「躘、嫌だ」


「ここが、書房しょぼう……」


 木枠の棚に所せましと並んだ色とりどりの巻子かんす折本おりほん冊子さっし


 すべて、国の史料であり国宝として管理されている——普通のひとならばお目にかかることもない品ばかり。


 今までの国に伝承される記録が、これでもかと積まれている。


 冰遥ヒョウヨウは緊張して身を硬くさせながら、ゆっくりと書を手に取る。


 高価な色紙が使われた表紙ばかりで、手に取るのさえ恐縮してしまう品ばかりだ。


 ヤン夫人から皇帝陛下に話を通したらしく、あの日の翌朝にはもう許可が下りていたという。


 だが儀の準備で忙しく、今日にして初めて書房を訪れることができた。


「姉さん」

「うわっ!」


 びっくりした冰遥が髪を翻し振り向くと、リョウが立っている。


 悪びれもない顔で、ごめん? と言われて、冰遥は無言で肩を殴った。


 笑いながら肩を押さえる躘に、むっとした冰遥が拳を握る。


「びっくりさせないでよ……」

「ごめんね姉さん。緊張しているの、なんだか猫みたいで可愛かったから」


 やはり悪い気はないらしい。


 へら、と笑う躘の言葉に酔ったような目眩を感じる。


「……うるさい。捨てられた子犬みたいな顔してるくせに」

「それ褒めてくれてる?」

「……うるさい」


 褒めたわけでもないのに、なんだか負けたような気がする。


 ふい、と顔を背けると鈴のような笑い声をたてながら背後の棚に向かう躘。


 常に身に纏うやわらかい装束と違い、あおと黒の訓練服が目に新しくどうも会ったときから胸の鼓動がやかましい。


 赤面しないようにしているものの、どうにも頰が熱いのは気のせいだと思いたいが──冰遥は頰に手の甲を当てて、棚に積まれた冊子を覗く。


「これ……」


 冰遥の手にある書を覗くと、炎尾国調査記録書、と表紙に書いてある。


 本能的に手にとってしまったが、隣に立った躘からの視線がどうにも気になって、手が震える。


「……気になる?」


 かち合った眼差しの彩が、ひんやりとしているように見えて、背が震えた。


「ごめん。……わたくしのわがままね」

「いいんだ、気になるんでしょう。だったら読めばいい」


 棚に戻そうとすると、躘が冰遥の手首をつかむ。


「いいわよ。もう……」

「気になるんだったら大丈夫だって。仮にも皇太子だ、許可したと言えばいい」


 胸が、どくん、と痛んだ。


 言い方が、その言葉が、どこか——嫌だ、と思った。


 このようなことを言える立場にないのは分かっている。相手は一国の皇太子だ。けれども——。冰遥は思う。


 自分を卑下しているか。


 相手は皇太子だから、遠慮したり気を遣っているか。


 彼のほうが、優位に立っている気がするか。それが嫌だと思うか。そう思う自分がもっと嫌だと思うか。


 そう自問すると、否定できなかった。それが尚更苦しかった。


 愛をもとめてここに来た。滅びることのない愛をつかんだ。その愛を信じた。


 でもどこか、胸に空いた空白が消えないような気がしている。気付かないふりをしていた本心が、剥き出しになってくる。


 指先の白さを見て、躘が心配そうに冰遥の顔を覗き込んだ。


「甘えている、と思いたくないのよ」


 震えた声が、涙に濡れているように聞こえた。


「あなたと、皇太子と想いあっている事実に、甘えたくない」


 冰遥はぐすり、と鼻を鳴らして顔を手のひらで覆った。


 内心慌てている躘が、不器用ながらやさしい手つきで冰遥のことを抱きしめる。


「出来る限り、対等な立場でいたい。立場の違いとか、身の程とか、知らなかったころみたいに。……あのころみたいに」


 小刻みに震えはじめた冰遥のことを抱きしめて、涙を流す顔を隠すように胸のなかに押しつける。


 このごろ、儀の準備で精神をすり減らしていることはすべて分かっていた。


 すべては、ここに残るため。彼とともになるため——。


 だから、躘も理想を求める彼女を応援していたし、止めることもしなかった。


 けれども、あまりにも精神をすり減らしすぎたのだろうか。小さく見える体を支えながら躘は心配した。


 改めて考えれば、冰遥の涙など、数えるくらいしか見たことがなかった。


「立場はそうじゃなくても。……こころくらい、対等で、いてよ」


 飾らない言葉のふしが、胸に強く突き上げてきてきつく掻き抱いた。


「……ごめん」

「なにに謝ってるの。分かってないじゃない」

「ごめん。姉さん。俺が甘えてたんだ。……皇太子だから、とかそんなこと言っちゃいけなかった。ごめん——っ」


 躘が、まっすぐな眼差しで濡れた冰遥の目を見た。


「俺にも、姉さんのこと護らせてください。……姉さんが、俺のことを護ろうとしているのは知っている。だから、対等に、護らせて」


 まっすぐに、誠意が伝わるように目を見ると、冰遥が霜のような睫毛を伏せた。


「わたくしより、強くなったんでしょうね」

「……もちろん」


 躘に涙を拭われた冰遥が、照れ隠しではにかむ。


 常に、呼吸がしずらかった。胸が痛かった。きっと極度の緊張状態が続いているからだと思っていたが——もしかすると、それだけではなかったのかもしれない。


「護ってね、わたくしのこと」

「……精一杯、護ります」


 そう告げ、笑い合うふたりだけの世界が幸せだ——と、冰遥は思った。



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