第2話 導線の彼方

 文章を書くことを生業にしてから、学業がおろそかになった。三上が秋月大学の創始者のひい孫だと知っている大学側はなにも言わないが、両親や親戚連中は焦って中退でも卒業でもさっさとしろと言う。それにたいして三上は適当に、曖昧に返事をするだけで、行動を起こそうと思ったことはない。

 中野肇という名前でデビューして早二年が経ったが、デビュー作の他にエッセイを書いたほどで、次作となる作品はない。スランプではない。三上は書いていることには書いているのだ。ただ、世に出していないだけだ。

 鮮烈なデビュー作品だっただけあって、次回作を望まれているが、二年も音沙汰がなければ世間は忘れていく。三上はそれでよかったし、何の問題はない。ただ、一人を除いて。


二.導線の彼方


「みかみー」

 部屋のドアが叩かれる。返事をする前に、ドアは開く。玄関のセキュリティがしっかりしている分、部屋のドアに関しては鍵をかけないやつの方が多い。現れたのは、二人の男だった。同じ寮生の石井寛二と逆波晶だ。逆波に肩を借りている石井は酷く酔っ払っているようだ。

「ご苦労さん」

「いえいえ。では僕は失礼しますね」

 三上が手を振ると、逆波はお辞儀をして出て行った。残された石井はしきっぱなしの布団に突っ伏すると、勝手に寝始める。この寮では頻繁に酒盛りが行われる。今日も好きな奴らが集まってやっていたのだろう。三上は飲めないので断っていたら誘われなくなった。代わりに、石井が酔い潰れるとやってくるようになった。

「お前はすごいんだ」

 寝言だろう。だが、三上はそれを否定する。自分に言われたことではないかもしれない。他の誰かに言っているのかもしれない。だが、否定せずにはいられない。

 怪人、もとい、元藤清十郎が入寮したのは夏のことだった。一季節遅く入ったのだが、それから三上は編集に原稿を見せなくなった。コンクールにも出さなくなった三上を心配する者は多くいた。

 石井もその一人だ。学年と年齢がすっかり入れ替わってしまったが、石井は二つ下であるのにも関わらず遠慮のかけらもない。だが、確実に心配されている。年下に気を遣わせるのはよくないと思いつつ、一年前に書いた原稿を消すかどうか悩むのだ。

 すべてのやる気と自信を喪失させるだけの才能を見ると、自分が書いたもののちっぽけさを思い知る。

「三上」

 やけにしっかりした声が呼ぶ。後ろを振り返ると、寝転がったまま見上げる瞳と目が合う。まっすぐなそれに、目を合わせていられなくて、鼻の頭へと視線をずらす。

「相変わらず、酒が抜けるのだけは早いな」

 石井は体を起こすと、たくましい体を引きずって三上の隣まで来る。文芸部のくせに筋トレなどして体を鍛えているのだそうだ。石井は、文才ももちろんあるが、その編集力が認められて入部した口だ。コンクールでも活躍するくらいの実力があるのにもかかわらず、本人の希望は編集者。三上はもったいないなと思いつつそれを明かしたことはない。

「まだ消してないのか、それ」

「他にもまだいっぱいあるぞ」

「俺にしか読ませないのは、やっぱりもったいないと思うんだが」

 石井の手がマウスに伸びる。それを阻むように自分の手をマウスに乗せて、最新の小説を画面に映し出した。一万字程度の短編小説だ。石井はゆっくりとスクロールする文章を読み始める。

「・・・・・・」

「どうだっ、た・・・・・・?」

 三上が隣を見てみると、石井は涙を流していた。そいういう小説ではなかったはずだ。三上が固まっていると、石井は眠くなったのか、なにも言わずに布団へと戻っていく。いつもは何か一言でも感想があるはずなのだ。

「俺、彼女できた」

「・・・・・・そう、か」

 パソコンの電源を落とし、三上も布団に向かう。畳と布団の境目でわずかに掛け布団をもらって目をつむる。二年前、泣きながら寮に帰ってきた石井を思い出す。彼女に振られたとか。それからそれを慰めるように、石井にだけに向けた小説を書いてきた。

 これからそんな機会もなくなるのだろう。もう文字を書く理由もなくなるのだろう。

「なぁ、三上」

「あぁ?」

「小説を発表しろよ」

 沈黙が流れる。まだ酒盛りは続いているのか、遠くから声が聞こえてくる。笑い声とは裏腹に、この部屋の空気は重い。

「お前はすげぇよ」

 不意に背中が熱くなる。どうやら石井がくっついてきたらしい。逃げることもせずに、やがて寝息に変わる呼吸を三上は静かに聞いていた。

「甘えるなら彼女にしろよな」

 小さく呟いた言葉はしかし、彼には届かない。




 どたどたと慌ただしい足音が廊下に響く。焦った声で名前を呼ばれる。三上は部屋の掃除をしながら適当に返事をした。ドアが勢いよく開かれる。顔色が酷く悪い男がスリッパを脱ぎ捨て、わずかな段差に蹴躓き、その場に顔からこける。

