露楊からの頼み


 安堵と疲労で、へらへらと床へと膝を折って座りこむと同時に、窓の外に人影が見えた。


 その後、ドンドンドン! と乱暴に窓を叩かれる。急ぎの用なのだろうか。


 冰遥ヒョウヨウは重い脚を引きずり、窓の近くへと近寄る。


 見慣れた輪郭が見えた。


 ここまでにすらりとした体躯たいくの持ち主を、冰遥は露楊ロウヤン以外に知らぬ。


 慌ててほどけた髪を簪で結わえ直し、窓を開く。


 すぐそばに庭園の隣接した冰遥の住まう翡翠宮だが、貴宮たかみやからたずねられることはあれど、庭園からたずねられたことはなかった。


 ああ、ついに来てしまったか、と冰遥は思った。


 火邪かじゃに侵され、水沫すいまつを被ったように顔面から汗が噴きだし、目は充血し腫れている。

 なにより、彼女は泣いていた。


「お話を」

「……ええ、どうぞおあがりください」


 苦しそうだ。


 堪えきれなかった涙がしきりに頬を濡らし、嚙みしめたせいで顎が強く強張っている。

 拳は酷く握りこまれていて、真っ白になっていた。


 紅潮こうちょうした頬に墨の髪が一筋張りついて、ぜえぜえと苦しそうに息をしている。ここまで走ってきたのだろうか。


「とりあえず、水を用意しますね。息を整えなければ」

「ありがとうございます……」


 窓を下まで開き、室に招く。


 窓から招くのは、とんだ無調法者ぶちょうほうものだと叱られそうだが、致し方ない、方法がないのだ。


 室の隅に隠しておいた水瓶みずがめに、白磁の柄杓をつっこんで水呑コップに水をそそぐ。


 露楊は水呑を受け取ると、一気に飲み干した。


「お話の先に、一先ひとまず快く承諾願いたいことがございます」


 安直あんちょくで、素直な幼な心が歪み、車軸しゃじくを流すような涙が降るように。


 黒目の奥に、朝凪あさなぎにたゆたう水面によく似た動揺が見える。


 怨嗟えんさしようにもできぬ、本有ほんゆうのままに咆哮ほうこうすることもできぬ。


 皇族のむすめだ。


 焦る本能も身に押しくくみ、哀しみをたんずることも、かおりに酔いしれ華に遊ぶこともできぬ。


 幼な心のころに、凍てつく他方法のなかった。さながら、炎でありながらこおりに転じる瞳だ。


「どうか、苦しむ兄をお助け願いたい」





「兄が、今朝より床に臥せています。是が非でもお救い願いたいのです」

「なぜ、わたくしに」


 具合が優れず身にやまいがあるならば医、心身ともに健やかならぬならやく、ひとの心情に寄り添い疫病やくびょうに耐えるなら看。


 三つの学で、医療は保たれている。


 床に臥せているのなら、冰遥ではなく医官に事を知らせるのが先ではないのか。


 露楊は腹をくくったように深々と頭を下げた。


「……あねさまにしか、きっと解けぬものだと思います」


 解けぬ、と言ったか。


 やまいならば医官の範疇はんちゅうだ。それに右にでるものなどいないだろう。


 だが、と言ったのは、少し前に冰遥が察知した邪気に関わるものだというからなのか。


 かすかに片眉を上げた冰遥に、露楊は畳みかけるように口にする。


「姐さまは先日、気配がついた人に危険が迫ると言った。気になる気配があると。その前に兄に抱えられていた。それは……兄に、なにか危険が迫っているのが見えたのではないのですか」


 不思議なほどに、勘が鋭いむすめだと、冰遥は思う。


 自分が把握していない状況を推理し、裏づける証があってこうして行動にうつしてくる。


 教養深く、頭の切れるかしこいむすめだ。これでは、冰遥でもそうそう敵わないだろう。


「……ええ。そうです」

「ならば、私の兄を救ってはいただけませんか」


 快諾する理由はなくとも、断る理由もなかった。


 そもそも、彼についた邪気を追い、の居場所を特定しようと目論んでいたのはこちらだ。


 冰遥は苦実をきっしたように唇をひしげひき結ぶ。


 予定が、あらかじめ心に決めた道筋が、少しだけ外れただけだ。


 いずれ起こらんとしていたこと。それが今になり現れただけ。


 天地がひずんだわけでもない、空が罅割ひびわれたわけでもない、どぶから龍が生まれることもない。


 運命の互い違いが生まれたわけでもない。


 ――そう、安心させるように唱えてみるが、冰遥の胸はざらりとやかましかった。


 偶然に生まれたひずみは、抗えぬまま身を滅ぼしにやってくることをよく知っている。


 それがいつの日にか呪いとなり、因縁と転ずることも。


「分かりました。今すぐに準備します」


 簪が、妖しく赤紫に光った。


 その骨身ほねみ肉叢ししむらに脈づく炎が燃えたぎる。


 だが、苦しんでいる人がいる以上、因縁をおそれて風のごとく通ることはできない。

 それは、愚鈍ぐどんのすることだ。

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