異世界令嬢が転生したらばんえい競馬の厩務員でした〜私、騎手を目指します〜

ihana

異世界令嬢が転生したらばんえい競馬の厩務員でした

 布に覆われた視界は暗く、耳はざわめきを捉える。

 後ろに回された女の手は縄できつく縛られ、自由に動かすことは出来ない。

「台に乗れ」

 男に感情なき命令を下される。女は震える身体を叱咤し、不様にならぬよう身体を台に乗せた。途端に頭の後ろを男に掴まれ、倒される。驚きに声が出そうだったが、すんでのところで堪えた。

 首が板の窪みに嵌まると、板が上から置かれた。頭を動かさぬためだ。

 わたくしは無実です――女はそう泣き叫びたかった。殺さないでと懇願したかった。

 命乞いは処刑を娯楽にする者を楽しませるだけ、矜持を棄てたところで助からないと分かっているでしょう――意識の奥で、もう一人の己が冷酷な目で見下ろす。

 女の背中と足は男たちにベルトで固定された。心臓は煩いほどに音をたて、冷たい汗が皮膚にうっすらと浮かんだ。今際の際に矜持を保つことが何になるのだろう、守るべき家などもう無いというのに――それでも無実だからこそ、そして己であるために誇りを失う訳にいかなかった。

 きつく目をつむり、あふれそうな涙を堪える。

 叫び出したい心を必死で堪える。わたくしは無実です、なにもしていないの、ころさないで――

 悲鳴と共に女は飛び起きた。

 身体にびっしりと汗をかいている。かたかたと細かく震える身体を両腕で抑えながら、辺りを見回した。

 ――ここはどこなのでしょう?

 見たことのない景色だった。親しんだ自室より狭く、牢屋より遥かに広く明るい。疑問を抱えながら、女は震える手をゆっくりと上げる。

 象牙色の肌は丸く、何より左手小指と薬指の付け根の皮膚が柔らかい。これは見知らぬ手だった。本来の手は透き通るような青白さで、細身ながらも鍛錬の痕があるからだ。

 嫌な予感がし、慌てて流れる髪を手にする。それは黒く、亜麻色ではなかった。

 ――わたくしの身体ではない?

 女は布団に包まれながら愕然とした。冷静になるべく深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。そして少し醒めた頭で、記憶の糸を丁寧に辿った。


「アン・ローゼン・キーセキ侯爵令嬢、貴女を断罪する」

 トゥカチ帝国第一王子ミチアーノ・フォクショウ・フォン・マークス・トゥカチの声が、大広間に静かに響いた。

 婚約者の言葉がアンの芯を震わせる。だがそれを知らぬミチアーノは言葉を続けた。

「ソーレヨン・キィタコネ男爵令嬢への脅迫および殺害未遂、その証拠は全て揃っている」

 大広間を静寂が支配する。

 晩餐会が開かれる宮殿の大広間には、華々しい衣服に身を包む貴族たちがいた。彼らの視線はミチアーノに集まり、そしてアンへ移る。

 一人が漏らした驚きをきっかけに、ざわめきがさざなみの如く辺りへ伝播した。アン様はソーレヨン様を厭っていらしたもの――囁かれる言葉から遠慮が次第に消え、アンへ向かう表情に侮蔑の色が混じる。だがアンは身じろぎせず、ミチアーノをまっすぐ見つめていた。

「アン嬢、申し開きはあるか」

「虚構を事実であると、わたくしは認めることができません。何故なら、わたくしは何一つ罪を犯していないからです」

「殺害未遂は罪ではないと述べるか」

 命を抱く海に似た、アンの青い瞳は揺らがなかった。美の女神イィズミの再来と評された、驚くほどに整った顔は気高き意志が彩られている。

「殺害未遂は紛れもなく罪です。ですが、わたくしはソーレヨン様へ脅迫、殺害未遂を行っておりません。ですから殿下のお言葉は虚構と申しました」

「証拠は全て揃っている、そう告げたはずだが」

「その証拠は捏造となります。何故ならわたくしは罪を犯していないからです」

 気丈に振る舞うアンの心は絶望に染まっていた。

 半年前、ミチアーノの愛がソーレヨンへ完全に移ったと気付いた。だがアンは悲しく思いはすれど絶望しなかった。后に求められるのは、国民の安寧のため王と共に国の贄となり、また王を支えること――ミチアーノとは戦友としての信頼こそが必要であり、愛は必須ではないとアンは理解していからだ。

 聡いアンは淑女としての教養のみならず、各分野の学者に教えを請い、また剣技や騎馬術なども身にすべく努力した。全ては統治者として必須と考えた事柄全てを得るためだ。王を支え、民を守るためになさねばならぬと、アンは強靭な意志で苦痛を乗り越えてきた。

 だが、今の二人の間に信頼はない。

 将来の后としての役割も求められていない。

 キーセキ侯爵家も終焉を迎えた。

 アンの血の滲むような努力と覚悟は、この瞬間呆気なく崩れ去った。何のために生き、何のために全てを捧げてきたのか、アンは分からなくなる。床が崩れるように、心身は絶望へ投げ出された。

 その日からアンは極めて冷静に、理路整然と無実を訴えた。だが捏造された証拠は余りに多く、また覆すことが難しいものだった。最後まで矜持と共に無実を訴えたが、認められることもなくアンは断頭台に上ったのだった。


