第5話 ひかり
わずかな可能性を光と言うのなら、あきらめないことは影だ。
:
県の最西に位置する岡田市は、メロンの一大産地だ。特にアムスメロンは市内の東側の多くの農家で作られている。稲作よりも盛んな農業とも言える。そのためか、北産業高等学校の特別科でもメロン実習というものがある。二年生が近隣の農家に分散してお邪魔し、農業体験を行うもので、かれこれ十年ほど続くイベントであった。
生徒もただでメロンをご馳走されるので、この日のイベントばかりは休む者が過去五年を見てもいないほど、人気であった。産業科の生徒はさらに高度な農業体験を行う。産業科の生徒を受け入れる農家は毎年同じところだと決まっている。
今年もそんな実習の時期になった。
岡田市のアムスメロン、といって有名なのは江橋だった。江橋家の大きなビニールハウスは田んぼの中に五棟ほど建ち並ぶ。毎年北産業高等学校、通称北産業の卒業生も一人か二人ほど就職するくらいだ。
農家が果たして本当に金持ちなのか、は証明しがたいことではあるが、住居は立派な日本家屋で、離れがいくつもある。その離れに従業員を下宿させている。江橋家の奥には小さな枯山水風の庭がある。あくまでも風なので、池が存在し錦鯉が泳いでいるのだが、当主の大事なペットなので今まで家族の誰も餌を与えたことはない。
離れの近くには犬小屋があり、ころころと丸い柴犬が飼われている。太った柴犬の名前は与太郎だ。古典落語の好きな当主がつけた。離れにも名前がつけられている。桜、梅、桔梗、菖蒲、向日葵。これも当主の好きな花の名前だ。
江橋家の実権はとにかくその当主が持っており、息子がメロン栽培を後継してもなおこの家において、当主が一番であった。表向きは好々爺としてるが、刃向かうものには容赦ない。一度、息子と大喧嘩をして、息子が家出をしたことがあるほどだ。そのときは勘当してやる、とまで言っていたが結局後継者ほしさに当主が若干折れる形で、呼び戻した。きっと息子の方も衣食住の確定しない生活など長続きしなかっただろう。双方痛み分けであった。
江橋つばめは、そんなアムスメロンの農家に生まれた、次男坊であった。すでに五歳離れた姉のすずめが婿養子を迎えているので、跡継ぎの心配はなく、北産業に通いつつも産業科ではなく特別科に所属している。
つばめが家に帰ると、一族と従業員が忙しそうにばたばたしていた。手伝えと言われる前にこっそりと自室へ向うことにした。しかし玄関を入って一番手前にある階段に足をかけたところで、つばめ、と呼び止める声が聞こえてしまった。
姉のすずめの声だ。つばめが二番目に逆らうことのできない人であった。しぶしぶ体の向きを変えた。すずめは呼び止めたのに、何か指示を出すことはしなかった。昔からそういう性質で、圧倒的に言葉の足りないのだった。体操服のままだったので、荷物を階段の袂において、すずめについていく。体操服だったのは、産業高校なので、体操服や作業服のままの登下校を認められている。
枯山水とは真反対にある小さな作業所では次の日の準備がなされていた。次の日、産業科の学生がやってきて、農業体験をするのだ。後輩がやってくるからと一部の従業員ははりきっている。未来の従業員がやってくるからと、一族もはりきっている。
「つばめ、佐貫さんところにこれ持って行って」
作業所の母親に二玉のメロンを持たされる。腕の故障を気にして母親と当主の祖父だけはつばめに甘い。すずめが文句を言う前に、つばめは返事をして家の駐車場から敷地を出た。出たところで、返事をしたことを後悔する。
佐貫家は米農家をしている。毎年米を買い付けるので、江橋家もメロンをお裾分けするのだ。もちろん、代金は払っている。これはご近所つきあいの一端であった。売り物に出してもおかしくない、そんなメロンをお裾分けする意味も、もちろんある。
佐貫家とは昔から家族ぐるみの付き合いをしている。つばめが小学生の頃はしょっちゅうバーベキューなどを一緒にしていたのだ。すずめが高校に上がると、ぱたりとそれもなくなってしまったが、今でも親世代は遠出をして焼き肉屋に行くなどしている。祖父世代も碁会所などに通っては対戦しているようだった。
ずん、と岩でも乗せたように、肩が重くなるのをつばめは感じた。まだ親たちは自分たちが仲の良い子どものままだと思っていることに、腹立たしいような、悲しいようなそんな気分にさせられるのだ。
ビニールハウスの隣には、広大な田んぼが広がっている。そこ一帯が佐貫家の土地だった。土地面積だけで言えば、佐貫家の方が広いだろう。田んぼを突っ切る農道を歩いていると、後ろから自転車のタイヤが地面を食む音が聞こえてきた。
つばめは立ち止まって、後ろを振り返る。ちょうど手前で自転車のきしむ音がやんで、一人の少年が自転車から降りた。少年はつばめの持っているものに目を落として、それから手を出す。家まで行くのは面倒だと思っていたところだったので、それを素直に渡すと、一言も言葉にせずに元来た道を戻る。
少年、佐貫通李のきつい視線から逃げるように、駆け出した。
「今日、産業科はお前の家か」
涼しげな目元に、下がり眉、柔和な雰囲気のおかげでその場の空間だけ少しばかり遅れているようだった。よく言えば、優しい。悪く言えば、脳天気。日向時間ならぬ木戸時間の創造主である木戸春彦は、食後のおやつであるクッキーを頬張っていた。
「メロン、羨ましい」
「そんなにいいかものか?」
「お前はメロン農家だからなぁ。ありがたさ半減だな」
つばめはこの方メロンのありがたみなど感じたことはない。農家だから夏場にはメロンが食卓に並ぶことも理由にあるが、理由はそれだけではない。メロンは一生食べなくても困らない。主食になる米でもおかずになる魚や肉でもないのだ。野菜ではあるが、果物として食べられるそれは、別に食べなくても良い。たとえばもっと安価な果物でもいいのだ。メロンは安いとは言えない。
食べないと困らないからありがたいのか、それとも食べないと困るからありがたいのか、価値観の尺度の違いだった。メロン食べたい~とクッキーをおかきのようにぼりぼりと食べる木戸を見て、形の良くないメロンでも母にお願いしようかと思った。
不意に、机の上に並んだ二つのスマホが鳴動した。授業中や業間にはスマホを取り出してはいけないが、昼休みと放課後だけは出して良いことになっている。ほぼ同時にスマホを取り上げると、一瞬先に同じA組にいるよく知っている輩の声が大きくあがった。
「くそ顧問!役に立たねぇのは頭だけじゃなくその行動力もか!」
その勢いにすぐにチャット画面を開く。再来週末の練習試合中止、とだけ書かれていた。キャプテンの秋田仁からのメッセージだったが、おそらく試合の中止は顧問の仁科のせいであった。再来週末の試合は、三年生最後の試合になるはずだった。いや、北産業高等学校野球部、最後の、試合のはずだった。
今日は昼休みを使って相手校との話し合いにキャプテンと顧問が向かっていた。相手にとってはただの練習試合だろうが、つばめたちにとっては、引退試合だった。しかも一、二年のいない北産業の野球部には次の年がないので、本当に最後の試合だったのだ。
ぶっ殺す、と廊下から声が聞こえてきた。目の前の木戸もフォローのしようがないのか、あたまを抱えている。つばめもこめかみがひくつくのを感じた。
弱小校の御旗を掲げる北産業高校野球部。部員は九名。マネージャーが一人。全員が三年生。甲子園のマウンドどころか、地方大会にすら出ることができなかった、そんなチームが最後にすがる思いで試合を頼んだのは私立みやま高等学校だった。スポーツ学校と名高いそこに仁の知り合いがいて、その伝手で得た練習試合だった。
みやま高校もこちらの事情に憂慮してくれたのか、一軍との試合だった。華々しく散ろうぜ!と意気込んでいた、そんな矢先の中止。理由は聞かなくてもわかる。おおよそ無駄に熱血教師を演じている仁科が相手チームをけなしたのだろう。
熱血と傲慢は違う。自分を高めるために相手を貶める行為を熱血とは言わない。まだ年若いその教師はそれがわかっていないようだった。高校生にもわかることを、なぜ大人である教師がわからないのか、軽トラで市中引き回しの上獄門に処したい、つばめはそんな気持ちになる。
「なんやの、俺らついてなさすぎだろ」
地方大会に出ることができなかったのも、仁科が風邪を引いたからだ。こんなときの熱血教師のはずだが、普段根性論を語るくせに、そのときは休んだ。監督者が不在のままで出ることなどできやしないので、結局一回戦での棄権となった。選手は万全だったのに、棄権などバカらしいにもほどがある。だから普段穏やかな春彦までもがぼやくのも無理はない。
「あー、もしかして試合しないで終わるのかなぁ」
ぞっとしない話だ。仁科は出鼻を挫くことに腐心しているとしか思えなかった。だからといって、顧問を降りてしまったら、その時点で野球部は機能しなくなる。どうにか最後の引退試合くらいはしたかった。
だがその望みは消えかかっている。残りの時間を勉強とメロン農家の手伝いをしながら過ごすのかと思うと、やる瀬なさがつのる。弱小校は三年間、それなりに頑張ってきた。その結末がこれなら残酷この上ない。
諦めかけたとき、再びスマホが鳴動した。顧問からだろうか、と見てみれば仁からで。そこには九月の頭に野球の試合、とだけ書かれていた。
「はぁ?!どことだよ?!」
先ほどから殺すだの死ねだのうるさかったクラスメイトでありチームメイトの神瀬慶と八雲達央がつばめの心を代弁してくれる。その問いに合わせるようにまたスマホが鳴動する。
『沖町の草野球チームと、深山高校の野球部が試合するところに、入れてもらえた』
隣町の深山市には私立と県立の二つの高校がある。私立は前述したとおりスポーツ学校だが、県立は地元の進学を目標にする生徒の通う学校だった。野球部は小さいながらもある。みやま高校と並ぶと影が薄くなるが、地方大会にも出た学校だ。
対して、沖高校は数年前に廃校となった。だから草野球チームなのだろう。おじさんを相手にするのはだいぶ面倒くさいが、深山高校との試合はありがたい。つばめは小さくガッツポーズを作った。
「喋ったら俺の人生をなげうってでも殺す、といったら大人しくなった」
自称熱血教師もさすがに命までは惜しかったらしい。普段は温厚篤実なキャプテンだが、決していつも優しいわけではない。陰口をたたくときは、もっぱら鬼と呼ばれている。今回はそんな鬼な部分に救われたらしい。
仁によると、帰り際に深山高校の教員と出会ったらしい。ダメで元々だと練習試合を申し込んだら、すんなりとオーケーをもらえたという。ただしおじさん軍団付き、という。だが、草野球チームにも最後の卒業生たちが混じっているという。比較的(何と比較しているか知らないが)、若いチームなのだという。
沖町は陸上で少しだけ有名だった。特に最後の年は、二人のエースを抱えていて、北産業が太刀打ちができなかったと聞く。その最後の年が三年前の冬だから、大学に進んでいれば二年生だ。野球チームがあったとは聞かないが、中国地方が誇る赤ヘル軍団がいるから、草野球チームを作って町おこしをしている、と風の噂で聞いていた。
(赤ヘルは隣の県だろ・・・・・・)
だが、そのおかげで試合ができるのだ。文句は言えまい。
八月二日は、夏休みだが出校日である。野球の練習ができない日でもある。グラウンドは覇権を握るサッカー部と陸上部に席巻されているからだ。廃部になる弱小部に使用権などあるはずもない。そのかわり、三㌔ほど高校から離れた場所にある、記念公園を無料で開放してもらっている。さすがに芝生のグラウンドを荒らすことはできないが、土のコートと呼ぶにふさわしい場所を、野球部の本拠地としている。
