美しい琵琶のこと・3


 扇動したいのかと錯覚するほどに、少女の笑みは婉然えんぜんとしていた。


 だが、少女は触れればそろりとこぼれるような胡乱うろんを内包していた。――年相応と思えぬ、勇ましさとともに。


「どうするんだ、お前?」


 挑発的でありながら、その目の奥底を彩るのは深い慈しみの色だった。


 まるで――彼女が想う前に忘れてしまった――家族のような、そんな、あたたかい視線だった。


「……ついていっても、いいんだな?」


 顔色をうかがうように見上げると、羅綾らりょうを纏った華の貌が、桜が咲き綻ぶように笑みを見せた。


「あたいがいぶかしくないなら、な」

「……さっきのは失礼したよ」

「ふふふ、いじらしくてかわいい子」


 少女は再びかがみこむと、つやも失った一楽織いちらくおりを纏う小さな肩に披帛ひはくをかけた。


 ただでさえ高級な披帛は、みずぼらしい恰好にはいっとう不釣り合いだった。


 泥や砂で薄汚れた彼女の腕をつかみ立ちあがらせると、少女は今までになくやさしい笑みをうかべて言った。


「あなたのことは、わたくしが守るから」

「――?」


 ただ、明涼国のことばでつぶやかれたそれは、彼女のなかに残ることはなかった。



 多年生活をともにすると決めたときに、彼女を拾った少女は、彼女に名をさずけた。


 美しく、上品な音を奏でる琵琶のようでありなさい――そう、想いをこめて。


 文琵は、後宮へ入ると決めた冰遥についていった先にて、多くの友人をもつことができた。


 かおはなに蝶が舞い寄るように、文琵のもとには優しいひとが次々と訪れた。


 だが彼女の畢生ひっせいにおいて、幸せは苦痛とともにおとずれるものだ。


 良いひとが彼女に惹かれるのならば、逆もまた然り。なるべくして、彼女のもとに――姉さんが訪れたのだ。


 あのころよりもさらに――美しくなって。


 会うまでは、もう姉さんのことさえ忘れていた文琵であったが、再会した途端に老婆の顔を思いだした。


 口を半開きにして、首に赤黒い跡をつけて死んでいた老婆。


 そして、老婆が死んでいた日の姉さんの――晴れ晴れとした笑顔。


 再会したとき、畏れに動けない文琵の耳元に唇をよせ、ささやいたのは、やはり凍てついた鈴のような響きのある声だった。


 ――「あんたは、絶対にあたしから逃げられないんだから」。


 文琵は、冰遥の存在について口を閉ざした。


 肌に痣ができるほどぶたれても、姉さんにかけられた術により血をはくようになっても、彼女は冰遥について問われても決して答えなかった。


 ――だって、冰遥さまをわたくしの因縁に招きたくはないから!


 姉さんは事あるごとに文琵を脅し、人道に反する行為を強要した。


 そのたびに文琵は胸中でぶわりと燃える火を嚥下するように唇を噛みしめ、耐えて、姉さんに抵抗することなく従った。


 姉さんがその気になれば、冰遥のことを呪殺することなど易いことだと知っていたからだ。



「でも、姉さんに最後の頼みをたまわりました」


 そう述懐じゅっかいする文琵の全身からは汗がふきだし、はららと小刻みに震えていた。


 心底に積もったおりが、姉さんを追想すると澎湃と湧きあがる恐怖に交わり、濁りをあげる。


 こめかみを濡らす汗をぬぐい、文琵はすがりつくように、主人の腕に五指を食いこませた。


 あふれる涙をとめる蓋がないのか、川の上流から下流へと水がながれるように頬が濡れてゆく。


「おっ、お許しください! お許しくださいませ冰遥さま、不甲斐ないわたくしのことを、わたくしを、どうか捨てることだけは――」

「文琵!」


 また自我を見失い、錯乱の泥へと沈みこもうとしていた文琵の意識が、冰遥の凛とした声に引き戻される。


 琴のような、乱れることのない音。


「話の途中よ」

「あ……申し訳ありません、冰遥さま」


 文琵は息をはくのと同じように謝罪を口からもらした。冰遥が渋面をうかべた。


 涙をぬぐおうと袖を目元にもっていくと、冰遥がその手をゆっくりとおろし、ふわりと抱きしめた。



 ――夜来香の、清香がした。


 強張っていた筋肉が、とろりとほどけていく。


「大丈夫、文琵。大丈夫よ」

「冰遥さま……」

「なにがあろうとも、わたくしは大丈夫だし、あなたも大丈夫。わたくしが守るからね」


 やさしい声に、また泣きそうになった。


 ぐすりと鼻を鳴らすと、左耳のうしろで冰遥がふふ、と笑った。


「ゆっくり、ゆっくりでいいから」

「ゆっくり……」

「そう。無理はしないでね」

「無理はしない……」


 冰遥の言をたどり、また繰りかえす。そうすることで、不規則に粗かった脈拍が、ゆったりと落ち着くのが分かった。


 じっとりと手汗で湿った手のひらを握りしめ、文琵はひき結んでいた唇をやおら解いた。


 その瞳は生気をなくしたように昏かった。


「冰遥さまのことを、姉さんに知られました。それで、姉さんはわたしに最後の頼みだと言って、あることを要求してきたのです」


 文琵は憂きことを目からあふれさせて、青くなった唇を噛んだ。


「――呪殺の根源を、持ってこい、と」


 彼女が奇しくも術をたくみに扱うと文琵から聞いた。


 冰遥の直感が、文琵の知るこそが躘を調伏した兇徒きょうとであり、卜占をし妖しい術を繰る巫覡ふげきであると訴えていた。


 躘を殺すのが目的ならば、文琵の後ろにつき、躘を守るわたくしの存在は邪魔に思うかもしれないわね――と冰遥は思う。


「それで、わたくしは……」


 天の川の星々の瞬きを飲んだのか、文琵の声が柔弱に震えている。


「渡してしまったのです。根源を……」

「……そう」


 呪いの根源は、そのひとの気配や影の染みついたものが適切だ。


 忠誠のあかしをわたしたときの違和感――あれは、布を呪いの根源としようとしていたのか。


 そうなれば、近々冰遥は呪殺されるだろう。奇しい術により、その身を滅ぼされてゆくのだ。


 ――でも、とくには。


 彼女にとって、誰かからかけられる術というのは、とくには恐ろしい存在ではなかった。


 それよりも、彼女にとって恐ろしかったのは――文琵が罪悪の意識から心を病むことであり、躘が術から解放されずに一生を過ごすことだった。


「文琵、大丈夫よ」


 仕草に戸惑いをのぞかせた文琵が、顔色をうかがうように冰遥を見上げる。


「大丈夫、なのですか……」

「ええ。なにも問題はないわ」


 そう告げ、文琵をいたわる冰遥はやさしい。


 だが、どこかその表情には他なる想いが隠れているような気がしてならない。


 まるで――激しい怒り、のような。


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