8-10 禁煙

 真夜中にもかかわらず、署内の犠牲者は驚くほど速やかに回収されていった。

 深刻な爆発事故によって多数の警官が命を落とした、とでも報じるつもりなのだろう。

 本来であればこの大会議室も封鎖されるはずだが、室内に残る不気味な二人組を追い出そうとする者は皆無だった。

「確か、大陸出身の殺し屋崩れがいたでしょう。詳細はあれに聞きなさい」

 ダリアは割れた窓越しに夜空を眺めていた。

「…………」

 ハヌマンは彼女の隣で座り込んでいる。

「自分の凡庸さに落胆しているのですか。滑稽ですね」

 ダリアの声は相変わらず冷淡だ。

 そしてその言葉は事実である。

「俺はただ、自分の無能から目を背けているだけだったのか」

 うわ言のようにハヌマンが呟く。

「ようやく気づいたのですか。私の言葉を何も聞いていなかったようですね」

 ダリアが歩き出す。

 そして去り際に、少しだけ振り向いて、言った。

「幾人かは救ったのでしょう。凡夫なら凡夫らしく、小さな成功に自惚れていれば良い」


 しばらくして、別の男が近寄ってきた。

「いや酷い目に遭った」

 ヒシヌマは包帯で吊った腕を見せびらかそうとしたが、うつむいたままのハヌマンを見て、ため息を吐いた。

「上はもっと大変だけどな。署が襲撃されるなんて、腕どころか切腹もんだ」

 そう言って大男の隣に腰を下ろす。

「大見得を切ってこのざまだ。悪かったな」

 ハヌマンはうつむいたまま言った。

「最初から信用してねえよ」

 タバコを咥えるヒシヌマ。

「ここは禁煙だろう」

「臭い消しだ。文句言うな」

 ヒシヌマの言う通り、部屋にはずっと血の臭いが残っていた。

 血痕を拭き取ったところで消えるものではない。

「人類が生まれて、文明が起こって、法律ができて、どんだけの時間が経ったんだろうな」

「…………」

 ハヌマンは何も応えない。

「それなのに犯罪はいつまで経っても無くならねえ。たまに思うんだよ。人間はもうこれ以上賢くならないんじゃないかってな」

 ヒシヌマは煙を吐きながら言った。

 犯罪者と接する日々の中で、警察であれば誰もが考えることなのかもしれない。

 どうしてこの程度の秩序も守れないのか、と。

 そしてハヌマンもまた、そうした凡人の一人なのだということを思い知らされた。

「…………そういうことか」

「何だよ」

 不意に立ち上がったハヌマンを、ヒシヌマが怪訝そうに見上げる。

「怪物のことはウォルフに聞いてくれ。ダリアはあれを傀儡女と呼んでいた」

 そう言ってハヌマンは歩き出す。


 ようやくわかった気がする。

 今まで俺は、特別であることに拘ってきた。

 有象無象の愚か者とは違うと、自分に言い聞かせてきた。

 そしてその幻想は砕かれた。

 王も修羅も無い。

 己が凡人であることを認めてこそ、試練があるのだ。

 ああ、ようやく道に立てた。

 そんな気がする。

 そして、ふと思った。

 あの女も挫折を味わったのだろうか。

 自尊心を打ち砕かれたことがあるのだろうか。

 それを知る術は無い。

 熊のような大きな男が、夜道を一人歩いていった。


 傀儡女のゲツ編 終わり

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フェイサー Afraid @Afraid

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