だれか練習したいと言わないかな、とつばめは思った。深山高校には負けるかもしれないが、おじさんチーム(と呼んでいいのかわからない)には勝ちたい。人数は九人ぎりぎりで、強いのかと言えば、どちらかというと弱い。
強いて言おうとしても、強いて言うほど強いやつも強みもない。勝てないかもしれないなぁ、とつばめは悲観的になる。学校からの帰り道、つばめは徒歩だ。同じく東側のエリアに住んでいる仁とそれから、チームメイトの真川緋勇がつばめをはさむようにして歩いている。二人とも百七十後半くらいの身長があるので、百七十に到達して止まったままのつばめは連行される宇宙人の気持ちであった。それも三年目になると、だいぶ慣れてしまったのだが、それが憎いような心持ちだ。
ジョグで河川敷を走り抜けていく陸上部を眺めながら、つばめは自分が選手であったらと、ふと考える。いや、何度も考えたことだった。そうしたら、部員に練習をしたいと言えたかもしれない。マネージャーである自分が率先して言うには、すこしばかりの恥ずかしさと、躊躇いがあった。
「ほや、あいつどうしてんの?」
突然思い出したように、仁が話題に出す。だが、突然思ったことでもないのだろう。緋勇も興味があるのか聞き耳を立てている。
「さぁ、メロン持って行ったけど、何も」
何も言わせなかったのはつばめの方だ。話したくないわけではないが、あいつ、佐貫通李の口から聞きたくない言葉があった。通李は言ってやろうと、いつも構えているのだが、それをつばめが拒んでいるのだ。
(んな言葉聞きたくないわ)
不意に自転車のきしみが聞こえてきた。立ち止まって振り返るが、そこを走り抜けたのは通李ではなかった。立ち止まったつばめをおいて、のっぽの二人は歩く。
「あいつがいれば、なぁ・・・・・・」
鬼のキャプテンがわざとらしく大きな声で言う。それを聞かなかったことにして、つばめは二人を追いかけた。臍を噛むような思いをしているのは、つばめの方だった。あのとき、通李とちゃんと話せば、今頃は三人集団ではなく、四人集団だっただろう。
ちょうど二年前の夏。つばめは通李と接触した際に腕を怪我した。ちょっと骨にひびが入った程度だったのだが、つばめはそれでも野球を続け、ついには腕を壊したのだ。通李が怪我の原因であることはその場の状況からも言い逃れのできないことではあるが、その怪我を悪化させたのは、ほかでもないつばめだった。
通李は責任を感じて部をやめた。本当にやめるべきだったのは、自分だったとつばめは思う。通李の居場所をなくしてしまった後悔。だからといって、自分の居場所を明け渡そうとしない、腐った根性。
薄暗い気持ちを察したのか、吹き飛ばすように緋勇が背中をたたいた。ちょっと強いくらいで思わず前のめりになる。緋勇は物静かな少年だが、頭の回転が速く、物言いは厳しい。いや、厳しくならざるを得なかった。問題児ばかり抱える、この野球部ではいい子ちゃんではいられないのだ。
「卑屈になるなよ」
静かだが、励まされているのだとわかる。つばめはゆっくりと頷いた。仁も少しばかり低い位置にあるつばめの肩をたたいた。こっちはおそらく、連れ戻せよ、という脅しかもしれない。
連れ戻すことができたら、どんなにいいか。チームの中で一番野球が好きで、一番強かった、両利きの四番バッター。野球さえ続けていれば、将来プロになってもおかしくないほどの逸材。そう言うと、いつも照れたように笑っていた通李だった。まんざらでもなかったのかもしれない。
「最後くらいは、勝ちてぇなぁ」
そう思うならキャプテン自ら練習しようと言えばいいのに、と思うがそれを強制できる立場ではない。しかし、最後くらいは勝った姿をみたかった。聞こえだけはよい思いだけが先行していく。あいつならきっと、練習しようぜ、って言うのだろう。それがまた歯がゆいのだ。
重い息がこぼれ落ちた。
ばたばたと忙しそうな音でつばめは目が覚めた。時計を見ればまだ朝の五時にもなっていなかった。庭から与太郎の鳴き声も聞こえてくる。周囲は田んぼなので近所迷惑にはならないだろうが、田んぼ四反ほど挟んだ向かいの家に住む又賀の当主にまた嫌みの一つでも言われるかもしれない。 田んぼやビニールハウスの広がる岡田市の東側は、家と家の間隔が広い。隣の家が百メートル先は普通で、主な道路は農道なので、夜になるとライトもつかずに、暗い。山も近い東側なので、鳥獣被害も深刻になっている。かくいう江橋家もつい最近ビニールハウスの一カ所を掘り返されていた。幸いにも大きな被害につながらなかった。イノシシの仕業だ。
今日はどの動物だろうか。つばめの頭に猿や鹿、熊の姿が流れていく。そのせいか二度寝をしたかったが、眠れそうになかった。家業を手伝うのは、大学を卒業してからでよい、といわれているので、呼ばれる気配がない。姉のすずめが呼びに来るかもしれない、と思ったがそれもない。目が覚めてしまったこんな日くらい、手伝いに呼ばれたかった。
二階建ての日本家屋の一番奥につばめの部屋はある。ちょうど枯山水風の庭が下にあり、普段はそこまで騒がしさが届くことはない。太平洋で発生した台風は確か大陸に向かって、こちらにくるとは聞いていないが、コースが変わったのだろうか。台風の前はビニールハウスの補強のために騒がしい。
台風がもし進路を変えたとしたら、練習にも影響が出るだろう。よく聞くと、窓を風が強くたたく音が聞こえてきた。枕元のスマホを手にとって、台風情報を検索すると、十五号が直角に向きを変えていた。それはほとんど岡田市を直撃するコースであった。
(練習は中止か・・・・・・)
まだ夢の中にいるであろう部員はきっと知らない。顧問の仁科もまだ起きていないだろう。キャプテンの秋田仁には伝えた方がよいだろうか。秋田家もトマトのハウス栽培をしているので、きっと台風前の準備でどたばたとしているだろう。チャットで台風、とだけ送ると、反応はすぐにあった。
『練習、どうすっか?』
午後から雨が強くなるらしい。だがすでに風は強くなっている。現実的に、中止が望ましいのだが。
(昨日も休んで、今日も休むのか)
弱小ではあったが、だからといって練習をサボることはなかった。今回も別にサボるわけではないが、二日連続して練習しないことに罪悪感を覚えるのだ。せめて深山高校の公式戦の記録があればいいのに、と思うが十年前の古いものしかない。まだ最近のものなら見る価値もあっただろうが、十年も前となるとプレイスタイルも大きく変わってしまっただろう。
『中止』
チャットにはそのように返事をした。無理に練習をして怪我をすることの方が怖かった。仕方ない、自分が練習するわけではないのだ、と言い聞かせて二度寝をしようとタオルケットをかぶり直す。エアコンの静かな稼働音や時計の針の音がやけに大きく聞こえた。スマホが鳴動したので見てみれば、仁からグループチャットに練習中止を告げるメッセージが届いていた。まだ誰も反応していない。
つばめは迷った末、ベッドの端から端まで転がって起き上がった。適当な服に着替えていると、つばめを呼ぶ声が部屋の向こうから聞こえた。母親の声だった。通李が来ている、とわざわざ教えてくれたらしい。加えて台風前の補強は終わったと告げられた。
台風が来るたびに、佐貫家は江橋家の手伝いをする。代わりにむこうの人手が足りないときは江橋家が出向くのだ。今日も来ているのだろう、と思ってはいた。つばめは鬱々とした気持ちをこらえて部屋のドアを開けた。
思わず小さな悲鳴をあげてしまった。目の前には百八十近い身長の男が立っていたのだ。少しだけ明るい色の髪を逆立てるようにしてセットしてあるが、風のせいで乱れている。端正な顔立ちが緊張しているようにも見えた。
まさか目の前に通李がいるなんて思いもしなかったつばめは、ぼんやりとその顔を見上げた。その顔が気まずそうに変化していく。
「あのさ」
「言うな!」
低い声に反応して、思わず遮るように言った。むっとしたようだが、通李は口を真一文字に結んだ。かわりにつばめを押して部屋に入り込む。六畳ほどの畳の部屋には、ローテーブルにベッド、カラーボックスが二つ。小窓と押し入れもあるが、衣装ケースはベッドの脇においてある。
つばめは押し入られた通李にベッドへと肩を押された。何か言わないといけない、と思いつつ、言葉にまとめることができない。通李には言うな、と言ったのだ、沈黙がやってきた。
黒い目はまっすぐにつばめを見つめている。そこにある感情はどう読み取っても懺悔であった。向かい合いたくなかったものがすぐそこにある。つばめの方からわずかに視線をそらした。少しの解決にもならないが、見つめるにはひどく痛いような気がした。
「・・・・・・あのさ」
今度は言うな、とは言えなかった。つばめ自身に言葉がないのだ。
「こっちみろよ」
「・・・・・・いやだ」
抵抗などお見通しなのだろう、通李は小さく息を吐いただけだった。視線をもらうことは早々に諦めたようだ。つばめも小さくため息をつく。
「みやまとの練習試合、残念だったな」
「・・・・・・うん」
頷いてはみたが、特にみやまに未練があるわけではない。試合ができればよかったのだ。それに対戦相手は新たにできた。全員がそれに満足したかは知らないが、誰も文句を言わない。
「でも、県立の方だけど、深山とは試合ができる。俺たちはそれでいいと思っている」
戻ってこないか、という一言が言えない。俺の怪我はお前のせいではない、とも言えない。それでも通李はきっと言いたいはずなのだ。つばめにはそれをせき止めるしか方法を思いつかなかった。
通李の反応を見るためにわずかに視線を戻すと、そこには非難の色がにじんでいた。人一倍野球が好きで、少し野心家なところがある彼だ、レベルの高いとは言えない深山との対戦は嬉しくないのだろう。つばめはもう一度、視線をそらした。一度もそのような高次元のレベルで野球をしたことはなかった。
強くなりたいと思っていたのは故障するまでで、自分がプレイするわけでもないのに、ほかのメンバーに頑張れとは言えなかった。それはきっと逆立ちをしても通李には理解できないだろう。説得しようともつばめは思わなかった。野球選手になりたいという彼の夢を潰した。
今の野球部に戻っても、通李の思うようなプレイはできないだろう。
「・・・・・・なぁ、やっぱり」
「それを言うのは俺だろ!」
通李の言葉をまた遮った。だが吐き捨てた言葉を拾うように、通李は首を横に振った。ついに言われるのだと、つばめは目をつむる。もう逃げ場はなかった。
「・・・・・・言わない」
大きな手のひらがつばめの頭の上に乗せられた。やけに重く感じたが、それを耐えるように手を握る。言わせないのは、つばめの我が儘だろうか。「だから、お前も言うなよ」
手が離れていく。今すぐにでもつかんで、謝りたかった。通李の居場所を奪ってごめん、と言いたかった。でもそれを言えば、通李は容赦なく言うのだろう。それはつばめにとって耐えられないことだった。小さく頷くと、通李は部屋から出て行った。
「なんやぁ、それは残念だったなぁ」
木戸春彦は機嫌が良さそうに言った。元来、本気になることのない性格なのだろう、野球バカな通李とは仲がそんなによくないのだ。それでも部の通李を連れ戻す、という方針には従っている。八対二で多数決的には負けるのだ。
「気持ち的には春彦と同じなんだけどなぁ。でもあいつが戻ってきたらなんか変わるかもしれん、とか思ってしまうよなぁ」
クッキーをかじりながら、沖真優は言った。二という内訳の中のもう一人だ。一応反対の意を示しているが、期待感もぬぐえないので、反対派と言っていいのかは微妙なところだ。浮いてしまいそうな春彦を思って、そのような態度をとっているのかもしれないが。
部活の二十分休憩中。フェンスの外に連なる木の下でいくつかの集団を形成していた。毎度それは同じメンバーで固定されている。つばめは春彦と真優といることが多かった。
