秋月融
いちみ
第1話 怪人
秋月男子大学には、いくつかの部活が存在する。その中でも最も力を入れているのが、文芸部である。この文芸部は多くの作家を輩出しており、日本人であれば聞いたことのある名前もいくつかある。大学が力を入れているからか、それともOBの計らいで作られたのか。文芸部専用の部室兼、寮が存在する。
収容人数は三十名とそこそこ大きく、三階建て。ワンフロアに十人ずつ。基本的に各学年、院生を含め五名ずつ在籍できる。たまにイレギュラーが起きることもあるので、部屋はあまり気味だ。
この部室寮の名前が『秋月融』と言う。どういう名前なのかは、誰も知らない。半年に一回出す、広報誌は『秋月解』であるところから、融解という言葉からきているのだとわかる。ただ、それだけだ。
現在、この寮には、十名が住んでいる。大きく定員を割っている状況だ。この状況を重く見ている学校側は、なんとか文芸部に入部してもらおうと、様々な策を練っている。だが、文学賞を狙うような部活に遊びたい盛りの学生が喜んで入ることはなかった。
一.怪人
煙たい部屋。全体的に霞んでいる。元藤清十郎は、肺が痛くなるのを感じて、たばこを吸う手を止めた。今日のうちに何本手に取ったのか、考えたくはないが、殻になった箱が二箱床に転がっている。
小さく吐いたため息が白く見える。さっきから一筆も動いていない。学内コンクールの締め切りまであと一ヶ月というのに、プロットすらできあがっていない。毎年文芸部からは一作品出すことが決められており、今年は清十郎が書き上げることになっていた。もちろん、今まで最優秀賞を文芸部が逃したことはない。
今日はもうおしまいにして明日の自分に任せよう。そう思い、しきっぱなしの布団に這い寄る。欠伸を一つ。時刻はまだ二一時を回ったところだ。スマホの画面を見れば、恋人からチャットが飛んできていた。
内容を確認しようとしたとき、不意にドアに拳をぶつける音がした。何事かと思えば、返事も待たずに一人の男がズカズカと入ってくる。
「お前・・・・・・くっさ! はぁ?! たばこ吸いすぎ!」
窓を大きく開けて持っていた紙で空気を仰ぎ出そうと。神経質そうな銀縁の眼鏡がおぼろ月に鈍く光って見える。清十郎はそれを無視して布団の中に潜り込もうと身を動かした。だが、男はそれを阻止するように掛け布団を剥ぎ取る。
「プロット、見てないんだけど?!」
「思いつかない」
「あと一ヶ月だぞ?!」
「じゃぁ、お前がやってくれ」
その瞬間、清十郎は男に馬乗りにされる。振りかぶった拳が頬骨を打ち砕く勢いで振り下ろされた。容赦ない一撃に目の前に火花が飛んだ。男はさらに拳を振り上げたが、その瞬間には我に返ったのか、その手で清十郎の首元をつかむだけにとどまる。
「満場一致でお前がいいって決まったんだ」
熱を押し殺した声音でそう言われるが、清十郎は困ったように乾いた笑い声を漏らしただけで。それが男にとっては腹立たしいのだろう、唇を噛みしめたまま掴みかかった手にぐっと力を込めた。
「部内選手権で、お前が勝ったんだ」
「・・・・・・文学に勝ちも負けもない」
男が吐き出す息が大きく震える。
「淳也」
眼鏡が月光に照らされて光った。まるで目の前の男が泣いているように目に映る。
「俺にあるのは、才能だけだ」
小さな声で毒づくと、男は立ち上がりドアへと向かった。
「才能に勝てる努力なんて、ねぇよ」
吐き捨てるように言うと、男は姿を消した。清十郎は手足を放り出して、ぼんやりと天井を見つめる。リモコンで卓上ライトを消すと、天井のシミは見えなくなった。殴られた頬が痛い。
柳淳也は、文学部二回生だ。成績は優秀で特待生。特待生のみが受けられる奨学金で大学に通っており、格安である秋月融に住んでいる。小説家志望。努力家で、勤勉。物事をロジカルに考えるのが得意だと思っているようだが、感情は顔に出やすく、アナログゲームは弱い。
清十郎が知っている彼の情報と言えばそれくらい。今回学内コンクールに出すにあたり、彼は清十郎のお目付役に選ばれた。最初は仲良くしようと気さくに声をかけてきてくれていた。だが、根本的に馬が合わないのか、最近はプロットの催促にしか現れない。
昨夜の拳は本気だったらしく、朝になると頬骨のあたりが青黒くなっていた。
