楊の死んだ心臓


 夕暮れから夜にかけて、ひゅるりと冷気が瞬く間に碧空へきくうを包んでしまう、この傾刻けいこくが嫌いだ、とヤンは思う。


 ヤン、という名で花柳苑かりゅうえん花街※遊郭にいたころとは違うわびしさに心を震わせる夜があるから。


 房子で春と芸を売っていたころ、妓女ぎじょとして画舫がぼうに乗り大河をわたっていたころ。


 彼女の胸を突いたのは孤独ではなかった。


 それは、若年ながらに抱いた、一片の残照ざんしょうさえ差しこんでくれない陰った未来への絶望だった。


「……思いだしたくもないわ」


 笄年※15歳を過ぎ、贔屓ひいきにしていた貴族に養子縁組をくまれるまでのことは、思い出すことができない。


 想起そうきしようとするたびに、胸が傷んで血潮を噴くからそれ以上はどうにも踏みこめないのだ。


 彼女のもつ記憶のつぼには、螺鈿らでんの蓋はあれど底はない。


 彼女の本能が、苦痛の日々に二度と苦しまないよう、根こそぎ消してしまったのかもしれない。


 両腕で立てた膝を抱えこむと、はぁ、とついた吐息が白く見えた。


 青黒く変色した爪先の感覚がない。


 寝台でうずくまっていると、天幕の揺らぐせせらぎに、胸がざらりとする。


 ああ、と意味のない息がれる。


 ――あのことを、考えなくては。


 賊徒ぞくととなったのは、些細な理由からだった。


 妓女のころ、贔屓の中でも熱心に通ってくれる、精悍せいかんで柔和な面持ちをした若い男がいた。


 彼は宮中で官僚をしていると語り、語りあうたびに彼の尽きない心遣いに、知性にうっとりした。


 だが、しだいに彼が官僚ではないことを悟っていった。


 彼は官僚にしては、するりと影に溶けていきそうな危うさがあったのだ。


 女の勘は当たる。


 彼は官僚ではなく、日の当たらぬ裏の世界に生きる賊徒の一味だった。


 そう知ったとき、彼女は身に雷でも落ちたかのような衝撃を受けた。


 そして、解ってしまったのだ。

 ――彼を、愛していることに。



「それでも、ねぇ、俺を好いてくれるか?」


 会おう、と対面してから告げられた時には、胸騒ぎに、心臓が口から跳ね出てくるかと思った。


 会おう、のその前に、があったかのような気がしてならなかった。


「……俺の正体を知ってもまだ、愛してくれるか?」


 本心を言い洩らすかのように吐息にまじれた言に、胸がぐっと締めつけられる。


 彼は微笑んでいた。


 そう見えたが、彼のくびがれた菊のような眼差しのせいで、それはひどく脆くて華奢に見えた。


 けれども、まなじりに滲んだなまめきがうるりと光っている。


 ヤンは唇に微笑みをうかべると、ぎゅっと彼の手を握って告げた。


「もちろん。わたしが愛しているのは、ただ、あなたよ」

「……そうか」


 彼はほろりと桜が散るように笑い、ヤンもつられて破顔した。


「俺も、愛しているよ、ヤン」

「ふふ……」


 互いに、幾度となく愛をささやいた。


 彼女が世へ生まれ落ちたときに、親にもらった名を教えたのも、ただ彼ひとりだった。


 彼は賊徒で、彼女は花街の妓女だった。


 ふたりとも、陽のひかりを全身に浴びれるような立場ではなかった。世間から疎遠される立場にいた。


 だからこそ、彼らの世界は彼らだけにあるかのように思えた。


 いや、本気でそう思っていた。寒さに四肢を震わせながら、ヤンは思う。


 おのれも知らぬ間に、彼がわたしの心臓になっていた。そして、わたしは彼の心臓になっていた。


「今度、頭といっしょに任務にいくんだ」

「そうなの……気をつけてね、命だけは守ってちょうだい」

「分かっているさ」


 許されなくてもいい。


 いずれ罪人として地獄を引きられても、業火に焼かれて身を滅ぼされてもいい。


 ただ彼がいるだけでいい。彼がいれば、生きてさえいれば、きっと生きていける。


 ――そんな、馬鹿げたことを、こころの底から思った。


 そのくらい、本気だった。



 けれども彼は、死んだ。あっけなく。愛をこころに捧げてくれた彼は、死んだ。


 生きたままの屍だったのではないかとヤンはあらためて思う。


 来る日も来る日も彼の面影をさがしてばかりだった。


 そして、幾度となく涙をながした。


 死んだ彼の心臓が胸にあるのなら、断ち割って真紅しんくの心臓だけでも見てやろうかと思ったときもあった。


 けれどもできなかった。


 結局自分が可愛かったのかも知れない。やっぱり無理だったのだ。


 だから彼女はその代わりに、彼のいた賊徒の団体に入団した。


 彼のことを、さがそうと決めたのだ。



 ――それから、今までヤンはずっと、胸に死んだ心臓を抱えながら生きている。



 夕暮れから夜にかけての時が嫌いだ。ヤンは思う。


 彼をさがして、胸にある心臓が鈍い痛みをもって疼くから。




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