木の根っこの張り出した部分に腰掛けて、真ん中に置かれたかごの中のクッキーを三人でつつく。昨日の台風のおかげで暇のできた春彦は、クッキーを焼いたらしい。野球よりパティシエに向いているのでは、と思うが、本人曰く趣味だから楽しいのだそうだ。
「もどってきたかて、居場所がないやろ。一年半も野球してないやつやで、いまさら四番打者がつとまるんか」
春彦の言い分もごもっともなことだった。以前通李がつとめていたポジションは副キャプテンの大津奏が担っている。長打の打率もそんなに悪くないし、安心して任せることができる。少なくともクリーンアップトリオは今充実している。
通李は豪快なスイングが特徴的なバッターだ。長打の中でもホームランを期待できる。順当にいくと六番打者だろうか。そうなると春彦と当たることになる。そういう面でも嫌だと思っているのだろう。ただしそれもこれも、一年半前までの話だ。
「たった十人にさせたのは、通李やで」
つばめはその一言に罪悪感を覚える。そもそも論に基づくと、彼が退部したのは、つばめのせいだと言える。つばめさえ故障しなければ、通李は普通に野球をしていただろう。
真優がすぐに春彦の頬をつねった。思った以上につばめは顔に出していたらしい。春彦もすぐに「言い過ぎやったわぁ」と言葉を追加した。しばらく沈黙が続いた。立ち並ぶ木の下にいるほかの部員も黙っているのか、蝉の声がやけにうるさい。
顧問の仁科一太郎も、先ほどから姿が見えていない。野球には詳しくないらしく、練習には口を出さないが、休憩時間中に独自の論述を披露するのだ。正直なところ鬱陶しい、と皆が思っている。まとまりがないチームだが、対仁科に関しては考えが一致していた。『誰かほかの教師を寄越せ』。
その仁科が二十分休憩にいないのだ。退屈な練習ではなく、楽しい二十分休憩。
『やめようと思わないんですか?』
以前、直球につばめが尋ねたときは、豪快に笑った。
『俺が甲子園とかつれてったら面白いじゃん』
つばめがクソダメ教師と認定した瞬間だった。生徒を導きもしないのに、連れて行くなど傲慢も甚だしい。今も、チームは顧問をただの飾りだと思っている。一番、ショートの古賀結などは、埋めたいと何度も口にしている。そのたびに、奏に宥められていた。
「顧問はどこに行ったんだろ」
同じことを考えていたらしい真優があたりを見回す。顧問はいつも公衆トイレの横の大きな楠の下にいることが多いのだが、そこにはいない。そろそろ二十分休憩も終わる。別に見ておけというわけではないが、いざとなったときの大人である。熱中症で倒れた、なんてことがあれば監督責任をとらされるのは顧問だ。
いてほしくない人物ではあるが、いないと部活に障りが出る。厄介な人物なのだ。特に野球部は学校から離れたところでの練習だ。顧問の許可が必要であったし、できる限り監督者はいないといけなかった。
「ほやな。あの人どこ行ったんやろ」
となりの木陰に座っていた、ピッチャーの神瀬慶とキャッチャーの八雲達央も、きょろきょろと周囲を見回し始めた。クソ顧問、と大声で慶が怒鳴っても出てくる気配はない。年功序列を大事にする仁科だ。生徒からの罵倒には敏感なのだが。
丘の上にある広い公園ではあるが、地元民なら迷子にはならない。仁科も何度もここへ来たことはあるので、いまさら迷子だとは考えにくかった。
「車の中かもな」
公園の中にはいくつも駐車場がある。生徒は自転車に乗っての移動だが、仁科は車で来る。暑さに負けて車の中にいてもおかしくはなかった。
「何考えてんやろか」
きっともう野球部に期待することもなくなったのかもしれない。それならそれでかまわなかった。面倒ごとが一つ減るからだ。
「なんも考えてないのかもね」
真優もフォローする気が失せたのだろう。いつもなら一言くらいは仁科にとって肯定的なことを言うのだ。しかし、今日は、いや、みやま高校との練習試合の反故にしたことで、彼の中の怒りゲージはやっと天井を突き抜けたようだった。
二十分休憩の後、再び練習は始まったが、結局仁科は最後の挨拶にも現れなかった。
八月四日の練習は昼までで終わった。監督者不在でするには少しばかり強烈すぎた太陽なのだ。慶の双子の兄である神瀬始が頭痛を訴えたので、練習の続行を諦めた。このくらいの暑さでへばるなや、と顧問ならいいそうなので、ある意味いなくて正解なのかもしれない。
神瀬兄弟と真優、古賀結は町の西側なので現地で別れた。となりには珍しく達央が立った。口の悪い慶の女房役なのだが、彼も口が悪い。とはいえ、いくらか冷静な部分もあるので、慶よりは物言いが少しばかり穏やかだ。あくまで慶と比較してなのだが。
緑の道と呼ばれる、車道も石畳の道を自転車を押して進む。この道を自転車で上り下りすることは、自殺行為だった。
「直球で言えばいいだろ」
達央がつばめの立場であれば、きっと直球で言えたのだろう。だからつばめにも強要する。できないとも、できるとも言えなかった。昨日のようなことがあればもしかしたら言えるのかもしれないが、そんな機会がたくさんあるとも思えない。
「お前ばっか、負担かけてる気もするけど」
達央からのフォローに思わず苦笑が漏れる。負担、というよりは、つばめと通李の問題なので、逆にチームメイトの気を煩わせることに申し訳ないのだった。
「達央が言えよ」
「言ってもいいのかよ」
冗談、と言われたがつばめがいいと言えば、言うのかもしれない。それほどにほしいだろうか。九人いないといけない枠は埋まっている。春彦の言葉が思い出される。
「俺はさぁ、思うんだけどあいつに監督兼コーチをしてもらえばいいと思ってるんだよ」
「はぁ?」
達央ははにかみながらそれでも本気であるようだった。慶がいないと、達央の表情は柔らかくなる。中学受験はみやま高校も視野に入れていたらしいのだが、北産業を受験する慶についてきたと聞いている。小学生時代からずっと幼なじみでバッテリー。その関係はどこかつばめと通李に似ているようだった。ずっと幼なじみで野球クラブも同じだった。お互いがいるからこそ見せる顔、というものがあるのだろう。
「一年半もブランクある奴にいきなり野球しろ、なんて言えないし。でも監督兼、コーチならできるだろ」
「それこそ無理がないか?それに野球したくなるだろ」
故障で腕がしばらく動かなくなったとき、つばめは野球がしたくて仕方なかった。ただ見ていることがじれったくて、左手で球拾いをしながら、それをごまかしていた。
「つばめはしたいんだな」
ゆっくりと頷いた。今でもたまらなく野球をしたくなることがあった。つばめの腕は激しい衝撃には耐えられない。だからバットを振れないし、ボールをキャッチすることも難しい。もちろんそんな腕だから、メロン農家の手伝いもたいしてできない。
故障をして失ったものは、想像以上に多かった。つばめは自転車のハンドルを強く握った。
「あいつが、監督とかコーチで納得するとは思えない」
「どうだろう。つばめはマネージャーを選んだだろ」
「俺は、それで納得したから・・・・・・」
いや、納得はしていないな、とつばめは思い直す。できることなら野球をしているチームに混ざりたい。どうしてマネージャーを選んだのか、考えるといつも通李にたどり着くのだ。野球をしなくても彼に一番近いところにいたかったのだ。それが、いつの間にか彼は球場からいなくなっていた。
つばめも離れることを悩んだ時期はあったが、いつかきっと戻ってくると信じて、辞められなかった。結局いつかは来くることはなかった。三年生の、今、戻ってくることに、しかも監督やコーチとして、それを通李が納得するか。
「どう考えても、俺にはあいつが選手として活躍する場をもうけることはできん」
「・・・・・・あいつは、半端なことできない。春彦が、嫌がるだろうな」
苦笑が聞こえてきた。石畳の坂道を抜けると、アスファルトで舗装された県道に出る。左に曲がると岡田市の西へ抜ける。右に行くと、学校へと通じる。まっすぐ進むと、駅前商店街に行き着くのだ。
そこで達央と春彦、奏とは別れた。
「顧問と連絡取れたか?」
真川緋勇が後ろにいた仁に声をかけた。それに仁はため息で返す。おそらくまだ連絡が取れていないのだろう。
「なんか、嫌な予感しかしねぇやな」
仁の言葉につばめも緋勇も顔をゆがめた。仁のいう嫌な予感は、必ず当たるのだ。また、仁科が余計なことをしてないことを祈るしかなかった。
「ちょっと待ってくださいよ」
一瞬グラウンドの蝉の声が遠のいたような気がした。秋田仁の珍しく焦った声が耳に焼き付いたようには慣れなかった。
気づけば、一人で農道を歩いていた。スマホで時計を確認してみると、まだ正午も迎えていない。何をしているのか、つばめ自身、よくわかっていなかったが、おそらく帰り道を歩いている。台風一過で酷暑となった昨日とは打って変わって、五日はわずか涼しいと感じるほどに気温が下がった。
せっかくの練習日和だったが、先ほど顧問の仁科に解散命令を出された。許可がないと練習はできない。
『甲子園行くわけでもないのに、まだ練習しよるのもおかしいやろ。そもそも、目指すのすら笑えるレベルだしな』
そう言って、仁科は顧問を降りたのだ。
甲子園の道を閉ざしたのは、ほかでもない仁科だ。それに甲子園がすべてではない。当然ながら、すべての学校が甲子園に行くことができるわけではない。人気の高いサッカーやバレー、陸上でみんなが一等賞になることのできないのと同じだ。甲子園の土すら踏まない生徒が大勢いるのだ。その大勢に、甲子園がダメだったからと、これまでのすべてを否定するのか。
やることに意味がある、ときれい事を言いたくはなかった。しかし、やらなければ意味もない、とつばめは思う。強くはなることができなかったチームだが、それでも積み重ねてきたことは多くある。二年に上がる頃には早々に上級生がいなくなったのだ、色々なことをチーム全員で頑張ってきた。
じわっとつばめの目の奥が熱くなる。もはや何に怒って、何に嘆いてよいのかわからなかった。理不尽に振る舞う大人と、そしてそれに従うしかない子どもであるつばめたち。仁が消沈している姿は地方大会以降初めてのことだった。
『じゃぁ、気をつけて帰れよ』
仁科が後ろを向いた瞬間、古賀結が練習用に出してあったバットを持った。すぐに大津奏が止めなければ、流血沙汰になっていただろう。結の前に立つ奏だって悔しいはずなのに、すまない、と言ったのは仁科ではなく彼だった。
不意に、アスファルトをタイヤが食む音で、つばめの意識が今に戻った。ぼんやりと遠くの入道雲を眺めていたらしい。先ほどから、意思と行動がマッチせずに、不思議な感覚だった。後ろを振り返ると、怪訝な顔をした佐貫通李が立っていた。
気が抜けたのか、現実に押しつぶされたのか、ぼたりとつばめの目から大粒の涙がこぼれた。流れると次の涙があふれる。誰が見ていても、もう止まる気配はなかった。
「ちょぉ?!え?」
さすがに通李も驚いたらしい。言葉が出ないようだった。涙をぬぐおうとしないつばめに、通李は首にかけていたタオルを差し出した。わずかに草のにおいがするので、草刈りでもしていたのかもしれない。つばめは素直に受け取って。顔を埋める。
汗で湿っていたが、嗚咽をこらえるにはちょうどよかった。爽やかな風が緑の田畑を通り抜けるが、つばめの心はまだふわふわとしていた。涙は出ても気持ちがまだ記念公園のグラウンドにある。
「歩けるか?」
つばめが頷くと、通李は先に歩き始めた。その後ろをついていく。江橋家へ続く道とは違う方向に向かうので、通李の家に行くのだと思っていたら、さらに田んぼの真ん中になぜかある群生する竹林へと通じる小道へ入った。そこは幼い頃、二人がよく秘密基地として使っていた場所だ。近所の老嫗が所有する敷地である。子どもの遊び場になっていることを、老嫗は気にしていないのか、注意を受けることはなかった。その代わり、毎年メロンの時期になると、数個その老嫗の家へ行くことを知っている。きっと通李の家でも同じことが起きているのだろう。
