おい、悪女


 翡翠宮は、朝から大忙しだ。


 もっと詳しく言うのなら、翡翠宮に一時的に住まう女人たちの、身支度が、だが。


 女人たちはおのれをもっとも綺麗に見せようと、髪を高く結わえてそこに金の簪をさす。


 鏡台の前で白粉をはたき、今日着る襦裙をどれにしようかと朝から半刻※一時間も悩む。


 襦は、珍しい紫がかった青色の青藍せいらん綸子りんずにしようか。その上から薄絹のひとえを羽織れば、ふわりとして美しいだろう。


 裙は、上から紗を三枚ほど重ねれば、彩合いも美しく着られる。――と、半刻も毎朝考えているのだ。


 豪華でさえいればよいという貴族の嗜好があらわれる襦裙だが、冰遥はまったく興味がなかったので、文琵に用意されたものを適当に着ていた。


 髪は簪以外あまり好まなかったが、最近になって簪よりも髪がほどけにくいこうがいが好きになった。


 空中に舞うほど激しく舞っていたら、笄の方が使い勝手がよいことに気がついたのだ。


 さて、冰遥たち妃候補にかされた課題のうち、<楽器>がまだ残っている。


 今回の試験は、玉嬪のように評価するのではなく、舞をする際の音楽をみなで演奏するらしい。


 残り半月もない猶予に、女人たちは焦る様子もなくのんきに室で茶をたしなんでいるが、冰遥だけは中庭でひとり練習していた。


 貴族の教養にくらべたら、彼女のものは大層貧弱なものだった。


 筆記の試験があれば常に真ん中か下の方であったし、嫌味を言われてもかえす言葉がなかった。


 そのたびに、悔しく情けない思いをしてきた。


 それに――後宮にかならず、残らなくてはいけないのだ。そのため、一生懸命のごとく、ほとばしるような熱情で練習に励んでいた。


 だが、そんな冰遥をいやしめるように見て、嘲り笑うものは少なくない。


「あらまあ可哀想に。あんなにみずぼらしく汗を流して。溝鼠のようで、そりがあわないのですから困ってしまいますわ」


 縦笛をまろやかに奏で、締め太鼓をたたき、ばちを回して優雅に移動する。


 それはさながら剣舞のように鮮やかで、ゆらめく漆黒の衣装でさえ熾烈に咲き綻ぶ黒い花金鳳花※ラナンキュラスに見えた。


 目をほそめて冰遥のことを凝視しながら、指甲套しこうとうの手入れをする。


 中庭の見える室に、六人ほどの女人が集まっていた。


 いずれも高貴な貴族のむすめたちである。


「そうですわ。わたくしたちに、泥をすすって生きてきたような彼女が敵うはずないものを」

「うふふふふ! 朴念仁わからずやにはしかと分からせてあげないといけませんね」


 剣呑な笑みをうかべる女人。


 ほかの四人も、お互いに顔を見あわせて柔和の一片も感じない、危険な笑みをうかべる。


「あら姉さん、考えがおありで?」

「もちろんです。うふふふふ」


 ちらり、と杷雅はがが冰遥のことを見やる。彼女は誰の視線にも気がつかず、一心不乱に演奏をつづけている。


「潰すにはいい案があるのよ」

「物騒ですわね」

「あら、あなたたちもそうではなくって?」


 杷雅の一言に眉をしかめた女人に、爛美らんびもにやりと笑う。


 痛いところをつかれた女人が居心地のわるそうに身をかすかによじると、愉快そうに杷雅が笑った。


「わたくしたちが上だと、しっかり分からせてあげないとね……ふふっ」


 金目の毒蛇のような、凍てついた笑みだった。




「冰遥さま、すっごく綺麗です! これなら、美しくて皿にも映えますよ!」


 興奮ぎみに冰遥の盛りつけた皿を見つめて、女官がうわずった声で称賛を口にする。


 冰遥はぎゅっと両手を握りしめてはっと瞠目どうもくする。驚きと喜びを隠しきれない様子で女官に訊いた。


「……ほんとうに?」

「ですよね、尚食さま!」


 女官は笑顔で尚食に振りむいた。尚食は皿を熟視すると、ふっと口元に微笑みをもらした。


「んふふ。そうねぇ、このくらいなら尚食局でも上層で入れる実力でしょうね」


 やだ、そんな……。想像以上に褒められ、嬉しさに頬を紅潮させる冰遥に、女官が肩を抱く。


 包丁の扱いに慣れず、泣きながら切っていた冰遥を支えたのはこの女官だった。


「じゃあ、皇太子さまにも認めてもらうように、もっと完成度高めましょ!」

「うん、うん!」

「では、明日あすは当日に近い段取りで調理いたしましょうか」


 <装飾>も、段々と完成に近づいてきた。<舞>は露楊に細部の表現について教わっているところで、<裁縫>は提出する織物ももう完成してある。


 なにもかもが順調だ。


 しいて言えば――<楽器>はともに練習するものがいなく、当日を煩慮はんりょしているところだが。


「今まで色々とありがとうございました。中秋節まであと少し、それまでよろしくお願いいたします」


 両手を腹の前であわせ、尚食、そして女官たちへと深々と礼をする。


 女官たちはあわてて顔をあげるように駆け寄ったが、しばらく冰遥はその体勢のままだった。

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