覚悟をきめよ
――黑々、今すぐにでも殺したい相手がいるときはどうするのが適当かな。
常につけている母の形見である簪ではなく、
黑々の気配を感じて問いかけると、近くの木からなにかが滑りおちた音が聞こえた。
――急にどうしたんだよ、殺意でもわいたのか!?
――そうだと言ったらどうする?
珍しく焦ったように上ずった黑々の声にけらけらと笑いながら、冰遥は青緑色の
あまり華やかではない鏡台の丸鏡をのぞきこんで、冰遥は小筆を手にとり合子を開く。
なかには牡丹のような、鮮やかな
表面を筆で軽くなぞり、唇に筆先をそわせる。唇に、鮮やかな牡丹が花開くように彩りがあたえられる。
――理由があるのだろうな。
冰遥は顎に手をあてて考える。たまゆらそうしていたが、ふと顔をあげると黑々がいるであろう方向に顔をむけた。
――問いを変えよう。
冰遥は小筆を置き、合子を並べる。
――自分がこの上なく許せなくて、憎い相手がいる。それは大切なひとを傷つけ、術で殺そうとした輩だ。
黑々がなにか言いたげにしていたが、冰遥は話す隙をあたえずつづける。
――その輩を殺さなければ、大切なひとにかかった術がとけない。このとき、どうするべきか?
冰遥は黑々へと語りながら、とんでもない難題だと思った。
黑々は、冰遥がひとを殺すようなひとではないと知っている。だからこそ、なにが正解なのかどうか答えを求めることにした。
ひとを護るには、多少の犠牲はともなうもの。
だが、その犠牲が命となれば、また冰遥にとっては別の問題だ。
――进攻是最好的防御。
黑々はそう告げ、続けざまにひとつ嘆息すると長い尾をはためかせながら飛び去っていった。
鏡から顔をそむけ、窓から黑々の姿を
「进攻是最好的防御――攻撃は最大の防御なり。……それもそうね」
相手からの攻撃に耐えるのではなく、先に攻撃をすることにより、それが最大の防御になるだろう。
殺さなければ、殺される。
殺気だった相手にかける宥めの言も、自暴自棄になり剣を振るう士に効く薬もないことを、冰遥は知っている。
――姉さんは、必ず躘を苦しめにくる。死なのか、永遠の苦しみなのか。彼女の望むものは分からないけれど、それだけは明確よ。
躘のまわりにいるひとたちが、段々と呪われては死んでいる。
それが、なによりの証拠だった。
文琵から聞いた姉さんのあつかう術の特徴は、完全に邪術と一致していた。
邪術をつかえるものはある一家だけなので、近くとも遠くとも血の繋がりがあることになる。
冰遥にとっては、はじめてあらわれた血のつながった存在。
――わたくしは、姉さんを陥れなくてはいけない。
相手は血のつながった存在だ。
だが、同時に文琵を脅し、精神を病む直前にまで追い詰め、躘を調伏して殺そうとした相手なのだ。
許すことはできない。許されない。
血のつながった冰遥であるからこそ、その血縁の責任としても、彼女をとめなくてはいけないと思った。
――それは、わたくしのためでもある。
今さら、血のつながった父母の存在を突き止めようとは思わなかった。
だが、だからこそ、家族を知らない身だからこそ、血縁についての関心を失ってはいけないと思ったのだ。
相手はどこまで遠い親戚か分からないが、冰遥と同じ血が体内に流れていることになる。
冰遥は、躘が邪術にかけられたときもまだ、やはり胸中ではどこか「家族になりたい」と願っていた。
自分がおかれた都合のよい状況に、少なからず甘えていたのだ。
だが、今はそんな甘えなど一切ない。あるのは胸中に燃えさかる
――護らなくてはいけないひとを、護る。ともに生きるために。
いずれにしろ、冰遥は大切なひとを護るため、姉さんと関わることになるだろう。
その顛末には、自分たちを陥れようとした姉さんは罪を償うことになる。
それが果たして、皇室への謀反として大罪人となり死をもって罪を償うことになるのか、冰遥にはまったく分からない。
ただそれまでは、彼女と戦いつづけなくてはいけないことは、冰遥も分かっていた。
そしてそのために――なにがなんでも、後宮に入らなくてはいけないことも。
今度の試験で、後宮に妃として入るもの、女官となるもの、残念だがどちらにもなれないものが選抜される。
女官となれば、仕事に忙しく姉さんがなにかをしてもすぐに対応できなくなる。そのうえ文琵は家に帰されてしまうだろう。
王宮にのこれなかった場合は――考えるだけでも恐ろしい。
かならず、冰遥は
恋心を消すためでもなく、躘とともに生きるためだけでもなく。
――躘を、護るために。
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