美しい琵琶のこと・2


 老婆は目をかっぴらいて死んでいた。


 肌は生きているときよりも一層青白くなり、生きているような心地がない。それはそうだ、死んでいるのだから。


 首に一本、赤黒い筋がうかんでいて、すぐそばに太めの首飾りが落ちていた。


 触るたびにじゃらりと音のする、玉を数珠繋ぎにした首飾り。


 老婆の首にいつも光っていた、勾玉つきの首飾りだった。


 


 唖然として、ひとが目の前で死んでいるという事実に腰をぬかした彼女のもとへ、笑顔の姉さんが寄ってきた。


「ありがとうね。あんたのおかげでこいつを早々に殺せたよ」


 その日の朝も、変わらず姉さんは綺麗だった。


 恐ろしいほどに綺麗だった。肌つやも申し分なく、髪はまっすぐに結われていた。


 自分の育ての親を殺したようには見えなかった。


 あまつさえ、喜びをかみしめているようだった。


「本当に、あんたがいてくれて助かったさ」


 悪びれる様子もなく言う姉さんに、はじめて彼女は恐ろしさを、身の危機を感じるほどの脅威を感じた。


 それは幼い彼女のこころを壊すには充分だった。


 今までかろうじて形を保っていた心のどこかが、破綻する音がした。


 彼女はしばらく姉さんの支配下にいたが、その間にも姉さんの隙を見て逃亡を図った。


 だがすぐに見つかり、その時はひどくぶたれた。


 それを数回繰りかえし、彼女は姉さんのもとから逃げようとするのをやめた。あきらめたともいう。


 しばらく姉さんの逆鱗にふれることもなく穏便に過ごしていたのだが、ある時ふと目を覚ますとそこは家ではなかった。


 道端に、彼女は眠っていた。


 そこは知らない国の言語が飛びかう市場の外れで、彼女は自分がおかれた状況を唐突に理解した。


 ――また、捨てられた。


 絶望というより、姉さんから逃げられたという喜びが勝った。


 やっと、わたしはあのひとから逃げられたんだ。

 もう、苦しまなくてもいいんだ──!


 そう喜びにあふれる彼女が立ち上がると、なにかが音を立てて落ちた。


 膝にのせられていたのか、じゃらりと軽い音がなる。


 彼女は不思議に思って、音の主を探した。


 足元を見ると、勾玉つきの首飾りが落ちていた。


「──!」


 いつの日か、老婆を殺したそれだった。


 じゃらりとした音は、青白い老婆の顔を彷彿とさせる。


 恐ろしさに身動きできないでいると、首飾りが勝手に宙にういた。


 ふゆふゆと浮きあがり、彼女の首のあたりを動いている。現実味のおびない光景に、彼女は抵抗もせずそれを見ていた。


 姉さんの低い声が、耳元で聞こえてくる。


──「あんたは、絶対にあたしから逃げられないんだから」


 体の震えが止まらなかった。


 姉さんは奇妙な術をつかって、よく彼女をぶった。そのときに、いつも聞かせられた暴言にそんな言葉があった。


 ──ああ。


 彼女は、一瞬にして、すべてを悟った。


 彼女は捨てられたのではない。都合のいい駒として、放り投げられただけだ。


 彼女の術がおよぶ範囲で泳がされ、好きなように使われる。


 そして挙げ句には、きっと、老婆のように殺される。


 ──姉さんからの伝言なのだ、この首飾りは。


 ──姉さんを忘れるなという、念押しの伝言なのだ。


 彼女は震える指先で、宙を浮遊している首飾りを拾った。


 じゃらり。変わらぬ音がする。


 きっと、姉さんと彼女の関係も変わらない。──この首飾りの音が、一音として変わらぬ限りは。


 彼女が絶望になげき、声も出せずに苦しみにうずくまっていたとき。


「どうしたの、あなた?」

「──?」


 琴のような、可憐な声が彼女へとかけられた。彼女にとっては、馴染みのない知らぬ国の言葉だ。


 顔をあげると、そこにはうら若い少女が立っていた。


 美しい絹を身に纏い、なめらかな髪を簪で結わえている。


 笄年けいねんをむかえたばかりだろうか、美しい白銀をおびた紫の眼睛がんせいが華やかなかんばせの少女だった。


 淡い色にそまった披帛ひはくの長裾を手でからめながら、少女は彼女と視線をあわせるためにしゃがみこむ。


 彼女はびっくりして、ずりりと後退りした。


「来るな、穢れもの!」

「……なんて、言葉なの」


 知っている罵倒の言葉を声のままに叫ぶが、久しく出すことのなかった声はあたりに寂しく沈むだけだった。


 少女は目を見開いて憐みの目をむけると、ふるりと睫毛を細かくふるわせた。


 夜の露が落ちるように、細かく瞬きをした少女は、ふとあたりを見渡すと声をひそめた。


「おまえ、炎尾国の子だろう」


 聞きなれた、炎尾国の言葉だった。


 彼女の前を通りすぎる人々はみな知らぬ言語をつかっていた。なのに、なぜこのひとは言葉が同じなのだ──?


 ――姉さんと同じ、紫の目。雪のような肌に、美しい貌。


 彼女にとって、であることは、危険に値することだった。


 不審に思う気持ちを隠そうとせず、警戒心を剥きだしにして彼女は少女を睨みつけ、うなる。


 それは野生のいのししのようだったし、獰猛な狼にもよく似ていた。


 彼女の態度に驚いた様子も見せず、少女はじっと彼女の顔を見つめた。


 青い白銀を帯びた眼睛がんせいが、夜をまとったかのように深い紫色をたたえて彼女を見る。


 しばらく、二人は睨みあっていた。


「あたいのもとへ来な、そのままじゃあ危険だ」

「おぬしは誰なのだ」


 信頼できないひとへ、ついていくことはできない。


 彼女は外の世のことなど何も知らない。けれども、人が信頼できるかどうかだけは、よく見分けられる自信があった。


「どこのむすめなのか、名も名乗らず、いぶかしいことこの上ない!」


 お前が名を名乗らず、わたしを連れていこうとする限りは抵抗する。


 態度でそれを示すと、少女はふっと目のあたりの緊張を緩め立ちあがった。


「どこのむすめか、と聞いたか」


 つややかな丹唇が引きあげられる。


 口元にうかべたのは、なにかを諦めたときの表情によく似た微笑だった。



――「あたいも知らない。あんたと一緒さ」


 挑発的な視線が、彼女にむけられた。



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