まってしまうわ。わたくしたちだけでも逃げなくては」

「もし、何も起きなかったら?」

「そのときは、何食わぬ顔で帰ってくればいいのよ。少しくらいは叱られるかもしれないけれど、謝れば許してくださるわ」

 きっと僕のせいにされるんだろうな、とアレックスは小さくため息をつく。

 レーダは嘘つきでずる賢い。ふたりで悪さをしても、叱られるのはいつもアレックスのほうだった。本当はレーダが言い出しっぺなのに、「アレックスがどうしてもって言うから……」と彼女が黒い瞳を潤ませれば、父も母も召使たちもみな信じてしまう。

「分かったよ。すぐ支度するから、ちょっと待ってて」

 しかもレーダはわがままだ。一度言い出したら聞かない。

(きっと今回だって、僕をひっかけようとしてるだけに違いない。後で僕が叱られるのを見て笑うつもりなんだろう)

 内心ではそう思いつつも、アレックスは姉に騙されるふりをすると決めた。


 だが――。



 国の終わり、ひとつの時代の終わりは、しばしば黄昏たそがれに喩えられる。

 しかしながらフリーゼ「旧」王国の終わりは、太陽が盛んに輝く真昼に訪れた。


 王国暦三百二年、「百花ひゃっか」七月一日。


 明け方に首都エンペリア郊外で市民の暴動が起きた。

 その種火が何だったのかは、つまびらかではない。市民同士の些細ないさかいであったとも、いわれのない容疑で逮捕されそうになった前科者ぜんかものと兵隊との衝突であったとも言われている。

 ともかく、長年の苦しい生活に耐えかねていたエンペリア市民たちの怒りが文字通り燃え広がり、火の手は裕福な貴族階級の邸宅が建ち並ぶ中央市街にまで及んだ。

 ときの国王、フランメル王は鎮圧のために軍を出動させた――それが罠だとも知らずに。

 手薄になった王城に、群青に白薔薇の紋章旗が押し寄せた。宰相ヴァルター・フォン・グローバーの騎士団である。

 フランメル王と、侍従長ハインリヒ・フォン・シプナーをはじめとした側近はみな捕縛され、宰相は国王の専制による旧王国の終わりと、議会政治による「新王国」の誕生を広く民衆に宣言した。


 つまりはすべて、レーダが言った通りになったのである。

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