朝凪沁の散歩道

五十川紅

怠惰な休日



 僕は割と、無の時間というものを大切にする。何も考えずに、冬の寒い朝、ファンヒーターの前に座り、温風に肌を炙りながら、ただただ時間を過ごすのもいいし。

 休みの日だからとお昼まで惰眠を貪り、小銭だけをポケットに入れ、自販機まで散歩して、甘ったるい缶コーヒーを飲みながら、公園のベンチでぼーっとするのも、僕にとって心の安寧の為には必要な事なのだ。


「あら、朝凪先生。こんにちは。今日はお休みですか?」


 近所のおばさんに不意に声をかけられ、背筋が伸びる。


「あぁ、吉見さん。おはよ……いや、こんにちは。そうですね。今日はカウンセリングセンターもお休みなので、完全なオフです」

「そうですか。ゆっくり休んで下さいね」

「ありがとうございます」


 僕が一礼すると、吉見さんは人好きのする笑みを浮かべ去っていった。


「まぁ、日曜の昼間に誰もいない公園で缶コーヒー飲んでるのなんか、この辺じゃ僕くらいしか居ないか」


 なんとなく居づらくなり、僕は近隣を適当に散歩しようと思った。


「赤川の河川敷でも歩くか」

 

 山形県鶴岡市。東北の田舎町……僕の故郷でもあるこの街は、何でもあるようで、何も無い。海もそれなりに近く、山もある上に、平野部に作られたこの街は、海産物も農産物も様々なものが新鮮な鮮度で手に入り、食べ物も美味い。

 住んでいる住人の人柄は、田舎特有の余所者を嫌う……というのは多少なりあるが、それなりに優しい者が多い。方言が柔らかいのもその辺りが影響しているのだろうか?


「あ、朝凪先生じゃん!」

「ん? あぁ、本田君。こんにちは。ランニングかい?」

「まぁね。そっちは……なんか寝起きっぽいね」

「うっ」


 僕は咄嗟に持っていた缶コーヒーを背中に隠した。生徒の前ではあまり怠惰に過ごしている所は、流石に見られたくはないという気持ちになる。


「先生、彼女とかいなそうだもんな!」

「ううう、うるさいな! 学校勤めで土曜はカウンセリングセンターに行ってるから、出会いなんか無いんだよ」

「ふーん。でもそれって、先生が出会おうと本気で思ってないからじゃないの?」

「ぐうっ!」


 なんだ……胸が痛い。心臓を槍で一突きにされた様な……。


「図星だろ。ま、いいや。俺が卒業したら合コンする時誘ってやるからさ! 期待しててよ!」

「あ、ありがとう」


 田舎とは言え、最近の子はませてるなぁ。僕が子供の頃なんて、合コンなんて一部のチャラ男しかしてなかったけど。


「じゃあね!」

「あぁ。気を付けてね」


 本田君は、手を上げると走り去って行った。生徒に女性関係の乏しさをイジられるとは……養護教諭とはいえ、教育に携わる者としての威厳はゼロなんだろうな、僕……。


 赤川の河川敷沿い。大きな桜の並木が続くこの河川敷沿いの道路は、春になるとそれは荘厳な美しい花を咲かせていた。だが、それは僕が子供の頃の話で、今は何本も桜の木が枯れてしまっていた。


「なんだか、寂しくなるものだなぁ」


 時が流れば、変わるものは多い。僕だって子供から大人になった。この街も、昔は大手のデパートがあったけど、時代の流れと共に撤退し、今は大きな商業施設は無くなってしまった。