滅多に人が入らない竹林の前で自転車を止めて鍵を閉めた通李に、つばめは腕を捕まれた。そのまま竹林の中に消える。そんなに広くはないが、外界からは隔離されている、そんな空間だった。
「・・・・・・何があったか、言えるか?」
言ったところで、もうどうしようもない、という思いがこみ上げる。弱小野球部には副顧問がいない。正確にはいるのだが、今副顧問として機能しない。六十歳を前にした体に無理がたたって入院中なのだ。退院するのは夏休みを開ける少し前。二進も三進もいかないから、仁もあの表情だったのだ。
「仁科か?」
どうにもならなくても、嘘をつく理由はないので、その問いには頷いた。野球部顧問の仁科、と言えば近隣の高校ではすでに相手にしてもらえないほどの悪評の持ち主だ。小さな舌打ちがつばめの耳に届いた。誰に向けてのものかわからない。
せっかく出していた練習道具を片付ける間、誰も口を開こうとしなかった。いつもは口汚くののしる神瀬兄弟でさえ、口を真一文字にしていた。誰もがおそらく、ふわふわとした気持ちを持てあましていたのだろう。文字通りやるせないのだった。
「仁は?なんて?」
つばめは首を横に振る。人生かけて殺すはずだった相手はそうそうと逃げてしまったのだ。仁も俺がどうにかする、とは言わなかった。みやま高校との試合がなくなっても諦めなかった仁の気の抜けた顔を思い出す。
「・・・・・・俺が、どうにかしてみても、いいか?」
「・・・・・・無理だよ。顧問が顧問を辞めるって言ってんだぞ。通李は・・・・・・」
部外者、と言う言葉を使おうとして、つばめはやめた。部外者にしたのはつばめ自身だということを思い出したのだ。関係ない、と小さく呟いたが、どちらも意味合いは一緒で、つばめに自己嫌悪までつのった。
「・・・・・・あいつ、顧問やめるのか。よかったな」
仁科が辞めることに関して、その点だけは確かに賛成できるのだ。ただ、後釜を残さずに辞めると言っている。つばめたちが部を存続できるわけがなかった。
「深山との試合、草試合なんだろ?おじさん軍団との」
「・・・・・・うん」
タオルに埋めていた顔を、持ち上げられた。通李の顔をようやくその時ちゃんと見たのだが、その瞳はぎらぎらと闘志に燃えていた。この顔を間近で見たくて故障の後もマネージャーになったのだ。重い物も持てない、役に立たないだろう、それでも残ったのだ。どうして野球とは関係ないところで、そんな表情を見ているのか、にわかには理解できなかった。
頭を掴んでいた手が離れていく。上向きの眉毛がさらに上を向いた。
「戻ってこい、って言え」
「い、えない・・・・・・」
つばめは思わず否定していた。本当は喉から手が出て抱き留めるほどに、通李に戻ってきてほしかった。
「言えよ」
「なん、で」
「俺が戻りたいからだよ」
通李の静かな声で、そこが竹林であることに気づいた。笹のそよそよとそよぐ音が聞こえてくる。誰も聞いていない。誰も見ていない。だから、つばめがどんなにみっともなく彼にすがったとしても、それは通李にしかわからない。
「本当に?」
力強い声で、「おう」と返事がされた。今度はつばめから手を伸ばす番だった。ゆっくりと持ち上げられた手は、まるで魔法にかかったように、通李の汗で湿った作業着を掴んだ。
通李が戻ってきても居場所はないかもしれない。監督兼コーチなんてやりたいとは思わないかもしれない。だけど、通李に戻ってきてほしい気持ちは、誰よりも大きかった。つばめは一度だけ顔をうつむけた。再度顔を上げたときには、通李の晴れ晴れとした顔しか見えていなかった。
「なんで早く戻ってこないんだよ」
少しばかり脱力した笑顔に、間違えてはいないことを悟った。
「遅くなった」
一瞬だけ、つばめは二年前に戻ったような気がした。
「しょうねんやきゅうちーむ?」
車座になった十二人のうち、九人が頭にはてなを浮かべた。そのうち仁はすぐに合点したのか頬を赤らめた。佐貫家の広い仏間に集められたのは、北産業野球部元メンバーだった。もちろん呼び出したのはつばめであったが、佐貫家に呼び出された時点で、誰もが通李の存在を認識しただろう。
それでもやってきたのは、焼き肉をする、という名目があったからだと思われる。確かに午後五時をすぎた、佐貫家の庭ではバーベキューの準備が始まっていた。元野球部のメンバーの保護者もやってきたので、広いはずの農機具小屋の前が狭く感じられる。
仏間のある部屋と、農機具小屋は斜向かいにある。障子を取っ払って、窓を開けたそこからは農機具小屋を一望できる。保護者には保護者会をしたいと言って集まってもらった。今、きっとその中で通李の父親が事情を話している。
元メンバーのところには、通李の父親が所属している草野球チームの主将がいた。まだ三十路を過ぎた頃だ。年齢的には仁科より年上ではあるが、その見た目は少し厳つい兄ちゃん、といった風情だ。仁科とどっこいどっこいである。
「草野球チーム、作ろうと思ってる」
学校でできないのなら、学校とは関係ないところでやろう、それが通李の提案だった。メリットはもちろん学校や顧問の都合に縛られないことだ。デメリットは、何かあったときの責任の所在が学校ではないところだろうか。幸いにも、すでにあるおじさん草野球チームの練習場所を貸してもらえる。道具なども心配はなかった。
「俺たちをまとめてくれるのは、この人、落合伸さん」
落合は軽く頭を下げただけだった。それでもテキトーな挨拶しかしなかった仁科とは雲泥の差があるように、つばめは思う。
「もしかして、お前、戻ってくるつもりか?」
通李に強い口調で言ったのは、奏だった。まだ通李はちゃんと復帰することを言っていない。もし、通李が復調したら、奏の打席をとられることになるのだ。いや、元の通りにならなくても、ほかの誰かがベンチになる。二年半やってきた奴と、部を去って行った奴。天秤にかけるには、気持ちという裁量が邪魔をした。
「戻るよ」
その瞬間の春彦の顔は、ちょうど苦虫を食べたような、そんな表情だった。仁やバッテリーを組んでいる神瀬慶、八雲達央以外のメンバーもあまり良い顔はしなかった。あれだけ、戻せ、戻せと言っていたのに、初志貫徹しているのは春彦、仁、慶、達央の四人だけだった。
「はい、提案」
達央が手を上げたが誰も指名しない。もう主将も副将もないのだ。この場を仕切るはずの通李ですら目で促すのみだ。
「通李、コーチやれよ」
手を上げたまま達央は前日につばめに言ったことを告げた。つばめはそのことを、まだ告げていなかった。その反応によってはこの会議をなかったことにする、そんな心持ちをしていた。なんとなく、達央の意見は部内共通の認識だと思っていたが。
春彦や沖真優、そして結が驚いた顔をして達央をみやった。そうすれば、通李は戻ってくることができるし、誰もポジションや打順を変えずにすむ。達央の提案はとても魅力的だった。本人の意向次第ではあるのだが。
「言われると思った」
強く拒否されると思っていたつばめの意表を突くように、通李は朗らかに笑った。
「俺が無駄に一年半過ごしたと思うなよ」
通李は自分の体の後ろに隠していたノートを数冊取り出した。それを一冊ずつ、いや春彦には二冊、渡す。それぞれの表紙には渡した人の名前が記入されていた。つばめにも一冊渡されたが、そこは白紙だった。だが、ほかのメンバーの物には何事か書いてあるらしく、隣に座る仁のノートの第一項目には筋トレの内容が事細かに記されていた。
木々のど真ん中にいつも使っていたグラウンドはある。隠れるところはたくさんあった。試合も市内であるものに関してはほぼ網羅しているらしく、各試合での反省点や改善点などが記入されている。春彦が二冊あることにも納得がいく。
「俺がいまさら選手やらせてくださいなんて言うか?お前らを勝たせる」
誰もが、通李の作った空気に飲み込まれそうになった瞬間、保護者の方から怒鳴り声が聞こえてきた。見ればまだ五十にもなっていないくらいの男が、通李の父親に詰め寄っていた。だが、通李の父親は一歩も動かない。
神瀬兄弟の父親だった。おそらく神瀬始のことだろう。始はあまり体が丈夫とは言えない。昨日、頭痛を起こしたことも要因になっているのかもしれない。少年野球チームは、もちろん保護者の同意がなければできない。兄弟の父親に乗っかって何人かが、反対派にまわりそうな雰囲気だった。
「彼らがしてきたことを勝手に終わらせたのは大人です。彼らがやりたいと言うなら、チャンスを用意するのも大人でしょう」
「そういう問題ではないんですよ。何かあったら誰が責任をとるんですか?」
通李の父親は黙った。責任などとれるはずもないのだ。易々ととりますなど言えない。あくまで自己責任。自分の子どもにもしものことがあったら怖いと考えることは自然だ。況んや、他人を傷つけることがあったら、と考えるととても個人では責任など負えない。
「・・・・・・ごもっともです。ですが、忘れないでください。私たちの選択で彼らは泣くことも笑うこともできるんです」
それはさながら脅し文句にも聞こえて、つばめは背筋が寒くなった。その場の誰もが思ったのかもしれない。急に風が冷たくなったようだ。どちらも一歩も譲らないようだった。通李の父親はとっくの昔に腹をくくっているのかもしれない。学校だから何かしてくれる、そんな幻想などないと、つばめと通李を見て直に感じてきたのだ。
「話にならないな」
兄弟の父親はそう吐き捨てると、解放された仏間をにらみつけた。おそらく始と慶を見ているのだろう。帰るぞ、と地を這うような低い声が聞こえてきたが、二人は首を横に振った。
「肉食べてから帰る」
慶の言葉に始も頷く。名目上、これは保護者会のバーベキューだ。野球をしようというわけではないので、それ以上止めることはできなかったのか、兄弟の父親は一人で帰って行った。
「俺、するから」
「俺も」
二人がそう宣言すると、次々に声が上がり始めた。誰もがやる、と言っている中、ただ一人春彦だけが何も声に出さなかったことが、つばめは気にかかった。その場で問いただすことはしなかったが。
春彦と通李の仲が良くない、というのはちょっと苦手意識を持っている、程度の問題ではない。口げんかから手が出るほどの事態になることもままあった。今までは喧嘩両成敗となってはいるが、その実通李の方が強いので、春彦はさながらいじめられているようなものだった。
通李に悪気があったかと言われると、なかったのだろう。いつもへらへらしている春彦に注意したまでなのだ。奏もよく春彦に注意するが、喧嘩沙汰にはならない。なんだかんだで奏は春彦に甘いのだ。だが、通李はそうはいかない。半端が嫌いなのだ。
「春彦、お前は?」
意思表明がないことに仁も気づいたらしく、すかさず聞いた。この雰囲気ではやるとしか言えないだろう。その通り、春彦は曖昧に頷いた。
肉が焼けると、車座はとたんに崩れた。皿と箸をもらって腹を空かせた怪物たちが動き始める。
「なぁ、通李」
つばめは立ち上がろうとした通李の服の裾を掴んだ。聞きたいことがあったのだ。それはなんとなくみんなの前では尋ねることはできなかった。
「これさ、なんで白紙なの?」
つばめのノートだけは白紙だった。一言くらいあるかと最後まで見たが、どこにも何も書いていなかった。
「これからお前自身が思ったこととか書けよ。なんでもいい。あいつが不真面目だ、とかな」
「告げ口みたいで嫌だな」
つばめが唇をとがらせると、通李は苦笑を漏らした。
「俺はそのノート見ないから。不満でもいいし、よかったことでもいいし、何でもいいから書けよ」
「日記?」
「日誌」
野球部にも一応日誌をつける文化はあった。だが、それは全部仁に任せていた。これからはそれをつばめに任せると言っているのだ。腕の故障のせいで、これまで頼りにされたことはなかった。対外交渉まで仁がやっていて、マネージャーはお飾りのようなものだったのだ。
