音無し少女は普通でありたい

Ab

音無し少女は普通でありたい



『卒業後に告白はするな』


 小中学生の皆さんへ。これは高校生のお兄さんからのありがたいお言葉です。意味がわからなくても、盲目的に従ってください。


 なんて助言が一ヶ月前の俺に聞こえていたなら、高校デビュー初日から机に突っ伏して寝たふりなんかしていなかっただろう。


 ああ、最悪だ。最高だ。

 まさか彼女と同じ高校に進学してしまうなんて。


 入学式が終わったばかりだというのに、もうそこかしこから仲良しな声が聞こえてくる。もちろん、寝てる人間に話しかけてくれる人はいない。



「ねえねえ」



 近くで鳴ったその声に、心臓が跳ねる。


 中学を卒業して数日が経ったある日。直接告白する勇気は無かったが、大好きだった彼女のことを忘れられなかった俺は、彼女にメールを送った。もう会うことはないと思っていたからこそ、モヤモヤを残さないよう正直な言葉で彼女に伝えた。


『これからも、たまにでいいからメールでやり取りできると嬉しい。香奈かなのこと、好きだったからさ』


『伝えてくれて嬉しかった。うん、これからも仲良くしようね』


 優しい彼女の拒絶は、柔らかく遠回しだった。


 さて。

 そんなやりとりをした相手と、一ヶ月で再開した場面を想像してみて欲しい。

 うーむ、恐ろしい。



「ねえねえ。もしかして、本当に寝てるの?」



 つんつん、と肩を小突かれ、顔を上げてすぐに目を逸らす。



「あ、起きた」



 しかし、その容姿は一瞬で脳裏に焼き付いた。

 目の前にいたのは、学校指定の白いワイシャツ、紺色のブレザー、胸元の赤いリボンとスカートを完璧に着こなす女の子。腰までの長い黒髪を傾けて、俺の視線を追いかけてくる。



「久しぶり。これから三年間、よろしくね」

「こ、こちらこそ……よろしく」

「ねえねえ」

「はいッ」

「なんでさっきから目合わせてくれないの?」



 それはだって恥ずかしいしメールの件もあるし制服似合いすぎてて可愛すぎるし直視してまた好きになったら迷惑だろうし可愛すぎるし! というか出会ってから今まで好きじゃなかったことなんてないんですけれども。



「いやぁ、なんていうか、その……そう。最近視力が低下してるから、近くにあるものは見ないようにしてるんだ、うん」



 遠くに見える山々を注視し、苦し紛れにしては上等な言い訳に一人頷く。

 その間、彼女には何を思われているのか。表情を伺うこともできないでいると、ふっと優しく笑った彼女の吐息が聴こえた。



「そっか。ふふっ、じゃあ私は自分の席に戻るね。とにかく、こうしてまた会えて嬉しいよ、優馬くん」



 目には蒸しタオル乗せるのもいいよ〜、と実用的な言葉を残して、目の前の気配は遠のいて行った。同時に教室のドアが開き、担任の先生が入ってきた。入学式の時に話のあったオリエンテーションとやらが始まるのだろう。



 これからの授業についてであったり、学生のあるべき姿であったり。ありがたいお言葉は耳から耳へと抜けていった。

 たった十五年しかない人生経験でも、なんだかんだで大人の言うことが正しいのはもう理解している。でも、話が頭に残らないのだから仕方がない。なにせ、俺のいる最後列から教壇にいる先生までの直線上には香奈の席があり、目も耳も彼女の情報を集めようとしてしまうのだ。不可抗力。


 それからも三十分ほど学業に関する説明が行われ、オリエンテーションは最終パートへ移行した。十人一組に先輩の学生を加え、校舎の案内をしてくれるそうだ。

 出席番号順に十人ということで、幸か不幸か俺は香奈と同じグループになった。とりあえずグループで集まるよう先生から指示を受けると、途端に教室が騒がしくなる。俺も重たい腰を上げ、グループメンバーの元へ移動する。



「君かわいいね。連絡先交換しようよ。今度ご飯行かない?」



 グループが集合して早々に、ワイシャツのボタンをいくつか開放したままの男子が、香奈に声をかけた。

 しかし、しばらく経っても香奈は返事をしない。それどころか男に気づいた様子もなしに、俺の方を見ている。香奈と同じ中学出身の俺は、こいつらより少しくらい彼女のことに詳しいので、事情は分かっている。



『香奈』



 そう口パクで彼女を呼んでから、視線を男の方へ向ける。それで彼女は初めて男の方を見た。

 と同時に、チッ、という不快な音がした。



「無視はひどくね?」



 男は怒りを隠そうともせず顔を歪め、香奈を睨みつける。

 初対面でよくもまあそんなに強気に出れるものだ。周りの視線とか気にならないのだろうか。


 男の態度に体格差も相まって、香奈は明らかに動揺していた。



「えっと……ごめんなさい。少しぼーっとしてて」



 苦笑を浮かべ答えた香奈に、男はもう一度舌打ちを返すと、腕を組んでそっぽを向いた。次に舌打ちなんかしようものなら、俺の必殺パンチを喰らわせてやろう。



「やあやあ、こんにちは後輩くん達! 今日はよろしく──って、何これ空気オモッ!?」



 最悪のタイミングで登場した先輩は、これから一時間弱、苦労が絶えないことを悟った顔をしていた。



***



 校舎案内が始まり、先輩よりも先にずかずか歩いていく例の男と最後尾を歩く香奈との間には距離以上の壁があった。香奈と並んで最後尾を歩いているので、その壁は目に見えるようだった。

