〈装飾〉・二


 官吏から手札を渡される。


 玉髄木ぎょくずいもくに彫られた陽冰遥ヤン・ヒョウヨウの名を確認してから裏を見ると、後ろには墨で甲、と書かれていた。



 指先が、震える。

 耳の後ろのほうが、熱くなってトクトク鳴りだす。


 腹の底から胸にせりあがってきた圧迫感が、目頭を濡らした。


 まつげが涙で濡れているのを感じながら、深く、ゆっくり頭をさげる。もう一度、小さく、ありがとうございます、と呟いた。


 信じられない。

 でも、現実だ。


 静かに、後ろに下がり、手汗で手札が滑らないようにぎゅうと握りしめる。

 黄と白がまざった手札を懐にしまい、息を吐く。


 浅はかに見ていた現実が、広くさえ見ていなかった過去が、ただ血脈となって全身に巡り、芽吹くように肌から突き出てくる。


 官吏の声が、遠ざかっているのを感じる。

 記憶の漣がゆっくり、遠のいていく。



 戦場の悪魔。戦わなくてはいけなかった、あの日の自分。賊徒に育ち、軍の指揮官までに登りつめた我が国は明涼ミャンリャン国に攻めこまれ、今や一時停戦状態。二国の間には、緊張も続いている。


 知っている過去と、現在がぐちゃぐちゃになって脳の帳簿に開かれる。


 そうして、ゆっくり息を吸うと、幼い躘が思い浮かんだ。


 どこを好きになったのか、分からない。

 顔立ちだって、端正ではあるのだが好みではないと言い切れる。優しい声か、気遣ってくれる温かさか、それかはじめて与えてくれた愛の保持者だからか。


 どんな理由づけがなくても、冰遥は躘が好きだった。


 初恋だ。どうやっても、忘れられない初恋だ。


 彼を追いかけて、この宮廷に入った。側室でもいい、正室ではなくてもいい、ただ彼にさえ人生を捧げても悔いはないと、真剣に思えるくらいには本気だった。


 奇妙で、気持ちの悪かった邪術だって、彼を救うために持って生まれたのかと思えるくらいに、本気だったのだ。


 ——残れるとは、思わなかった。


 こんなことを思ったら叱られるかな、と冰遥は小さく笑みをこぼす。


 自分の身に起こったとは思えない奇跡のような現実の数々に、脳が麻痺しているかのように。


 甲、の文字をもう一度頭に浮かべてみる。

 ああ、本物だ。


 爪先立ちしているかのような浮遊感に現実味もなかったが、一気にかかとまで地に落とした気分になる。悪い意味ではない。現実が頭を直撃した。ああ、残れたんだ、と。


 呑気にはいられなかった。

 興奮したように後頭部が熱くなる。



 ゆっくりと意識が浮上してきた。あたりを見わたす。もう、装飾の試験の準備が終わろうとしている。官吏が横目で冰遥を見て、顎で包厨くりやを示した。


 目を伏せて軽く会釈し、人の間をぬって庖厨に向かう。準備しろ、と言わんばかりの鋭光に、その緑の正義に胸が震えた。


 庖厨に入れば、女官が冰遥に気づき顔を上げた。挨拶の代わりに微笑まれて、こくんと頷く。


 花浅葱はなあさぎ尚食しょうしょくは緊張した面持ちの冰遥を励ますように、すれ違いざま、肩を叩いて去っていく。


 実技評価だ。本番も準備も、誰いっさいの手伝いも受けないことが、前提にある。



 前菜、くらげの冷菜と棒棒鶏バンバンジー松花蛋ピータン

 タンには白湯パイタン。白濁した濃厚な白湯の次は無錫排骨※豚のスペアリブの甘辛煮込み藻屑蟹もくずがにの茹で蟹。最後の点心には、月餅を。


 昨日仕込んでおいた料理を前に腕をまくり、皿に盛りつけようと——したが、異変に気がついた。


 皿が、割られている。

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