「清十郎、それどうした?」
鏡から視線を声の方へと移せば、共同洗面所の入り口に背の高い男が立っていた。三上雪路。年上だが、同じ学年だ。要は留年した。物書きとしては優秀だが、学生としては不真面目だ。
「いったそ~」
「昨日、淳也にやられました」
「あぁ、淳也か。それは自業自得で」
まだ学内コンクールのためのプロットができていないのは、この寮にいる者には筒抜けだ。プライベートなどあってないようなもの。
「彼女ちゃんと一発やってこいよ。そしたら多分、インスピレーションが」
「あ」
「あ?」
そういえば、昨夜連絡が来ていたことを思い出した。そしてそれに返事をしていないことも。清十郎は小さくため息をつく。
「振られたとか?」
「これからそうなるかもですね」
冷水で顔を洗い、タオルで優しく拭き取りながら洗面所を出て行く。雪路の同情の視線が背中に刺さる。いつから連絡を取るのが億劫だと、思うようになっただろうか。向こうから連絡がこないと、存在も忘れてしまうくらい。いっそ別れた方が彼女のためにもなると、何度思ったことか。それでもこちらから切り出せないのは、まだちゃんと心残りがあるのだと。
部屋に戻り、スマホを確認してみれば、既読マークがついたままのメッセージ画面が表示されていた。
『久しぶり。元気にしてた? よかったら明日、昼食とかどう?』
現在時刻は朝の一一時だ。早く連絡をしなければ、せっかくの誘いを無視したことになる。チャットを打つ途中で、面倒になって電話をかける。十秒ほど経ったところで、彼女は出た。
「恵里菜、ごめん。昨日は寝ちゃってて」
『いいのよ。でも、ごめんね。昼食は美奈子と取るわ』
「そっか、せっかく誘ってもらったのに、ごめんな」
『今度また、いきましょ』
ぷつりと通話は切れてしまった。声音は怒っている様子もなく、普段通りだ。それが逆に恐ろしい。怒ってくれれば、悪いところは直す。いや、直そうと思うかもしれない。暗くなったスマホの画面に映る自分がなんとも情けない顔をしている。
何度目かのため息が出る。午後からの授業のために、鞄に本とノートを詰め込みながら、自身のふがいなさを嘆いてみる。三上のことを悪く言えた質ではないのだ。嘆いたところで、何かが変わることも、変えようとも思えない。そんな自分を肯定しているわけでも、否定しているわけでもない。仕方ないと思っている。
共同玄関へと向かえば、遠く柳の後ろ姿が見えた。まだ五月だというのに強い日差しを浴びて、小さくなった背中。
そのとき、腹の底から湧き上るような、産毛が逆立つような感覚がした。
同じような感覚を門渡恵里菜にあったときにも感じたのだが、その後に書いた小説はとあるコンクールで入賞した。真夏と見まごう光にくすんで、背中が見えなくなった。ごくりと喉が鳴る。
今まで枯渇していた書くという意欲が湧き起こる。大学なんて行っている場合ではない。
気づけば朝方になっていた。一区切りついた原稿用紙の束を整頓していると、ふと後ろに気配を感じて振り返る。壁にもたれかかって眠っている柳がいた。いつの間に、と思うが、それほど集中していたのだろう。柳も声をかけたのかもしれないが、それも聞こえていなかった。
たばこ臭いブランケットを持って近づくと、妙な衝動に駆られる。十何時間か前に感じたあの劣情に似た何かだ。膝をついて、さらに肉薄する。首筋がなまめかしく映る。白い肌に映える赤い唇。長いまつげ。ごくりと喉がなる。
指で頸動脈を押さえると、うっすらと柳のまぶたがあく。心地よいのだろうか、暴れることもなく、柳は再び眠ったようだ。清十郎は柳を横たえ、昨夜されたように馬乗りになって、その首に手をかける。両手を使えば、簡単に折ってしまえそうだ。
目が覚めると、目の前にはまだ眠っている柳がいた。昨日のあれは夢だったのかと、思ったが、その首筋には確かに絞められたあとがあった。まさか殺したのか、そう思って、手を伸ばすと口元から漏れる息が指の先をくすぐる。
机の上を見ると、原稿用紙の束が鎮座している。初めて、自身の欲望と対峙したような気がした。
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