術の原点にして頂点


 冰遥は庖厨くりやの掃除を終わらせると、前垂れを外して女官たちに去ることを知らせ、足早に翡翠宮へと戻った。


 秋はうららかである。


 枝垂桜しだれざくら、紅梅に満ち、馥郁ふくいくたる香りに寄せられ蝶の舞う様の美しい春にも負けぬ穏やかなる絶景。


 蝋梅ろうばい桂花キンモクセイ、足元には桔梗が小さな花をつけ、風に泳いでいる。


 見渡した先の庭園には、大空を映す清らかな池がある。うす桃の睡蓮が咲き乱れ、ぴちゃりと鯉が泳ぐ。


 青色の水を泳ぐ、彩もまばらな鯉の尾鰭おびれまで見え透いてしまう透徹とうてつな池だ。

 ふと傍にある水亭すいていを見ると、妃妾ひしょう付であろう女官たちがたむろして笑っていた。


 穏やかな、秋の日。

 のどかな鳥の鳴き声が聞こえ、人々のかすかな話声が聞こえる日。


 だから、変なのだ。


 今は試験の真っただ中。群舞に、剣舞に、楽器の演奏、装飾に裁縫。たしかに忙しいはずの日である。


 なのに——冰遥と同じ中級妃候補の誰も、翡翠宮には見当たらない。


 冰遥は突然ふきつけた寒風に身を震わすと、こうべを振って、つい止まった足を早めた。



 室に帰ると、部屋が汚されていた。


 家具はすべてひっくり返される勢いで転がっており、滅茶苦茶にされた棚から小物がこぼれている。


 こぼれた反物たんものやら佩玉はいぎょくが、まるで、棚が彩を吐きだしているようだ。


 ここ最近にして、嫌がらせを受けている。


 悪口を言われたり、足をかけられたりしたのだが、冰遥はじっと反応せずに堪えていた。


 いじめ甲斐があるからいじめられるのだ。


 ひとの心理なるものはそういうものだ。


 ついこの前は、楽器の演奏をして疲れているところに、にこにこと近寄ってきて水をかけられた。


 ぽたぽたと滴る水。


 予想外の展開に、動けない冰遥に女人たちは、

「濡れ鼠ね、けがらわしい。さっさと田舎にお帰り」

 と嘲笑ちょうしょうした。


 冰遥はひとつ歎息たんそくする。


 化粧台から吐きだされて惨めに転がっている簪を手にとって、指をまわし、息をふぅっと吹きかけた。


 瞬く間に煙がたち、ぶわっとくすぶる。


 パチパチと火花がとぶ。


 術を使えば、彼女の気を重くする途方もない片づけでさえ、容易に終わる。


 少しばかり力を借りて、この作業を終わらせてしまおうと煙立った玉に触れたところで、異変に気づいた。


 ——転瞬てんしゅん、芍薬が破蕾はらいし、ぶるりと咲き広がるように、金緑石から炎が立ちあがる。


 玉が、深緑から赤紫へとぐゆりと色が変わり、栴檀せんだんの花のような楝色おうちいろをたたえた炎を纏う。


 混沌とした空間に、無二の奇々怪々ききかいかいたる彩が浮かびあがる。


 それはよく見慣れた彩で、彼女の体、その身に宿る彩でもあった。


 ――ああ。


 金となり黄に紅藍べにばなほむらとなり赤に芍薬、水となり青にあさがお、土となり緑に欝金香チューリップ、毒となり紫にトリカブト


 四季折々。

 雨から水を、大地から土の脈を、太陽より焔を、人の情に触れ毒となる花々こそ、術の形である。


 すべての金、焔、水、土、毒は火から転じたものだ。


 火花を散らす蕾は火となり、咲き綻んだ先に炎となる。

 炎は石に転じ、石はこおりに転じ、冰はいずれ毒となる。


 花々に飽き足らず、術は草や木、生命をもつものすべてを網羅してその力を吸収してきた。


 術の原点にして頂点。万物を覆い、燃やし、生命のすべてをまもる火。


 冰遥の身に宿った火の花が、今、数年の時を経て折れかかったくびを持ちあげ、ぶるりと身を震わせた。


 ――ああ。


 元来より、邪術はこの火にして術となる。

 冰遥は簪を握りしめて、その火を見入るようにして見つめた。


 煙などではなく、この火より術とすること。


 煙は転じて火となる。術を久しく繰ることがなかったために、煙ばかりでその火となることがなかったのだ。


 ――いつから、煙ばかりで、火で術になると忘れていたのかしら。


 腹の底で燃えたぎる、火の脈動を大いに感じながら、冰遥はふと立ちあがった。


 火はいずれにも転じることができる。

 火からこおり、風、木、かくして天空と大地。


 すべての源。


 邪術をつかう上での、多大なる成份せいぶんを補う、世のはじめから終わりを象徴するもの。


 冰遥は火に手をあてて包むように掌を閉じると——息を吹きかけた。



 ぶおぉっ——と、火が火力を増し炎へと転ずる。


 その炎は一気に勢いを増して室をすべて包みこむ。熱さも痛さも感じない。


 炎ではあれど、これは抽象にすぎないためだ。


 冰遥は大きくなった炎を胸に抱えると、手を叩くように、一気に——炎を消した。


 室を覆っていた炎がじゅるるると姿を消し、目に眩しい光も見えなくなる。


 ことん。


 簪が床に落ちた。


 瞠目どうもくした冰遥が室を見わたすと、文琵が整頓した姿のまま依然として綺麗になっていた。


 ふ、と人知れずため息がもれる。


 心臓はばこんばこん跳ねかえって、四肢に広がるようにじわじわとぬくもりに似たなにかが広がってゆく。


 とてつもない疲労だ。

 でもなんだか、嬉しい気持ちを抱き冰遥は簪をひろう。


 ――ついに戻ってきた。


 邪術の原点にして、頂点。身に宿した力、すべてのいきつく先へ。


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