「ほれ、飯食いにいくぞ」
背中をたたかれたつばめは、初めて自分が頼りにされた感触にくすぐったさを覚えて、はにかんだ。
一抹の不安と、それから大きな期待を胸に宿して、二人は縁側から外に出た。先ほどの言い争いが嘘のような、そんなバーベキューの中で、やはり、春彦だけはずっと浮かない顔をしている。つばめはなんと声かけをするか迷って、結局、何も言えなかった。
駅と漁港に挟まれるようにして市役所がある。その近くに市営運動場がある。テニスコート八面と二棟の体育館。それから陸上競技場にサッカーコート、他に多目的練習場がいくつかある。多目的練習場の中には、一応野球場の体裁を整えているところが二つほどある。そのうちの、市役所側にあるものがつばめたちの使うグラウンドだった。
六日、午後。
木戸春彦と神瀬始、慶は現れなかった。
それでも佐貫通李は彼らが来ないことを前提に練習メニューを組んでいたらしい。滞りなく、練習は行われた。穴だらけの守備練習。いつもは二人で投球練習をしている八雲達央の背中は寂しげだった。打撃練習は事前に配っていたノートを読み込んだのか、わずかに皆のスイングの仕方が変わっていた。
夕方五時を過ぎると、だんだんと大人の姿も見られるようになったので、場所を明け渡す。グラウンドを整備していたら、名目上、監督となった落合伸がつばめの隣に立った。つばめは簡易的に用意されたベンチでボールを磨いていた。
「人数が少ないな」
威圧感に移動しようとしたつばめに話しかけたらしい、つばめはその男顔を見上げた。厳しい視線だったがそれは嫌な視線ではない。練習中にスマホを弄って笑っているようなあの顧問とは違う。
「土日は練習に付き合おう、と思っていたんだが」
是非、と言いかけてつばめは人数のそろわないグラウンドを眺めた。通李も一緒になってトンボ掛けを行っている。その姿はとても楽しそうだった。いざ通李が戻ってきたら人がそろわない、なんて喜劇だ。
「通李と仁に聞いてみます」
秋田仁は主将を、大津奏は副将をそのまま続けることに決まっていた。「いや、あんなに楽しそうにしてるんだ、気が向いたら来る」
大人は邪魔だろ、と言われたので咄嗟に首を横に振る。邪魔なら大人を頼ろうなんて思わなかっただろう。当たり前だが、つばめたちの邪魔になる大人が、邪魔だったのだ。
それに春彦を呼び戻すのなら、監督は不可欠だろう。通李との仲をとりもつことができる人物はここにいない。いざとなれば、誰もが通李の肩を持つだろう。つばめだって、春彦を肯定できる自信はなかった。
「人数がほしければ言えばいい、おじさん連中だが、貸し出しは可能だ」
「あ、ありがとうございます」
トンボ掛けの終わった連中と入れ替わりに、監督はグラウンドへ向かった。借りることにならないといいけど、それはつばめの願望で、通李や他のメンバーの願望かはわからなかった。一緒に残りのボールを磨いてから、帰宅とすることにした。
その帰り道。
「春彦、来てたな」
真川緋勇がぽつりともらした。嘘だろ、とつばめは通李とシンクロする。だが仁も頷いていた。いつの間に来て帰って行ったのか、つばめは落ち着かない気持ちになった。春彦が練習に参加しなかったのは、言うまでもなく、つばめのせいだ。つばめが通李を引き戻さなければ、春彦は練習していただろう。
だが、野球ができるのは、通李のおかげだった。彼が草野球に所属している父親に掛け合わなければ、どうすることもできなかったのだ。つまりは二人がいないといけないのだ。野球をちゃんとするには、春彦も必要だ。
来た、ということはやる気はあるのだろうか。春彦を連れ戻すチャンスはそこにかかっているような気がした。もし野球すら嫌だと言うのなら、つばめには連れ戻すことができない。
「参加しないのかねぇ」
仁がちらりと自転車を押す後ろの通李を見やった。責めているわけではないだろう。それを通李もわかっているのか、ううむ、と唸ったばかりだ。通李の隣を歩く緋勇も小さくため息をついた。緋勇は少し神経質なところがある。仕事人と呼ばれるくらいだから、努力の人でもある。だから、目に見えて努力しない春彦のことをよく思ってはいない。だからといって、一年半もさぼってきた通李に春彦のかわりを、とも思ってはいないようではある。
対して、通李は春彦との仲が険悪ではあるのだが、彼自身は春彦に頑張ってほしい以上の気持ちを抱いていない。つまりは、通李からは苦手意識や嫌悪感などがないのだ。本人はもちろん、春彦の代わりをしようとは思っていない。
二人とも春彦が活動に加わることを望んでいる。隣を歩く仁も、つばめも同じ気持ちだった。
「つばめ、仲よかったよな」
今度は春彦を連れ戻せ、と言われるのはわかっていたので、つばめも頷く。一度、春彦の本心を聞いてみたかったし、良い機会だと思ったのだ。
「あいつ弱みばっかで、脅しがいがないんや。頼んだで」
仁に肩を叩かれた。軽口を叩いても、仁が春彦を大事にしているのは知っていた。保育園が同じだったと聞く。たったそれだけなのだが、仁曰く、その頃の春彦は女の子のように可愛らしかったらしい。すべてを聞いたことはないが、初恋だったのでは、と思うくらいにはつばめも察することができる。
つばめが頷くと、頼むで、と言って仁は自転車にまたがった。一人ですいすいと行く姿がどこか不安定に見えたのは、気のせいでありたい。
七日、午前練習のあと。
春彦と神瀬兄弟は今日も練習には訪れなかった。
「あいつ、なんなん。なんで来ないんだよ」
たいした理由もないのに。そう言った結のイライラは最高潮に達しているようだった。春彦のことだろう。嫌いなやつがいる、というのは案外たいした理由になったりする。つばめも通李と喧嘩した翌日などは、学校に行きたくなかった。昔の話だが。
「通李と春彦が険悪なのは、知ってるだろ」
奏は珍しく宥める気がないのか、投げやりに言うまでだった。彼も全員集まらないことにいらだちを感じているようで、不機嫌にボールかごをバッタボックスに運ぼうとしていた。マネージャーの仕事だろうが、つばめの腕はそれすらもできない。
重たいもの、とひとくくりにしてもどれくらいの重さまでなのか、それはつばめにもわからなかった。無理して持って腕を再び壊すことはできないからだ。だが、ボールがいっぱいに積まれたかごを持つことは確実にできないとは、思う。
練習が終わっても、奏はバッティング練習をするつもりだ。それに結も付き合うのか、奏のあとに結もベンチから出て行く。それを見届けると、つばめの隣に真優が座った。太い下がり眉が、いつもより下がっているように見えた。穏やかで仏と呼ばれる彼もまた、春彦が来ないことに落胆しているようだ。
「俺はさ、一応、通李の戻ってくるのに反対だったじゃん?」
「ん?うん」
「だから春彦に申し訳ないなぁって」
それは真優が気にすることではないだろう。つばめは苦笑した。
「これから行くんだろ?伝えといてよ、戻ってこいって」
少なくとも俺は春彦の味方だよ、と真優は薄くほほえむ。その通り、伝えようとつばめは頷く。しばらくすると、壮年の男たちがぞろぞろとやってきた。奏と結はこのままおじさんたちに混じって練習を続けるつもりなのだろう、バッターボックスから動こうとはしない。
達央はいつの間に帰ったのか姿が見えなくなっていた。仁と緋勇と通李はちょうど自転車を押して駐輪場から出てきたところで、つばめたちに手を振って帰って行く。
つばめはこれから春彦の元へ行く。真優もついてこい、とは言えない。彼はこれから病院だった。真優が怪我をしたとか、そういうわけではない。母親が体調を崩しているのだ。真優の分も春彦に伝えなければならない。優しすぎる彼からの言葉は、春彦には毒になりそうだが。
落ち込んだときに春彦が行く場所は野球メンバーなら知っている。特別すごい場所ではないし、誰でも行くことのできる場所だ。つばめはベンチから立ち上がった。
「行ってくる」
「行ってら~」
真優の声を後ろに歩き出す。
すいっと岡田大橋を渡る前の交差点を青になったタイミングで自転車に乗ったまま右に曲がる。岡田駅につながる道を進むと、南側に短いが活気のある商店街がある。陸路、海路ともに、駅が近いので土産屋や飲食店の多い商店街だ。また北産業を始め、岡田高等学校、私立明澄高等学校など、近場に高校が多く存在するので、学生の姿も多い。夏休みに入っても、部活終わりの学生や遊びに来ている人で賑わう。
近くの駐輪場に自転車を止めると、つばめは商店街の中に入る。午後一時を回って、さらに活気づいたようだ。人の波を縫うように進むと、鯛焼き屋があった。あんことカスタードと色物系のそろった鯛焼きが評判だ。生地は外はさくさく中はもっちりとしていて、ここいらでは一番おいしいとつばめは思う。カスタードを買ってから、イートインスペースに行くと、予想通り、春彦はいた。店の奥まった場所で、表に背を向けて座っている。
「春彦」
春彦は油を差していない機械が甲高い音を立てるように首を回した。つばめを認めると、慌ててテーブルの上に散らかしていた食べかすと、前日に渡されていた通李特製ノートを片付け始めた。
「怒りにきたんじゃないよ。鯛焼き食べに来ただけ」
向かい側に座ると、春彦はうなだれた。つばめは特に春彦を説得しようとは思っていない。ただ、春彦がどんな気持ちでいるのか、知りたいのだ。だから詰問するでもなく、のんびりと鯛焼きをほおばる。
「・・・・・・俺さぁ、なまじっかいろんなことができるもんで、何かに本気になったことがないねん」
春彦の方言に関西弁が混じるのは、彼が四歳まで神戸にいたからだ。それから十四年が経っても、言葉の端々に関西の色が残っている。その関西弁が、いつも以上に自信なさげに聞こえた。優柔不断が彼の専売特許のようなものだが、今はそれに輪をかけているようだ。
「野球もなんとなく楽しかった。せやから続けてきた。・・・・・・本気じゃないとあかんのんかな・・・・・・」
「本気かどうかは、俺はどうでもいい」
つばめはしっぽを食べ終えると、ペットボトルのスポーツドリンクに口をつけた。ベクトルの違う甘さ同士がぶつかり合って、思わず顔をしかめる。それを見かねたのか、春彦が自分の紙コップに注いでいたお茶を差し出す。つばめは遠慮なくいただくことにした。
「・・・・・・俺たち、十一人いるんだよ。十一人が同じ方向で、同じようなことばっか考えてるのも、おかしいだろ」
「そうかもしれんけど」
きっと、一人だけ違うのかもしれない、ということに怯えているのかもしれない。つばめからすれば、野球は何となくでできてしまうものではない。それは他のスポーツや勉強など、色々なことにも言えるが、春彦は自分が本気ではない、とどこかで言い聞かせているだけなのかもしれない。
なまじっか、と春彦は言ったが、春彦のやることは特別なまじっかなものはない。だいたいやることなすことクオリティが高い。春彦は優柔不断であるが、その根底にあるのは、自己評価の低さだろう、とつばめは思う。きっと通李、または監督のもとでうまくいけば、自信につながる。今、つばめが言葉を尽くしても、春彦は自信のじのじの字も持つことはできない。
「野球、したい?」
つばめの問いに、春彦は瞳をうろうろとさせた。ついには指でテーブルの上にのの字を書き始めた。それには少しばかり呆れたため息が出る。しかしつばめにとって、本気かどうかよりも、野球がしたいかどうかのほうが、大事だった。したいのにしない、なんてことの方がなまじっかである。
「俺って、必要なんかなぁ。こんなんやで、こんな・・・・・・」
必要だ、とつばめに言わせたいのが見え見えである。やすやすと言ってやることが悔しくてつばめは黙ったままだ。本当は必要なのだが。
