中秋節・宵夕雨の儀


「綺麗です、冰遥ヒョウヨウさま」

「慣れない気がして、変なのだけれど……大丈夫?」

「ええ。素敵です」


 手を負傷した冰遥を手伝い、身支度をしていた文琵ウェンビが、そう褒めて鏡の前に冰遥を連れていく。


 常に淡い色彩の衣をまとう冰遥ヒョウヨウにしては珍しい、深い青と紺の綸子りんず、小さい真珠を縫い付けた紗でまとめた襦裙じゅくん


 頭上で高く結い上げられた髪にはリョウから贈られた簪が挿してある。


 それに加え、首の方には芍薬を、小ぶりではあるが歩揺ほようも挿した。


 舞をするときはこうがいで髪を搦めようかと思ったが、躘を傍に感じていたく、慣れない金を挿した。


 愛のちからは偉大だと、改めて知った。


 はじめは、常に身に着けている簪、それと淡い衣で、特に着飾ることもせず出ようとしたが——儀の前夜、室を訪れたヤン夫人に止められた。


 試験ではあれど、儀は儀なるもの。


 『天に住まう神のお気に召されるよう、華やかに着飾るのが礼なのです』。


 やはり、彼女は後宮を生きぬいてきた女性だと、その言葉ににじむ逞しさを感じて冰遥は思った。


「珍しい。緊張なさっているのですね」

「文琵……今の心情じゃ笑い飛ばすことさえできやしないわ」

「それはそれは。失礼いたしました」


 珍しく緊張した面持ちの冰遥に、文琵が笑いかける。


 負傷した手をかばおうと握りしめていた拳の力が解けて、喉に絡んでいた息が流れていく。


「……ふう。ありがとう文琵。少しだけ、緊張が解けたわ」

「いえいえ」


 万が一、宮中に潜む例のが動いたり、躘に危害を加えようとしたときのために懐に金緑石の簪を入れておく。


「儀の準備が整いました。みなさま、広間にお集まりください」


 回廊から声が聞こえる。伝達係の女官だろうか。


 気合をいれて立ちあがる。儀に参加できるのは、上級の女官と皇室、大臣、そして後宮選抜の者たちだけだ。


 つまり、文琵はここで待っているしかない。


「じゃあ。……行ってくるわね」


 文琵が無言で拳を胸の前に突き出す。その仕草が、表情が、あまりにも真摯すぎて冰遥は少しだけ、笑ってしまった。




 国内でも指折りの芸者が舞い、鼓を叩いている。


 王宮前の広間。長い階段の頂点に、皇室の者たちが並んで座る席が用意されている。


 中央の玉座に座るのが皇帝。その左隣が躘。


 右隣には皇后に一番近いヤン夫人が座り、ヤン夫人よりも右、少し離れた場所に設置された椅子は側室が並ぶものだ。


 そして反対側。側室らと対になるように陳列した椅子は、大臣たちに用意された椅子。


 そこに座る大臣たちの内、幾つかの家の出の女人が、この場にいる。


 冰遥はそう考えると、自分と並んで座っている女人たちをちらりと一瞥した。


 冰遥たちは仮にも女官の立場であるため、先に並んで待っている。儀の始まりを知らせる銅鑼の音が、天空に鳴り響く。


 広間の下、門が開き大きな冕冠べんかんを被った皇帝陛下が姿を現した。


 地を練り歩く鹵簿ろぼのように、その後ろに皇室の者、女官や官僚が連なり、行列を作っている。


 その姿は大地を這う神聖なる大蛇だいじゃのようだ。


 うつむき皇帝の顔を見ないようにするのが礼儀であるため、冰遥もそれに倣ったが、ちらりと盗み見ると、皇帝の後ろにリョウ、その後ろにゼン露楊ロウヤンが並んでいた。


 その横には、ヤン夫人が凛と前を向いて進んでいる。


 正装を身に着け、胸を張って歩くその姿が——冰遥がこれまで濃密に関わってきた人々のように思えない。


 あまりにも高貴な方々と関わっていたことを、この日初めて実感した。


 長い行列が終わり、皇帝が玉座の前に立つ。


 大臣や側室も席の前に立ち、皆が決められた席の前に佇んでいる。


「これより、中秋節の祭りをはじめる」


 皇帝が低く凛とした声で宣言し、再び地を鳴らすような銅鑼の音が響き渡った。


 中秋節とは、月を祀り幸福を祈る祭りだ。——と、平民の間では月餅げっぺいを楽しむ祭りなのだが、皇室は少しばかり異なる。


 この頃、秋にはやまひが流行る。


 炎節を乗りこえようやく作物が収穫できたというのに暗い知らせばかりでは気がめいってしまう。


 皇室では毎年、その㽲のはやい収束を天に祈る儀が行われる。


 今の皇室では、月をただ楽しむだけではなく、㽲がはやく収束するよう、天子である皇帝が天空に住まう神を招致しょうちし、祈る儀なのだ。


 儀は進行し、皇室一体となり神を招致し、皇帝が天に祈りをささげた。


 すでにこのときには日が暮れ始め、あたりは燦然と焼ける夕に満ちている。


「はじめは裁縫の試験よりはじめる」


 ——ついに、その時がやってきた。


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