 石井は情けない声を上げて、にわかに顔を三上に向けた。出しっぱなしの漫画を段ボールに詰めている最中だったのだが、石井の手に持っている物を見て思わず苦笑してしまう。

「勝手に見たのか?」

「見てない! でも送り主が!」

 茶封筒を握っている手を差し出してくる。三上は受け取ると、裏の差出人を確認する。そろそろだと思っていたのだ。あの夜から一週間で書き上げた小説はコンクールに出品した。中野肇の名前では約二年ぶりとなる。

「どうだ?!」

「封筒が来るってことは、まぁ」

 良い賞でもとったのだろう。地方新聞社が主催する小さなコンクールではあったが、最優秀賞の賞金は十万円とかなりの高額だった。今更金額に目がくらんだわけではないが、気分とテーマが合致したのが、このコンクールだった。

 せかされるまま封筒を開けてみれば、二通の紙が入っていた。まず一枚目は、最優秀賞おめでとうございます、の文章だった。そして二枚目は、新聞へ寄稿してみないか、という仕事の依頼だった。

「すごいなぁ・・・・・・」

 隣で見ていた石井がため息をこぼすようにそう言った。「・・・・・・条件付きでのもうと思っている」

「受けるのか?!」

 三上は曖昧に頷く。

「俺の編集担当はお前だ」

 石井の表情が理解できていないと訴える。三上は手を伸ばして顎をつかみ、顔を引き寄せる。いたずらに笑ってみせると、ようやく石井は驚愕で目を見開いた。

「俺のやる気を引き出せるのは、お前しかいねぇんだ。どんな場所で本を書いても、お前が編集者だ」

「そ、そんなこと・・・・・・ていうか! それはもうマネージャーじゃね?!」

「そっちがいいなら、それでも」

 大学三回生の夏だ。もうそろそろ就職を考える頃だろう。先に出版社などに引き抜かれる前に、三上は首根っこを押さえておきたかった。そのためのコンクール出品でもあったのだ。

「俺のところに永久就職か、一般企業で働くか、選べ。いっとくが俺は、お前のもとでないと、一筆も書くつもりはないからな」

「永久就職、は彼女に言う言葉だろ、普通」

「俺が普通じゃないことくらいわかってんだろ」

 三上はつかんでいた石井の顎から手を離し、漫画を段ボールにつめはじめる。妙に綺麗な三上の部屋にいまさら気づいたのか、石井は慌てたように、口を開く。

「・・・・・・出て行くのか?」

「ん?」

 三上が口を開くその瞬間、石井に手首を捕まれる。かしこまるように正座をすると、石井は眉間に皺を寄せて怒ったように、三上をにらみつけた。

「お前んとこに永久就職する」

 首から上が真っ赤に染まっている。もしかしたら肩の辺りまで赤くなっているかもしれない。思わず三上の口から笑い声が漏れる。

「だから、出て行くな」

 異様に綺麗になった部屋。段ボールに片付けている三上。なんとなく合点してしまった三上は、失笑をこらえられなかった。小さな笑い声がどんどん、でかくなり、仕舞いには腹を抱えてしまうほどになってしまった。石井はそれをぽかんと眺めている。

「言質はとったからな」

 笑いを引っ込め、石井を見るがやはり笑ってしまう。三上が喉の奥でくつくつと笑えば、石井は何かをやらかしたのだと、気づく。

「出て行かない。約束しよう。俺が卒業か中退かするまでは、ここにいるよ」

 引っ越しつもりなど、さらさらなかった。部屋に風を入れて心機一転するつもりでいた。永久就職なんて馬鹿らしいこと、受け入れてもらえる訳もない。そう思って、三上は掃除をしていただけだ。

 とはいえ、石井も本気で三上のもとで働く気などないだろう。これは単に、売り言葉に買い言葉なのだ。

「俺は・・・・・・」

「はいはい。わかってるよ。さっきのは」

「ちょっと前に彼女に、振られて・・・・・・」

 本当に彼女がいたのか、と三上は心の中で小さく呟く。「だから、俺のために、一生小説を、書いてくれ」




 夏の木漏れ日が差し込む。熱気と、蝉の声がやけに遠く感じられた。心臓が痛いと思うのは、なぜだろうか。まるでちぎれかけた導線が再び結ばれたように、目の前に火花が飛ぶ。奪ったのは、誰だったのだろうか。

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