文琵のひとりごと


 美しい自然を模した庭園のそばをのぞけば、水亭すいていの際に立ち、池に泳ぐ鯉をながめる人影がある。


 姓は夸娥こが、名はゼン


 明涼国の皇族であり、後宮に出入りをゆるされた、ゆいつの宦官ではない官僚。


 そんな、男らしくも麗しくある彼に——恋慕れんぼしていると告げれば、きっと来世で罰当たりになるだろう。


 だから、尚服や尚食、庖厨くりやから移動するその道すがら、どこか遠くをながめる彼の背だけを見て想いを募らせたのだ。


 文琵ウェンビはそっと、彼から離れる。


 鯉のようにばくばくと跳ねあがる心臓に、静かにして、なんて告げてもまだ喧しいままだった。


 文琵は少しだけ早歩きで庭園をわたり、目当ての亭子あずまやに腰をおろした。


 人気ひとけのない亭子は、つねに誰かの目がある宮中ではめったにない快適な場所だ。


 文琵はふと懐から、尚服しょうふくから「次に縫ってもらいたいものがあるのだけれど」と手渡された図案をとりだす。


 そして、そっと広げると空へ向かってかざした。


 ひかりに透けた紙から、鮮麗せんれい刺繍ししゅうと、その輪郭の淡紅たんこうが脳裏で浮かびあがる瞬間。


 彼女の至福の時間だった。


 今度の刺繍は、中秋節のおわり、後夜に開かれる酒の宴で皇族が召す上衣下裳じょういかしょうの礼服だ。


 皇族をあらわす、龍。


 金とあか、銀とあお、そしてみどり。彩とりどりの糸を使って縫えば、そうとう美しいものになるはずだ。


「楽しみ……」

「なあ、そこのお前」

「ひっ――!」


 鶴の声のように、どこかなめらかさを残した声。


 図案を落としそうになって、あわててつかんで腕で抱き留める。足ががくがくしている。


 あぶないっ。ぎりぎり、だ。


 耳の内から拍動が聞こえる。顳顬こめかみがぱくぱく動いている。


 指先がびりりと痺れる。それよりも、文琵にとっては心臓のほうがあぶなかった。


「おお、大丈夫か?」


 冷や汗をかきながら振りかえると、先よりもいささか近づいた位置に仙が立っている。


 なぜここに? 文琵は口をついて出そうになった言葉を飲み下す。


 考えてみるものの皆目見当もつかず、ただうるさく耳の奥から拍動が聞こえてくるだけだった。


「な、な、なんでしょうかっ!」

「いや、いつもお前ここにいるよね。何してんの?」

「へ?」

「ふーん、女官じゃなさそうだしな」


 だってその恰好、どこにも所属してないだろ? だとすれば、今の貴賓候補の付き添いか?


 勝手に話をすすめられている。


 けれども現実味がなく、話を訂正するまで気が回らず、ただぼおっと彼を見ていた。


「ちがうの?」


 ぴくり、と彼の片眉が動く。


 美丈夫の顔面が怒るかのように歪んで見えて、文琵はあわてて首を縦に振った。


「えっ!? あ、え、はい、そうです!」

「だよな」


 にっこりと笑われて、喉から変な音がでた。


 まぶしい。まぶしすぎる。

 なんで存在しているだけでこんなに輝いてみえるんだろうかこのひとは。


 これも恋のせい? 誰か教えてください。


 ――なんて、心で叫んでみても、目の前に彼がいることは文琵が願ってもみなかった現実だ。


 仙は普通の顔をして亭子の長椅子に腰かけ、いまだぎゅうと図案を握りしめている文琵にむかって微笑みかけた。


「ここ、座って」


 そう告げられ、彼の座るところの隣を示される。


 女官に向ける笑みではないだろう、やわらかい笑みが、再び矢が打たれるように文琵の胸にささる。


 おろおろ。どきどき。


 これは現実ではないのではないかと、手の甲をつねってみても普通に痛くて涙がでる。


 涙目になっていると、仙が怪訝を面にうかべたのであわてて心構えができないままに腰をおろした。


 手のひらに熱い汗を握りしめながら隣に座ると、自然に距離をつめられて同時に息もつまる。


 衣に焚いた香の薫りが、するりと鼻腔をすべっていく。


「なあ、ちょっと話しない?」

 仙が、婉然えんぜんとした笑みをうすらと唇にうかべる。


「え?」

「気になってたんだよね」


 ――お前のこと。


 そう告げて眦を緩め、愉しそうに紅で引かれた図案を覗き込んだ仙の隣で、文琵はぎゅうと胸の衣を抑えた。



 ああ、わたくしに春が来るのでしょうか。


 いや、その前にわたくしの心臓が限界をむかえて死んでしまいそうです、どうしましょう。




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