 地元企業がデパート跡を買い取り、なんとかやっている商業施設も、言ってはなんだが、郊外の有名な商業モールから見れば、勢いは無いと言っていい。

 昔はそこに連れて行って貰えるだけで、目を輝かせて喜んだものだけども。


 ――数年前と同じ道を歩くとしても、違って見えるのは、僕が変わったからなのかな。

 いや、変わりたくても変われない。変われるのなら、とうに変わっているだろう。

 普通であれ。普通が欲しいと願い続け、幾年過ぎ去ったのだろうか。本当の自分はどこに置いてきたのか。


 河川敷の下の簡素なサッカーグラウンドへと降りる為の階段に腰を掛け、ぼーっと水の流れを眺める。

 時間、景色、他人……全てに置き去りにされたような感覚に陥り、手に持っていた缶コーヒーを啜る。


「ぬっる」


 ずっと持っていたから、手の温度と同じ位……飲み物としては一番不味い温度なんじゃないかこれ。

 このコーヒー。時間が経つと鉛筆の芯みたいな味するんだよな。


「鉛筆の芯、食べたことないけど」

「何、一人で喋ってるんですか?」

「うおおおわ!?」


 突然、背後から耳心地の良い声が掛けられ、驚きながら振り抜くと、カーキ色のモッズコートを羽織った黒髪の美人が立っていた。


「ど、どちら様ですか」

「え? ちょっと待って。ホントに気付いてないんですか」

「え……? あ! もしかして、春日井さん? あ、そうだ。春日井さんだ! いやぁ〜化粧してるから、あんまり大人っぽくて分かんなかったよ」

「ま、褒められてると思っておきますよ」


 春日井さんは、僕の隣に腰掛けてくる。


 ――春日井明日葉かすがいあすは。僕の勤務先である私立羽白はねしろ学園高等学校の、特進科に通う学力優秀な才女だ。長い前髪で顔の左半分が隠れており、ミステリアスな雰囲気があるが、本人はいたって明るい性格で、友人も多い。

 先程会った本田君もまた、羽白の機械科の生徒で野球部に所属している。彼は学力は、まぁ……お察しだ。


「春日井さんは、何をしていたんだい?」

「少し気晴らしに散歩って所です。朝凪先生は? なんだか独り言を呟いていたようですけど」


 春日井さんは、からかい混じりに僕に振り返してくる。


「あぁ、僕はさっき起き……あ、いや。ちょっと、考え事をね」

「なるほどなるほど。休日だからと怠惰にもお昼まで寝ていて、それでもなお時間を持て余していたから、缶コーヒー片手に散歩していた。と」

「う……。先生のイメージが崩れると悪いから皆には内緒にしてね」

「あっはは。皆そこまで朝凪先生の事かっこいいなんて思ってないですよ」


 なんだろうか。そんなに良いものだと思われている自覚は無かったけど、面と向かってそう言われると……なんか……辛い。


「朝凪先生?」

「あ、あぁうん……いや……ちょっとショック」

「はは。ほんと朝凪先生って面白いよね」

「褒められてる? それ」

「うん。壁が無いっていうか……。他の先生達って、なんてゆーか、お前達は子供で自分達は大人なんだっていう、圧みたいなのを感じるっていうか。朝凪先生は、なんだろ? 寄り添ってくれるって感じ? 私達を、他人扱いしてないみたいな? よく分からんけど」

「まあ、メンタルカウンセラーですからね。……とカッコつけたいところですが、僕も皆さんと同じ子供なんですよ」

「休日に髭生やして散歩してる子供がいるかっ!」

「ぶっ……ははは」


 確かに髭、剃ってなかったな。

 自分の情けなさに、春日井さんのツッコミに、両方おかしくなり、笑いが溢れる。


 二人でひとしきり笑うと、春日井さんはすっと立ち上がった。


「朝凪先生はもう帰るの?」

「すぐそこで、ラーメン食べて帰ろうかなと」

「辛味噌ラーメン?」

「辛味噌です」

「良いなぁ。奢って! ……って言いたいところだけど、ご飯食べちゃったからなぁ。残念だけど、また今度、会ったら奢って下さいね」

「うーん、まぁいいでしょ。じゃ、春日井さん。気をつけて」

「はーい。また明日」


 今度会ったら、タカられる約束を何故か交わすと、春日井さんは自転車で走り去って行った。


「…………行くか」


 また数年後、同じ様に此処を歩けば、何か変わっているんだろうか?

 きっと、変わっているのだろう。また、僕を置き去りにして。

 

「でも、なんだか……昔よりは、いろづいたかもな」


 幼い頃に見ていた、灰色の世界よりは、きっと。


「さって。ラーメンラーメンっと」


 


  

 

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