「・・・・・・わかっとる。皆、俺しかおらんから、俺を必要だって言うてくれるの。代わりがおったら、俺なんかいらんことも。・・・・・・通李がやったらええねん」
誰もそんなことを言う奴はいなかった。春彦の悪口は出ても、春彦の代わりをどうするかなんて、言わなかった。つばめは思わずテーブルの上のノートで春彦の頭を叩いていた。そもそも、野球をしたいかどうかの答えをもらっていないのだ。これだけは春彦の本心でなければ意味がない。
「野球、したいのか?したくないのか?」
ごくりと、春彦ののど仏が動いた。本気ではないとか、必要ではないとか、そういうことではないのだ。彼がしたいと言えば、いつでも戻ってきてほしいし、したくないのであれば、俺たちは本当に代わりを探さなければならない。
「俺、してええんかなぁ・・・・・・」
「したらダメって誰かに言われたのかよ」
春彦はゆっくりと首を横に振った。春彦の親は前の日の神瀬の父親のように反対派にいたわけではない。誰も野球をすることを止めないのに、彼自身が自分に歯止めをかけているのだった。
春彦はぐっと唇を突き出して、泣くのをこらえるように眉間にしわを寄せた。いつもはヘラヘラとしている彼の珍しい表情だった。やりたいのに、やらない春彦の気持ちをつばめはわからないわけではなかった。通李を連れ戻したくて、そうしなかったのと同じなのだろう、とつばめは理解している。
「・・・・・・野球、したい・・・・・・でも、俺、本気になれんかもしれん」
「俺は、お前に本気なんか求めない」
ぐっと、春彦が息を詰める。本当は本気を期待されたいくせに。とはいえ、つばめが求めることではない。それは他の誰かが求めてくれるだろう。今、伝えるべきことは、真優が託してくれた。
「戻ってこい。真優が心配してる」
春彦の目に一滴の涙が浮かんでいた。やっと、春彦は一つ頷いた。本気になれなくて悩む時点で、本気であることに春彦が気づくのはいつだろう、とつばめは苦笑する。涙が次々に落ちていくので、きっと春彦にとっては苦しいことなのだろう。何かに腐心する気持ちを、満たされるあの気持ちを、彼は知らないのだ。一度でいいから満たされるような気持ちになってほしい。つばめはぐっと唇をかみしめた。自分にできることは少ない。通李ノートを見て、一昨日に通李に言われたことを思い出す。白紙を埋めるのは、つばめ。
「俺のノート、白紙なんだ」
「へぁ?」
つばめはそのノートをいつも袈裟掛けにしているスポーツバッグの中からとりだした。まだ何も書いていなかった。皆がそろってから書こうと思っていたのだ。一ページ目を開いて、マジックペンで書く。
『このノートを、春彦で埋め尽くす』
「・・・・・・俺のノート、三つになっちゃう」
にわかに嬉しそうに春彦は笑った。涙を急いでぬぐう。
「あいつのノートにないものって、わかるか?」
春彦はあからさまにはてなを浮かべる。それは通李が得たくても得られなかったものだ。もっと言うと、これからもおそらく、春彦からは得られない。
「お前の気持ち」
「俺の・・・・・・」
「春彦がつらいときも、みんなお前のこと見てる」
それをそのノートに書くのだ。その第一行に、つばめは一言だけ書いた。
『戻ってこい―沖真優』
それはつばめが最初に受け取った春彦への言葉だった。確か結も何か言っていたが、それは直接つばめに託された言葉ではないのでノーカウントとする。
春彦は、一度止まった涙を再びぼろぼろとこぼし始めた。
「明日は午前八時半から練習だからな」
そう言うと、春彦ははにかんだ。つられてつばめも笑う。まだ課題はあるが、一つだけ解決した。それだけでも、気持ちは晴れやかになる。春彦が笑っているだけで、すべてがうまくいく、そんな気がした。
誰かの正義は誰かの悪である可能性だってある。
青梅団地にある神瀬家は、片方に傾いている斜めの屋根が特徴的だ。南側に傾く屋根には、ソーラーパネルがついている。白い壁は綺麗で、玄関前に出てきた慶の腕には三毛猫が抱かれていた。
さすがに、いつまでも全員そろわないというのは、問題があった。神瀬兄弟がどうしたいか聞く必要があり、急遽八雲達央と、秋田仁と佐貫通李とともに神瀬家を訪れた。玄関前で出迎えた慶はいつもの覇気がなく、落ち込んでいるようで、かみつく勢いの暴言も聞かれなかった。
「始は、あれから熱出してずっと寝込んでる」
「ほうけ」
始の体の弱さは周知の事実だった。何度か風邪を引いたまま試合に出たこともある。全員が反対した中、元顧問の仁科が無理矢理、出場させたのだ。始も自分がいなくなると野球ができなくなると、責任を感じて体にむち打つことも多かった。
「行けんことをたぶん気に病んでる」
「親父さん、まだ反対しよるか?」
仁の問いに慶は頷いた。納得はしていないが、押し切ろうとは思っていないようだった。通李が前へ一歩出ようとしたのを、つばめが押さえる。通李はいわゆる脳筋だ。仁科とは少し系統が違うが、根性論も持ち合わせている。どうにかできないか、と言うのは目に見えていた。
「・・・・・・俺は、まだお前と野球したい」
慶の視線がまっすぐ達央に届く。達央も何度も頷いた。小学生の頃から一緒で、バッテリーを組んでいるのだ、お互いがお互いにこだわるのは、端から見てもよくわかった。
「絶対戻るから、待っとって」
「待っとる」
達央の伸ばした手が慶に届きそうになった、その瞬間。おい、と怒鳴り声が聞こえた。低く地を這うような声は、つばめたちに向けられたもので、つばめはすぐに通李によって背中に隠された。
見れば神瀬兄弟の父親が、髪を逆立てるほどに激高していた。仕事帰りなのだろう、スーツを着ているが、どこかくたびれた様子が見て取れる。
つばめは少しばかり哀れな気持ちになった。沖真優が相手のことが可哀想になる、とよく言うが、こんな気持ちのことをいうのだろう、と。
怪我をしてほしくない気持ちも、人に怪我をさせたくない気持ちもわかるが、ではこれから彼らは世界と絶縁することなどできようか。大げさに言ってしまえばそういうことだ。親の庇護とエゴのもとで、一生暮らすことなどできないのだ。
「警察呼ぶぞ!」
「俺たち、友達に会いに来ただけです」
仁はいたって冷静だ。警察を呼ばれてもこちらには非がない。勝手に家に上がったわけでもない。嫌がる慶を無理矢理玄関前に来るよう脅したわけでもない。だから堂々としていればいいのだ。
さすがに兄弟の父親もわかっているのか、少し怯んだようだった。警察を呼ぶと言えば、つばめたちが逃げていくとでも思ったのだろう。
「お、お前らのせいで、始は寝込んでいるんだ。帰ってくれ」
言いがかりにも近いが、帰れと言われたので、仕方なく仁を先頭に歩き出す。すれ違いざまに何か言われたのだが、それは聞き取れなかった。
「また来ます」
達央も頭にはてなを浮かべながらそう言ったが、仁は何事か聞き取れたらしい、顔の色が青くなっていた。唇をかみしめたので、きっと良い言葉ではなかったのだろう。青梅団地入り口まで自転車を押して歩くと、仁は「くそ!」といつになく声をあらげた。また一人で自転車にまたがると、すいっと行ってしまった。
「仁、最近様子が変だよな」
つばめに同意するように、他の二人も頷く。目立って苛立つことなどはないが、どこか焦っているような、一人でから回っているという感じである。何か良くないことが他でも起こっているのかもしれない。仁はいつも一人で解決してしまう。だが、今回だけはつばめもその一端を担いたい。
つばめも仁の後を追って自転車を進めた。
仁の家は、トマト農家だ。ビニールハウス一棟分の小さな農家だが、隣の田んぼでは稲作もしている。つばめや通李の家よりもさらに東へ、山の端にある。小さい頃などは旧商業地区で商店を営んでいた祖父母の家にいることが多かったらしく、そのため保育園も街中であった。春彦と出会ったのはその頃らしいが、小学生にあがるにあたって校区の違いによって二人は引き離された。高校の野球部で再会したが、しかし春彦は当時のことをそんなに覚えていないようだ。
という話をつばめは仁からよく聞かされていた。小さい頃は可愛かったと言うが、その実今も可愛がっているのをよく目撃する。二日ぶりにやってきた春彦に罰練を科すわけでもなく、小言ですませたのは彼なりの優しさだろう。
そんな仁は他のメンバーには割と厳しい。
「お前の家じゃないんだけど」
玄関から先には入れるつもりがないのか、仁王立ちでつばめの前に立っている。目の下にはよくみればクマができていた。午後七時をまわった外は日がやっと傾きはじめ、西日が強く地表を照らしている。そのせいか、のっぺりとした顔つきなのに、妙に迫力が出る。
「お前、何隠してる?」
「なんも隠してないけど」
細いまぶたの中で瞳がわずかに横に動いた。嘘をつくときの癖で、知っているものはつばめと通李くらいだろう。春彦が保育園のときの幼なじみなら、つばめたちは小学生からずっと幼なじみである。その分、仁のことをよく知っているつもりだった。
「・・・・・・お前が気にすることじゃないんや」
「一人で抱えることなのか?」
小さくうめき声が聞こえた。仁がうめいたと思ったのだが、どうやら違うようで、血相を変えた仁がつばめを玄関に引き入れた。扉の閉まる大きな音が聞こえて、そういえば、と思い当たる。普段、仁の家には行かないので忘れていたが、この家には優秀な番犬がいる。
扉の向こうで犬の吠える声と、扉にアタックをかます音が聞こえてくる。小さな声で「なんで脱走しとるんや」と呟くのを聞いた。秋田家の愛犬は少々気性が荒い柴犬だ。見知らぬ人がやってくると噛みつかんばかりに吠え立てる。そしてよく脱走する。まだ誰も被害には遭っていないが、もしものことがないうちに、保健所に連れて行こうかと秋田家を悩ませる犬だ。
「・・・・・・まぁ、ええわ。話しちゃるから上がれよ」
靴をそろえて玄関をあがると、階段がある。その階段の右横に一つの扉があり、そこが仁の部屋だ。中はベッドとローテーブル、棚がいくつかあるだけだが、棚の上にはガラス細工の置物がいくつも並んでいる。仁は昔からそういうものが好きだった。土産物屋などで買う姿を見ることが多い。
座椅子を譲ってくれたのか、仁は何もない床に座る。つばめも荷物を置いて座椅子に座ると、ごほんと咳払いが聞こえた。誰にも言うなよ、と前置きをするとスマホのチャットメッセージをおもむろに見せた。
仁科からのメッセージだった。
『深山高校との練習試合断っておいた』
たった一言だったが、まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃が走る。仁の顔を見ると、難しそうな表情をしていた。これを仁は一人でどうにかしようとしていたのか。勝手に試合をなくした仁科にも怒りは感じるが。
「なんで早く言わねぇんだよ」
「俺がどうにかすりゃ、問題ないやろ」
「お前一人でどうにかなんのかよ」
「今までだって、そうしてきたやろ」
つばめは息をのんだ。これまでそうさせてきたのは、つばめたちだ。いまさら仁が誰かに頼るわけがないのだ。どうにかできる問題ではない、とつばめは思った。仁科が学校代表で断りを入れたのだ、決定を覆すのは容易なことではないだろう。
それでも仁は大丈夫だと笑った。まったく笑える状況ではないのだが。何を根拠に言っているかもわからないが、つばめは大丈夫ではないのだと思った。
「ちょうどよかったんや。どうせ、部活としては断りをいれなぁあかんと思っちょったしな。草野球チームで組んだから、それでお願いしなぁって」
それはそうだが、きっと深山高校は快諾とはいかないだろう。きっと怒られるのも一人で背負ってしまおうとしているのだ。仁は弱い男ではないが、だが子どもだ。つばめとかわりはしないのだ。その肩に乗った重責は、どんなものか想像してつばめはやめた。きっと想像のつかないほど大きいはずだ。