 ――わたくしは黄泉の世界にいるのかしら

 アンは部屋をぐるりと見渡した。壁に下がる紙の束が暦であること、丸い硝子の中に長短の針があるものは時計と分かる。だが刻まれている文字は見知らぬものだ。

 神の住まう世界は、わたくしの知らぬ言葉で作られているのですわ――アンは納得しつつ、漂う匂いに意識を向けた。この匂いに覚えがあると、その内容を脳裏に浮かべた時だった。

「Allez◯※?@&%」

 ドアがいきなり開く。女性が、アンの聞き取れぬ言葉を快活に話しながら向かってきた。

 唐突な出来事に、アンは飛び上がりそうなほど驚いた。だが、神はわたくしたちには分からぬ言葉を使われるのですね、でも最初の言葉はAllezと聞こえましたわ――そう納得しかけた時だった。

「%@!◯$*#※?¥」

 女神は歩み寄ると、アンの額に手を当てた。その瞬間、視界が強烈な眩さに覆われた。そしてここがどこなのか、己は誰なのか、何をしてきたのか――奔流の如き知識と記憶が、アンの身体を駆け抜ける。

 女神の衣服に書かれた言葉が「ばんえいフルゲート」であり、女神ではなく雇用主とアンは理解した。

「よかったー熱下がってるわ」

 雇用主の古山は、笑うとアンの肩をばんばんと叩いた。

「ほしちゃんいきなり倒れるし、熱もすごかったんだわ。もーホントに心配したべや。そうだ、ご飯食べられるかい?」

「あ、あの」

「ん? なにさ?」

 アンは得た記憶から、この身体の女性が山野星子であり、ばんえい競馬の厩務員として3ヶ月前から働いていると知った。当然、古山は目前にいるのがアンではなく星子だと思っている。

 本物の星子様はどこへ行ってしまわれたの――アンは不安になった。手に入れた記憶が正しければ、他人の身体を乗っ取ったからだ。そしてこの事実を秘すべきかも迷った。数時間後には、互いに元の世界に戻る可能性がある。

 しかし黙ったが故の支障をアンは恐れた。己の身に起きたことは信じられぬし、告げたところで古山が信じるとも思わない。それでもアンは語るべきだと思った。もしこのまま入れ替わりが戻らなければ、目前の古山に迷惑をかけることになる。それは避けるべきだろう。

「古山様、わたくしが述べることを信じていただけないと、重々承知しております。ですが拝聴いただけないでしょうか」

「え、いいけど、どうしたのほしちゃん……お嬢様みたいな喋りして」

 古山は星子が冗談を言ったように見えなかった。真摯な視線に気圧され、たじろぎながら布団の前にしゃがみ込んだ。

「わたくしはAn Rosen Keithekiと申します」

「発音良すぎてアンしか聞こえんかったわ」

 アン・ローゼン・キーセキとゆっくり発音した後、静かにアンは語り始めた。片眉を上げ胡散臭そうに聞いていた古山は次第に眉を下げ、アンが語り終える頃には滂沱の涙を流していた。

「つまりアンさん、あんたはほしちゃんと入れ替わった。んで、本当はお嬢様で国のために頑張って勉強してたけど、悪い奴らのせいで首斬られちゃったってことかい……酷い話じゃないの」

「わたくしが何故、星子様と入れ替わってしまったのか……カーネサ神のお導きかもしれません。いずれにしろ、死者であるわたくしに行き先は無いのです」

 二人の間を沈黙が支配する。

 俯いていたアンは、ゆっくり顔を上げた。

「古山様、無理を承知で申し上げますが、わたくしをここに置いていただけないでしょうか。本当の星子様が戻られるまで、誠心誠意をもって古山様にお仕えさせてください」

「ほしちゃん、じゃなかったアンちゃん、ここにいな! 辛かったことは全部忘れて、ここで新しい人生送ればいいべや! うちも厩務員が今いなくなったら困るんだわ、だからいてもらえると助かる」

「ありがとうございます……わたくし、心を込めてお仕えいたします」

 言葉を信じてもらえたこと、居場所を再び失わずに済んだことがアンの緊張を解き、言い終えると同時に涙がこぼれた。

「ほし……アンちゃんは馬に乗れんのかい?」

「わたくし、ずっとオーレノという馬とおりましたの。お世話もわたくしがなるべくしておりましたから、最低限でしたら出来ると思います」

「そっか……アンちゃんは馬とも離れちゃったんだね。めんこかったかい?」

「ええ、大変愛らしかったですわ。穏やかな気性の牡馬でした。美しい青毛でしたから、夜を司る女神オーレノから名を頂きましたの。もう二度と会えないでしょうけれど、彼の新しい主人が良い方であることを願うばかりですわ」

 言い終えると同時に、ぐぅとアンのお腹が鳴った。あまりの間抜けさに、二人は同時に吹き出した。

「ほ……アンちゃんは病み上がりなんだから、今日はご飯食べてぐっすり寝な。したっけ明日から、一緒に働こう。よろしくね、アンちゃん」

 差し出された古山の手を、アンは静かに両手で包み込んだ。

「こちらこそ宜しくお願い申し上げます、古山様」

 こうしてばんえい競馬の厩務員として、アンは新しい人生を踏み出したのだった。

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