 先頭集団から距離を開け、俺は香奈の細い肩を軽く叩いた。



「さっきのは相手が悪い。だからあんまり気にしなくていいと思う」

「……ありがとう」



 言葉とは裏腹に、香奈の表情は曇ったままだった。




 佐倉さくら香奈は、【耳が聞こえない】。




 正確に言えば、補聴器を頼りにほんの少しだけ聞こえているらしいが、聞こえないに等しいのだそうだ。


 俺がそのことを知ったのは、中学に上がってすぐの頃。

 一年の頃はクラスも違ったし、そういうハンデを持つ人たちには興味がなかった。だから良くも悪くも彼女と関わることはしなかった。しかし、移動教室で彼女のクラスの側を通るたび、幼心の抜けていない子供達の悪意に満ちた声が聞こえてきた。耳の聞こえない人に言える悪口の全てを、香奈は背中から浴び続けてきたのだ。中学に上がって半年が経ったその頃から、香奈はずっと、集団の最後尾を歩くようになった。


 二年生になり、俺は彼女と同じクラスになった。中学二年生になって尚、人をいじめることを「楽しい」と錯覚する頭の悪い奴らは、香奈に言葉のナイフを刺し続けた。ついには補聴器を馬鹿にするやつまで現れて、それから香奈の黒髪は伸びていった。



「ここが音楽室ね。楽器は授業で希望が採られるはずだから、何にしようか考えておいてね」



 後輩と仲良くすることを諦めかけている先輩が大きな扉を指差し告げる。その唇を、隣で香奈は凝視する。



 【読唇術】と呼ばれるその技術を、香奈は十歳で耳が聞こえなくなってから必死に勉強して身に付けたらしい。なんでも唇の動きだけで相手が何を言っているかわかるのだとか。俺はせいぜい「こんにちは」くらいしか分からない。


 十歳までは普通に耳が聞こえていたらしい香奈は、言葉のイントネーションも、声の大きさも他の人とまるで違わない。それでも音の無い世界で周りと同じように話せるまでに、どれだけの苦労があったのかは想像もできない。


 先に進む先輩を、ゆっくりと追いかける。


 中学二年生の夏頃から、俺は香奈と一緒にお昼ご飯を食べるようになっていた。俺が彼女を好きなんじゃないかとか、あることないこと噂され始めたが、おかげで香奈への直接的な悪口は幾分か減った。


 人にされて嫌なことは、人にしちゃいけない。


 だから俺は香奈の味方になった。


 先生にそう思われ感謝されたが、悪いけど俺はそこまで人が出来ているわけじゃない。むしろ、俺が動いた理由はこっちの言葉。



 他人にして欲しいと思うことを、他人にするべからず。



 俺は香奈を哀れんで仲良くしたわけじゃない。

 いじめられてる子は味方が欲しいって、そんなの第三者目線の上部だけの言葉だろう。人にはそれぞれ思いがあって、香奈はそうやって哀れまれることが何よりも嫌だったのかもしれない。本当の気持ちは本人にしか分からないし、本人にだって分からないかもしれない。