同じであるはずなのに、違う。
少しでもこちらに分けてくれたらいいのに、仁はそれをしようとはしない。疲れた、重い、しんどい、どれも言わない。
「・・・・・・仁、俺も連れて行け」
「ダメだ」
どうしてだ、と詰問する前に仁は首を横に振った。まるで一人の問題のようにこのチームの問題を扱う。そうさせてきたのだから、仁にとっては当たり前なのだろう。もしかしたら、他のメンバーに心配かけたくなくて、その心配まで全部背負っているのかもしれない。それすら、当たり前になっているのだ。
頑なな仁は絶対に首を縦には振らなかった。結局、つばめは仁の意思を変えることなどできず、十日の朝に深山高校に行くことだけを聞き出して、秋田家をあとにした。すでに柴犬は繋がれたのか、吠える声しか聞こえなかった。
暮れなずむ道をとぼとぼと歩いていると、道の真ん中に人が立っていた。少しだけ明るい髪を逆立てた、大柄な男だ。その姿はなぜかつばめを安心させる。泣きたくなるのをこらえて、通李の隣に立った。
連日の暑さが嘘のように寒い朝だった。暦の上では秋になったが、まだ夏だと思っていたので、タオルケットの中で尿意をこらえて眠る。起きればついでに手伝えと言われてしまいそうなのだ。また、イノシシによってビニールハウスが損害を受けていた。ついでに太平洋で発生した台風が関東へ近づいている。西日本の岡田市には直接の影響はないだろうが、予報円はまだ大きく、進路の予測がまだはっきりと決まっていないのだろう。だから再び補強作業が行われていた。
つばめが寝たふりをしていると、不意にこんこんこんとドアがノックされた。姉のすずめだろうか、逆らうことのできない人なので、仕方なくベッドから起き上がる。
どうぞ、と言うとゆっくりとドアが開いた。だが寝ぼけ眼に写ったのはすずめではなく、頭にタオルを巻いた通李だった。今回も佐貫家が手伝いに来たようだ。つばめはのろのろと起き上がると、衣装ケースの中の衣装に着替える。通李は勝手知ったると、床に座った。
トイレや歯磨きを済ませて、部屋に戻っても通李はいた。三段ボックスの中の漫画を取り出して読んでいる。つばめは彼の斜向かいに座った。仁の約束通り、昨日は何も言わずにおいた。しかし、よく考えれば考えるほど、仁だけの問題ではない。
通李も何か思うところがあるのか、漫画を元の場所に戻すとつばめをまっすぐに見る。いつも通李はまっずぐだ。そんなところが好きだったり煩わしかったりする。
「・・・・・・仁科のやろうが、勝手に試合をなかったことにしやがった」
「・・・・・・」
あの通李が絶句していた。仁が重責に耐えられずに揺らいで見えたのは、きっとこのことがあったからだろう。青梅団地で声を荒げたのも、きっとそうなのだろう。
「あいつ、深山に一人で行くつもりだ」
「・・・・・・監督にも言ってないみたいだな」
つばめが頷くと通李は大きく息を吐いた。責任感と言えば聞こえがいいが、それはまるで周りを信用していないようにも見える。きっと仁はそんなつもりはないのだろうが。
「俺に言ったってことは、他のメンバーにも言っていいよな」
つばめは頷いた。もとよりつばめだけでもどうにもできないことだ。通李が増えたところでそれは同じで、きっとメンバー全員の力が必要になる。
「あのバカは、一人で野球しとるつもりか」
「ずっと、そうさせてたのは、俺たちだから・・・・・・」
つばめは通李からチョップを食らう。痛くはなかったが、一応にらみつけると、通李は苦笑した。通李のこともきっと仁は責任を感じていたのかもしれない。直接つばめを焚きつけることも、通李に詰め寄ることもなかった。通李とは同じクラスであるのに。
仁が感じる責任なんて何もなかったのに。
通李の大きな手が、再び伸びてきてつばめの頭をなでる。決してスキンシップが多いわけではない、のだが、対つばめに対しては多いように感じている。小さな子どもではないので、羞恥がこみ上げるがなぜかふりほどけずに、されるがままである。
三十秒くらい、そうしていると、不意にスマホが鳴動した。つばめのものも、通李のものもだ。つばめはベッドの上に置きっぱなしだったそれを手にとると、チャット画面を開く。達央からのメッセージがグループチャットに届いていた。
『全員、できるだけ、神瀬の家に集合』
その下には達央のチャット画面だろうスクショが添付されていた。慶からのメッセージだった。ただ一言『助けて』とだけ。プライドはそんなに高くはないが、猫のように気まぐれな慶が人に助けを求めることは希なことだった。
「おい、何かあったのか?」
すぐ後ろで通李の声が聞こえた。おそらく、達央に電話したのだろう。スマホの向こう側から達央の声が聞こえた。つばめも内容を聞き取ろうと、そばによる。電話の向こうの達央は狼狽している様子で、わからない、と言うばかりだ。
「とりあえず時間指定しろ。ばらばらで行っても意味がねぇ」
通李はそれだけ言うと、通話を切った。すぐにチャットに時間指定がされる。青梅団地入り口に午前八時。今は午前六時を過ぎた頃だ。すぐに仁が返信したのを見て、こいつはこの問題にも突っ込むつもりだ、と頼もしいやら呆れるやらで、つばめは小さくため息をついた。
できるだけ皆、という要請が通ったのか、全員反応したのが午前七時を過ぎた頃だ。練習もない日なのに、ある意味奇跡的だ。仁の家が車を出してくれる、ということで真川緋勇も連れだって午前七時半に家を出た。
平日の朝の団地はわずかに騒がしい。ところどころで掃除機をかける音や洗濯機を回す音が聞こえてくる。神瀬家に向かって、先頭に仁が立って歩き出した。メンバーは神瀬兄弟以外全員いる。それに加えて、監督の落合伸に時間をとってもらった。達央はスマホをじっと見つめながら歩いていた。助けて、のあと連絡が一切ないようで。他のメンバーにも届いていなかった。
「し、死んじゃってたりしてないよな」
春彦が不安そうに言う。その最悪の事態だけはできればあってほしくない。容易に口に出した春彦の頭を大津奏が叩いた。だが、一層顔色を悪くしたのは、春彦ではなく達央だった。隣にいる沖真優に背中をさすってもらっている。
「馬鹿みたいなこと言うな」
「でも、だって、慶が・・・・・・」
もう一度、頭を叩かれた春彦はそれ以上は口をつぐんだ。あの慶が助けて、と言ったのだ。非常事態に違いない。
特徴的な斜めの屋根が見えてきた。道を二本ほど挟んだところにある国道には、コンビニもスーパーもある。利便性の高いこの地域は、開発初期の場所だ。利便性が良いからか建物がひしめき合っている。
メンバーを待っていたのは、神瀬始だった。頬には痛々しい痣ができている。すぐに動いたのは落合だった。始のそばによると、少しだけ屈んでうなり声を上げる。
「警察を呼ぶぞ!」
玄関から飛び出してきた父親は、雷がごろごろと腹を鳴らすような音を立てるように怒鳴りつけた。勢い前へ出ようとした仁を落合は片手で止めた。表情にわずかな怒りを込めながら、父親を見返す。
「何か悪いことでもしましたか?」
まだ敷地にも入っていない。道路に出て待っていた始と出会っただけだ。それでも父親の怒りは静まらないのか、髪が逆立つ。
「これからするのだろう、わかっているんだ」
古賀結が小さな声で「未来が見えんのかよ」とあおる。それのおかげで油に火が注がれたのか、父親はさらに激高した。怯まないように、地面に足底をつけているだけで、つばめはやっとだったが、落合はさらに父親との間を詰める。
「い、いい加減に、しろよ!」
「俺は野球、したい」
男にしては少しばかり高い声が、静かな住宅地に響く。始の白い顔と、耳まで赤らんだ父親が対峙した。日に当たっても当たっても、真っ赤になるだけで黒くはならない始の頬にはわずかにそばかすが浮かんでいる。それが太陽に照らされてまぶしそうにゆがんだ。
兄弟の父親は、酸素を求めるように口を開いたり閉じたりを繰り返した。その表情から読み取れるのは、怒りよりも悲しみだった。なぜだ、という疑問が空気をわずかに震わせた。すでに始を説得しようという気はないのかもしれない。どことなく憔悴した様子が見られるのだ。
ふと、つばめは疑問に思う。なぜ父親はそんなにまで憔悴しているのか。始もいつもの強気、というよりは、懇願に近い。その違和感を他のメンバーも感じているのか、わずかに視線が合った。
「お前が、体を壊してまで、することか?」
つばめはつばを飲み込んだ。つばめたちが強要したわけではないが、確かに体の弱い始が無理をおして試合に出たことなら、何度かある。それは練習の時から常習的に行われていた。
体の弱いことがコンプレックスである始の心につけ込んだのは、仁科だった。体を鍛えれば、強くなる。そんな甘言でもって、始に無理をさせていた。体が弱いのは、頑張りが足らないからだ。ずっとそう言われ続けていたのを知ったのは、つい最近のことだ。
さすがに、風邪を引いているのに試合に出そうとしたときは全員で反対したが、そのときも仁科の電話一本で始は呼び出された。親の反対もあっただろうことは、察するに難くない。
「父さん、覚えているぞ。始が・・・・・・」
声が震えて最後まで言えなかったのだろう。父親の目から涙がこぼれ落ちる。
「俺が肺炎、起こしかけたことか?」
その瞬間、誰もが息をすることを忘れたような沈黙が訪れた。なんどか風邪を引いたまま試合に出たことはあったが、まさかそんなことに、と誰もが驚愕を隠せない。確かに二年の二学期後半からは、無理に試合に出ることはなくなった。それは仁科が始にかまうことがなくなった時期と酷似するが、もしかしたら父親の影響もあったのかもしれない。
神瀬の父親はなんども頷いた。やめてくれ、と始の肩にすがりついた。父親よりも少しばかり低い体が、わずかに揺らぐ。それでも始は二本の足でしっかり立っていた。
父親の嗚咽に最初に我に返ったのは、監督の落合伸であった。ゆっくりと父親の肩に手をかけて、始から引き離す。抵抗はなく、あっさりと離れた父親はその場に膝から崩れ落ちた。顔を手で覆って、子どものように泣きじゃくる。
「私は、これまで、一人で、始と慶を育てて、きた。早くに母親を失った彼らが、可哀想にならないように、と。始、慶」
慶が玄関から現れた。その手にはバットとグラブ、それからボールが握られている。おそらく玄関越しに今までのやりとりを聞いていたのだろう。いつもどこか斜に構えている慶が鋭い視線を父親に向けていた。
「俺たち、可哀想に見えた?」
慶の言葉はナイフのように父親に突きつけられる。兄弟の母親は、小学生に上がる頃にはいなかったと八雲達央から聞いたことがあった。大事に育ててきた子どもが、大人の勝手で肺炎になりかけたのだ。それは、もし自分が父親の立場なら、許すことなどできないだろう。きっとその目には可哀想に写ったかもしれない。
「・・・・・・俺は、これを最後に、野球しない。みんながいるから、野球、したい」
三人のやりとりを見ていた落合がぐっと拳を握った。そして兄弟の父親の前に跪くと、頭を深く下げる。
「せ、責任は、俺がとります」
たった三十二歳の男がどう責任をとるつもりなのか。だが、誰もそんなことを言えなかった。十一人いるメンバー分の責任をとるつもりなのだ。今までそんな覚悟などなかったかもしれないが、落合に決心させた。しかし父親だけが首を横に振る。
「あなたそう言って、・・・・・・あなた顧問じゃない?」
確かに、顧問の仁科と監督の落合はどこか雰囲気だけは似ている。顔が似ているわけではないが、いかついところが似ていると言えば似ている。同じ系統の人間、と言われれば納得してしまいそうだ。
だから、神瀬の父親が勘違いしても、おかしくはない、かもしれない。混乱をきたしている神瀬の父親はどうやら、二人を同一視していたらしい。ふっと誰かが笑った。それが聞こえたのか、父親は顔を真っ赤にした。
