〈装飾〉・三


 誰による仕業だろうか、と一通り考えるが、粉々に砕け散った皿を眼下に膝の裏から力がぬけるのを感じる。


 ああ、どうしよう。絶望と希望はいっぺんにやってくる、と知ってはいたがこんなにも激しいものだとは分からなかった。


「冰遥さま、どうかしました?」


 見慣れない色の服を着た女官が近づいてくる。


 優しい声に顔をあげて——

「近づくな」

 低い制止のことばは不敵な笑みで跳ね返され、の目とかち合う。


 かち、と歯が勝手に震える。圧倒的な雰囲気に、勝手に脚がうしろに後ずさりした。


 誰だ。

 この女は、一体——。


「あれ、気づけないの? 自分が正室になれるとでも思って浮かれてた?」


 白い面。黒い髪。青紫の瞳。末恐ろしいくらいに綺麗な顔。

 なにより、琴を弾くような、そのを孕んだ薄気味わるい声。


 正体を探ろうと頭の書を開いたところで、ひとり、ひとりだけ思い当たる正体に、畏怖に似て非なる怒りに身が震えた。


「おのれ……何をしに来た」

「状況を呑みこむのが早いね。感心だわ」


 間違いない。この女、敵だ。


 躘を調伏し、文琵を地獄の底に叩き落とした——姉さん、香花耀ピャン・ファヨウに違いない。




 状況が呑みこめない。なぜ、姉さんがここにいるのだ。今、この機会で。何の目的で、今、冰遥の前に現れたのだ。


 姉さんの身からあふれた殺気のせいで、顳顬こめかみに垂れた汗を袖で拭う。


「……『何の目的で、わたくしの前に現れたのだ』、だって? あなたには分かるでしょ?」

「知らない。知りたくもない、消えろ」

「私の名前はね、香花耀ピャン・ファヨウ。聞いたことはない?」

「あるとでも?」


 首に向かって飛んできた刃を、反射的に振り落とす。包帯が切れて、剥きだしの皮膚に血が伝う。


 投げた剣を躱されたことに目を丸くした花耀だったが、すぐに満足げにまなじりをゆるめた。


「わあ、私の剣を躱せるんだ。面白いなあ」


 頭がまっしろになって、無心で花耀を睨んだ。ひ、と歯を見せて笑った花耀が、ゆっくり冰遥に近づいてくる。


「殺しに来たの」


 低く叫ばれた声が、蜈蚣むかでみたいに足元を這って噛みついてくる。


 金となり黄に紅藍べにばなほむらとなり赤に芍薬、水となり青にあさがお、土となり緑に欝金香チューリップ、毒となり紫にトリカブト


 心を落ち着かせるように術の言を唱える。


 熱情となり金に金蓮花きんれんか、知性となり銀に木白香もくびゃっこう、力となり銅に白薇ふなばらそう


 冗談ではない。本気だ。青紫の瞳の奥に光った、金色はぜったいに本心だ。


 生となり白に白百合。死となり黒に黒百合。


 その瞳の奥の奥に、沈みこんだ黒。黒は厄。死を意味する。


 ——殺される。本能的に思う。彼女なら、命を奪うにぜったいに、躊躇しない。瞬く間に殺される。その気があれば、一瞬で。


 沈黙が耳朶を打つ。静かなくらいに痛い、激しい静寂が耳をキーンと鳴らす。


 恐ろしいほど整った顔が鼻先触れるまで近づいてきて、身を強張らせる。動けない。動くことを、許されていない。彼女に。


 今、冰遥のすべては彼女が握っていた。


「……せいぜい、頑張ってね、従姉いとこのおねーさん?」


 剣呑けんのうに唇を動かした花耀がするりと頬を撫でて、踵を返した。



 背が見えなくなって、がくりと座り込んだ。与えられた情報に目がまわる。


 彼女の名は香花耀。冰遥を殺しにきた。でも、殺していない。今しがた去った。そして、冰遥を従姉いとこと呼んだ。……従姉、と。


 血が、その血が濃い。血縁関係があるとかそういう関係ではない、あまりにも近すぎる。


 彼女は、間違いなく邪術を使っていた。ゼンから解いた邪術と同じ彩だった。気配が同じだ。


 血圧の上昇に追いつこうと心拍数が異常なほどに上がる。思わず地面に膝をついた。苦しい。


 酸素が足りない。息がしずらい。意識が朦朧としてきた。ああ。ああ。


 あまり意識のはっきりしない頭で、必死に考える。


 すべて割られた皿は何で代用しようか。なぜ、花耀はここに来たのだ。殺しに来たの、が耳元でもう一度啼いた。


 殺しに来たの。……誰を?



 小さくこぼれたことばに、自分自身が一番驚いた。足首から腹まで、一気に粟立つ。


 そうだ、誰を殺しに来たの。一体?


 答えなんて知らなくていい。知りたくもない。そう思うのに、頭はただひとつの答えにたどり着く。


 ——彼女なら、命を奪うにぜったいに、躊躇しない。瞬く間に殺される。、一瞬で。


 なら、なぜ冰遥を殺さなかった? なぜ?





 ああ、と声がもれた。掠れて聞こえないような声がもれた。


 辿り着いてしまった。彼女はなのだ。——それ以外に、答えなんてないのだ。



 まず、試験は受けなくてはいけない。


 料理だからという理由で最後に受験することになってはいるが、時間が十二分に残されているわけではないのだ。


 皿をどうにかしなければいけない。

 今から代用できるものは? 尚食に相談して、倉庫に残っているものを取って来るか?


 必死に考えてみる。だめだ、思考がうまくいかない。現実と思考がうまく接続できない。


 そのなかでひとつ、浮かんだ考えに目線をあげる。


「……やってみるしか、ない」

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