 俺はただ純粋に、彼女のことが好きだった。

 面食いと言われても構わない。それだけ香奈は美しく、優しい綺麗な女の子だった。


 世のため人のため。

 それは結局、自分のためだ。



「はい、そしてここが君達の教室です! っと。とりあえず一周はしたので、あとはみんなは自由解散らしいよ。気をつけて帰ってね」



 各々で先輩に感謝の言葉を伝え、俺たちはその場を後にした。香奈に突っかかった男の姿はなく、先に帰ったようだった。



「……ねえ、優馬くん」

「おっと。……どうかした?」



 下駄箱へ続く廊下を歩いていると、後ろから香奈の声。制服の袖を引っ張られたので、振り返ってから尋ねてみる。



「今日、途中まで一緒に帰らない? 中学の頃みたいにさ」



 どこか冷えた声のトーン。

 俺は一瞬迷ったあと、首を縦に振った。




***



「私……考えたんだけど。やっぱりみんなに言うべきだと思うの。私の耳のこと」



 曇り空の帰り道。

 香奈がポツリと呟いた。

 途端に俺は中学の光景を思い出し、目に力を込めて言い返す。



「やめておいた方がいいと思う」

「でも今日みたいなこと……私、イヤだから」

「あれは、そもそも相手の態度が悪いし。香奈は何も悪くない」

「そうかな……。私は、私にも非があったと思う。事前にクラスに私の耳のこと話してたら、あの人を無視しちゃうことも、なかったんじゃないかな」



 左手に持つ学校指定のカバンを左右に捻って回す香奈。歩きながらの会話では前を向けないので、右手で俺の制服の袖を掴んでいる。



「……だとしても、耳の話はしなくていいと思う」

「どうして?」

「だって、本当は話したくないんでしょ?」



 クラスに伝えて知ってもらいたいだけなら、わざわざ俺に相談してこないだろう。



「……すごいね。わかっちゃうんだ」



 わずかに微笑んだ香奈の顔は芸術的に美しかったが、瞳の奥はどこか儚げだった。



「わかるよ……そりゃ。だって俺──」

「──ふふっ。やっと目、ちゃんと合わせてくれた」

「……そうだっけ。逸らしてたの朝だけな気がするけど」

「そうだけど、上の空だったでしょ?」



 言われてみれば、今日はずっと考え事をしていたような気がする。



「すごいな……わかっちゃうのか」

「わかるよ。もちろん」



 彼女の言葉に、なぜか背中が痒くなる。



「ねえ、優馬くん」

「どうした?」

「……私、どうしたらいいのかな。どうしたら、みんなと『普通に』仲良くなれるのかな」



 かっこいい言葉はいくつか脳裏に浮かんだけれど、どれも俺が香奈に伝えたい本心とは違うものだった。

 うまく言葉は浮かばなかったが、気持ちだけは確かだ。


 それを行動で示すため、俺は香奈の右手を力強く握った。微かに震えていた小さな手は、ぎゅっと俺の手を握り返してくれた。




***



 次の日の教室は、朝から嫌に騒がしかった。

 ドアを開け、中に入るとその実態が見えてきた。



「別のクラスにさぁ、お前と同じ中学出身ってやつがいて、ちょっと脅かしたら全部喋ってくれたよ。耳がぁ! 聞こえないんだってなあ!!」



 昨日香奈に突っかかっていた男が、香奈の机に両手を叩きつけ、大声で怒鳴った。

 香奈は目を閉じ俯いているものの、あんな至近距離で大声を出されてしまっては、特に最後の部分は聞こえてしまっただろう。


 俺は体の芯が冷えていくのを感じた。


 昨日の放課後、香奈は耳のことをクラスに話したくないと教えてくれた。それなのに──



「おい」

「あ?」



 気づいたら、男の肩を掴んでいた。力任せにその場から退ける。



「急に現れて、何お前。誰?」

「赤の他人だけど。お前とは知り合いにすらなりたくない」

「ああ?」

「さっきからあーあーうるさいんだよ。幼稚園はとっくに卒業してるだろ」

「ってめ──ッ」



 振り上げられた拳に、俺は痛みを覚悟した。

 しかし、いつまで経っても衝撃はやってこない。



「君さあ、暴力はダメだよ。それくらい高校に上がるまでに学習しておいて欲しいんだけどな。それとも、そんなことから先輩が教えてあげないとダメかな?」



 男の背後に立っていたのは、昨日俺たちに校舎を案内してくれた先輩だった。先生よりも先に騒ぎを聞きつけてきてくれたのだろう。



「離せッ!」

「だーめ。このまま職員室まで連れて行くけど、そこの君は大丈夫?」

「は、はい。ありがとうございます」

「へへ。ちょっとは先輩らしいことできたかな?」



 話を振られたので感謝すると、先輩は嬉しそうに笑い、男を連れて教室から出て行った。



「香奈ッ」



 俺は先輩の後ろ姿を見届けると、すぐに振り返って香奈の肩に手を置いた。ビクッと体ごと跳ねる。



「香奈、もう大丈夫だ」



 声をかけても、俯いたまま動かない。

 しかし、俺が彼女の右手を握ると、ゆっくりと目を開いてくれた。



「もう大丈夫」

「……っ」



 力一杯握り返され、震えた吐息が漏れて聞こえる。


 周りの視線が痛いほど俺たちを向いていた。だが、説明は後でいい。

 そんなことよりも、俺はカバンからノートとペンを取り出し、自分の思いを文字にした。香奈の世界は、音じゃなくて光だから。この方が、彼女に思いが伝わると信じて。




『俺はこれからもずっと、香奈と仲良くしたい』




 ノートを見せた途端、香奈の瞳から涙が溢れ出た。自分のカバンからペンを取り出し、俺の言葉の下に書く。



『私も、ずっと君と仲良くしたい』



『優馬くんは、誰よりも優しい人だから、私なんかより【普通】の人と付き合うべきだって思ってた、けど』



『もう、無理だよ。我慢なんてできないよ。』



 そうだ。

 俺の、いや、俺たちの恋は最初から、誰にも言えないものだった。

 だってそれは、一方通行の音じゃなく。



『あなたが好きです。優馬くん。』

『俺も、香奈が好きだ。ずっとずっと、これからも。』



 双方向の、文字という名の光として、互いに伝え合うべきものだったから。


 書き終えノートを置いた香奈は、心の底から嬉しそうに、世界で一番可愛く笑った。



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