「あー、えっと、新しく監督に就任しました、落合伸と申します」
「ど、どうも・・・・・・息子たちを、よろしくお願いします」
落合に支えられて立ち上がった父親は、始と隣に並んだ慶を見つめた。背丈は同じくらいだ。よく見れば、顔の輪郭や鼻の形が同じような気がする。父親の涙はいつの間にか止まっていた。
「無茶だけはしないでくれ」
「俺はしたことないけどな」
すでにいつもの不貞不貞しい慶だ。だが父親は首を横に振る。
「無茶をしたことがないお前が一番心配だよ」
よもや自分が心配されているとは思わなかったのだろう、慶は口をあんぐりと開けた。恥ずかしかったのかはぐらかすように、バットを肩に担いだ。
「これ、玄関に用意しといてよく反対したもんだよなぁ」
落合は午後から仕事なので、話し合いから外れた。さらに秋田仁も、家の手伝いがあると言って帰って行った。バイパス沿いの商業施設の中のフードコートで十人は三つのテーブルを占拠していた。小さなフードコートだが、まだ昼には早いからか、人はいない。
フードコートに併設している食べ物屋も開店していないので、店内で買った菓子類をあけてたむろする。深山高校と沖草野球チームとの対戦がなくなったことは、神瀬兄弟以外には連絡網で回っていた。改めて口にするとせっかく始と慶が戻ってきたのに、ずんと鉛が腹の底に転がったような気分だ。
「はぁ?!あのクソ仁科、死ねよ」
「たまたま入った渓谷から落ちて勝手に死ね」
「ついでに誰にも見つからず、可哀想な最期になればいい」
慶と始のついでに古賀結が呟く。沖真優も、もうフォローするどころか、彼らに賛成するように頷いた。誰も同情すらしないことに、若干の同情を覚えそうになるが、つばめはこれまでされてきたことを思い出して、それはいけない、と言い聞かせる。
「でもさぁ、どうすんの?仁だけやろ?無理やろ」
木戸春彦が仁科へのヘイトを遮って言った。その通りだった。仁だけではきっと追い返されるのがオチだ。仁が監督にお願いするような性格なら、まだチャンスはあるかもしれないが。
誰もがちらりと佐貫通李を見やったが、彼もまたどうすべきか悩んでいるようだった。みんなの視線を振り払うように、首をわずかに横に振った。次に達央に視線が集まったが、大きなため息が漏れるばかりだ。頼りになる二人が、お手上げとなれば、打つ手なし。つばめは最後にすがる思いで大津奏を見た。
何かを迷うように、奏は口を開いては閉じるを繰り返した。その様子を結も気づいたのか、肩を肩でぶつける。こういう場で奏が発言することは、希だ。
「いや、もう打つ手がないなら、数で勝負するしかないか、と思ったんだが」
すぐに達央と通李がうなる。二人とも考えたことなのだろう。皆で行ってお願いする。確かに一人で行くよりは効果があるとつばめも思う。だが仁は来い、とは言わないだろう。一人で行こうが十一人で行こうが、彼にはさほどの差はないのかもしれない。
「やらんよりは、ましやと俺は思うなぁ」
これまた珍しく、春彦が奏を後押しした。それに続くように真優も頷く。通李を見ると相変わらず渋面を作っていたが、達央はそれしかないのかな、といった感じだ。
おそらく、数の力を行使すれば、追い返されることはないかもしれない。だが、話し合いはあくまで仁だけだろう。皆が皆、仁科のような大人ではないとは思うが、心ないことを言われるかもしれない。大勢で行ったところで、結局仁に負担をかけてしまうのかもしれない。
そんな気持ちが二人にあるのが見て取れる。
「沖草野球チームを味方につけるとか」
真川緋勇がぽつりと漏らした。そもそもこの試合は深山高校と沖草野球チームの試合だったのだ。そこに割り込んだのだがつばめたちだ。確かに沖草野球チームが味方につけば、ワンチャンスあるかもしれない。
「せやったら、沖おじさんチームに味方になってもろうて、で皆で行きゃええんやない?」
春彦が熱心に通李と達央を口説く。沖草野球チームに話をつけるのは、この二人のどちらかになる。通李か達央が賛成しなければ、廃案となるだけだ。
全員の視線が二人を往復する。誰もがどうにかして最後の試合をしたいのだ。このまま試合がなければ、惰性で野球をするしかない。考えただけでぞっとしないことだった。
「・・・・・・やってみるしか、ないんかもな」
先に決心をしたのは達央の方だった。それに続けて通李も頷く。達央よりも深刻そうな顔をしていたが、他に頼る伝手もない。
「監督には俺が連絡しとく」
達央が後は任せたと、通李の肩を叩いた。それでお開きとなったのか、奏と結がまず立ち上がった。それに続くように春彦と真優がいなくなり、結局残ったのは、通李とつばめのみだった。
つばめが三つ並べた机を元に戻している間、通李はスマホでなにやら調べ物をしているようで。再び隣に腰掛けると、にやっと口角をあげて通李は笑った。
スマホの画面を覗くと、沖草野球チームの公式ブログサイトがあった。けっこうな頻度で更新されているが、内容は野球とは縁遠い。農業の手伝いとか、茅葺き屋根の保全作業などが最近の活動であるようだった。
写真も載っており、その中には大学生とみられるひょろ長い男と真っ白な男が写っていた。夏休みで帰省しているのだろうが、おそらく彼らも草野球メンバーだと思われる。
「代表者の連絡先、載ってたわ」
通李は緊張気味にスマホの画面を見つめていた。わずかに手が震えている。
「大丈夫か?俺がかけようか?」
「いや、大丈夫。電話が苦手なだけ」
知らない番号だろうに、沖草野球チームの代表者、柄長は陽気な声で電話に出た。そして通李の一通りの事情を快く聞くと、あっさりと深山高校に掛け合うことを請けおってくれた。たった五分のことであった。そのために、通李は本当に大丈夫なのか心配そうな顔をしている。正直、つばめも大丈夫か確信を持つことはできなかった。それでももう信じるしかないし、行動するしかなかった。
バイパス通りはたくさんの大型商店が並ぶ地域である。もちろん夏休み中の学生が遊ぶ場所になっているのだが、帰省した大学生らしき姿はこちらのほうが多い。なまじっか金のある学生はバイパス沿いの大型商店でショッピング、使える金の限られている学生は駅前商店街、とわかれていた。
慶と始の親子喧嘩のために出てきたので、ほとんど金など持っていなかった二人は、どこの商店に入ることもせずに、歩道を歩く。結局、あの親子喧嘩は、昨夜から行われていたらしく、それに辟易した慶が達央に助けてくれとチャットを送っただけのことだったらしい。とはいえ、監督を連れて行ったことで、父親の溜飲は下がったのだろうから、正しかったと言える。
チャットにはさっそく、監督に連絡したのだろう達央からメッセージが届いていた。『監督も行くってさ』との文章にほっと息をつく。味方は多いに超したことはない。
「よかった。あの落合さんていい人だよな」
「そりゃな。あの年でおっさんチームのキャプテンだし。いい人っつぅか、真面目」
昔からよく通李の家に来るのだそうだ。誘われた飲み会は断ることができないらしい。酒にも強いので延々ループする酔っぱらいの話もいちいちちゃんと聞く、と通李は言った。
「・・・・・・一年半、何もしてやれなくてゴメンな」
「それは、お前一人でどうにかできる問題じゃねぇだろ」
現に今つばめたちがあるのは、大人の力があってこそだった。無力とは言わないが、ちっぽけな力しかなく、全員の力を足しても、大きいとは言えない。
それは仁だってわかっているはずだ。なのに一人で行こうとしている。キャプテンだからだろうか。キャプテンは何もかもを引き受けなければならないのか。つばめは憤りが沸々とわき上がってくる。
「それよりも、これからだ」
「たまに頼もしくなるよな」
「どうせ、たまに、ですよ」
通李の大きな手のひらがつばめの頭に乗せられる。夏の暑い中を歩いているので、あまり触られたくはなかったが、それでも安心感に小さく息が漏れる。
「通李は、大学で野球する?」
志望校は違う。通李のレベルに合わせることはできたが、それはランクを落とすことになる。つばめにできる親孝行と言えば良い大学に行って、良い会社に就職することだった。だから同じ大学を目指すつもりは最初からない。野球もマネージャーもするつもりはなかった。
だが、通李がするのかどうかは気になった。野球チームならどの大学でもありそうだ。一年半のブランクがあっても、通李なら活躍できると思われる。
「マネージャーかコーチングしようかなぁとは思ってる」
「なんで?!」
てっきり選手として復帰するのかと思っていたのだ。つばめは声をつい荒げてしまった。もしかしなくても、やはり自分が通李の選手生命を絶ってしまったのではないか、そんな気持ちに足は止まる。
通李も足を止めて後ろのつばめを振り返った。
「マネジメント業務が肌に合っとってさ。皆のこと粘着質に観察するのが楽しいんだ」
お前のおかげだよ、と言われて、自分が選手としての通李を奪ったのだと、つばめは絶望したくなった。だが、目の前の通李は清々しほどの笑顔でいる。どうして責めないのか、いっそ責められた方が、楽なのだろう。
「お前が悪いんじゃないから。謝ったら許さん」
帰ろう、と手を差し出される。大きくて強い手のはずなのに、それはもう選手としての役割を終えているのだ。つばめはその手を握らないで通李の横に立った。謝ったら、つばめも謝られる。通李のせいではない、と言いたいのはつばめも一緒だった。
昔はよく手を繋いでいた。学区が同じだった仁や家の近かった緋勇ともよく遊んだが、ついぞ手を繋ぐことはなかった。ただ、通李とはまるで兄弟のようにして育ったせいか、手を繋いでいた。
だが、今のつばめにはその資格がないような気がして、繋ぐことができなかった。意地を張っているのかもしれない。とはいえ、もう高校生だ。男が二人手を繋ぐというのも恥ずかしくもある。
つい最近まで一緒に歩くなど考えられなかったことだ。だから、隣を歩くだけでも贅沢で。
「そーいやぁ、メロンご馳走様でした、って言うとけって」
あの日のメロンがやっと消化されたらしい。やはり二玉は多いのではないか、と思うつばめだが、年長者いわく、多いくらいがちょうど良いらしい。
「あー、うん。言っとく」
「なぁ、つばめ」
何?と聞き返す前に、通李は続けざまに口を開いた。
「ありがとな」
それはゴメンにも似たありがとうだった。
「なんで来たのよ」
仁のあきれ返った、しかし、沖草野球チームまでそろった面々に少しだけ声が震えていた。結果、これだけの大所帯にならなくても深山高校は快諾してくれたのかもしれない。聞けば、元顧問の所業は隣町にまでとどろくほどであった、という顛末だ。
まさか沖町から来てくれるとは思わず、ひょろ長い背丈の大学生は人好きのしそうな笑顔を向けた。
「まぁ、試合できてよかったね。楽しみにしているよ」
そう言うと車に乗りこんで、行ってしまう。ここまで約二時間もかかっただろうに、文句の一つもなかった。これまで、仁科という人間によって破壊されつくしていた大人への不信感が一気に晴ていくような気分だ。
これで改めて学校とのつながりを断つことができた。一歩ずつ不確かな道を歩んでいるようだが、どことなく未来が明るいと感じる。つばめは久しぶりに何の気兼ねもなく笑った。
「仁、頼れよ」
奏が彼の背中を叩く。これまで頼れなかった分、これまで頼ってしまった分、そんな気持ちが伝わる。
「帰ろう」
誰かがそう言った。
結局俺たちは道半ば、光を求めて歩いていくしかない。それは自分が影であることを証明するような苦痛の中にある。
それでも光、あれ。
:
コンクールの受賞式が行われる。そこには秋月融に住む10人がいた。
秋月融 いちみ @touhu-003
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます