美しい琵琶のこと・1


 彼女は、遠くはなれた山間に捨てられた。


 もう口をきけるようにもなる年だったが、彼女はきけなかった。


 否、本当ならきけたのだが、口を開けばぶたれたので話そうとしなかったのだ。


 やせた体に布の端切れのような服を着せられ、馬に乗った父の背中におわれて山間まで移動した。


 特定の位置につくと、父は彼女のことを地面におろすと、馬を走らせ何も言わずに立ち去っていった。


 それが、彼女が覚えている最後の父の記憶だ。母は彼女を産んでまもなく変死した。


 彼女はしばらくそこに佇んでいたが、馬の足音が聞こえなくなって、あたりが暗くなったころに自分が捨てられたと理解した。


 彼女は涙を流すまいとしながら歩き始めた。


 夜ならば、外に獣はいるが警戒心が強く襲ってくることはない。


 それに、暗闇を歩いているとどこかの家屋に灯る火や明かりによく気づけるから好都合だった。


 彼女は歩きつづけた。


 ただ下を見て歩いていたが時おり、思いだしたようにふと空を見上げた。そのたびに、頬を涙がつたっていった。


 まばゆい朝がきて、また世界を包むほどに暗い夜がきて――。


 それを何度が繰りかえしたころには、もう山間というよりも麓の方へと出てきていた。


 だが、幼い彼女の体には負担が大きく辛い数日間だったのだろう。


 彼女が急な勾配の坂を駆け下り、はじめて目にした家屋をすがる思いで訪ねたころには、彼女は少女というには痛々しい姿にまでなっていた。


 彼女が訪ねた家にはむすめが一人と、ひとりの老婆が住んでいた。


 むすめは彼女のことをいたく気に入り、家がなく親に捨てられたのだと語る彼女を家に住まわせるように老婆へ頼んだ。


 家主の老婆はそれを承諾すると「働いた者には飯をやるんだからね」というだけで彼女に必要以上の干渉をしなかった。


 それから、彼女は黙って課された仕事をこなした。


 血のつながった親のいる家にいるときよりもひどい扱いを受けている自覚はあったが、せっかく死ぬ思いをして辿り着いた家だ。


 ここから逃げ出す勇気も気力も残っていなかった。


 彼女を気に入ったむすめは、おのれを姉さんと呼ぶことを彼女に強要した。


 はじめは懐疑的な目で見ることもなく普通に姉さんと呼んでいたが、段々と強要されることが増えていった。


 わたしの言うことには従うこと。

 なにをされても抵抗しないこと。

 ババアには内緒にすること。

 これからは口をきかないこと。


 それは段々と彼女の生活にまで制限をかけるようになっていった。


 論理的な部分を疑うことも多くあったが、彼女を拾ってくれて家にいられるようにしてくれたのは姉さんなのだ。


 ――姉さんの言うことは、絶対だから。


 そう言い聞かせて、彼女は時を過ごしていた。


 その日々は地獄だった。彼女は改めて考えてみて思う。


 彼女は、姉さんにとっては人間ではなくて、都合のいい奴隷のような存在であって、それ相応の扱いをされていたのだと。


 ある時、ふと彼女は気がついた。ああ、わたしは奴隷なんだ、と。


 だが気づいていても行動に移せるか、抵抗できるかは別の問題だ。


 彼女は抵抗もしないまま、数日間まともにご飯も食べないまま仕事をすることもざらだった。


 おかしいといえばそうだった。


 だが、おかしいという事実を認知できなくするくらいには、幼い彼女にとっては残酷な生活だった。


 彼女は黙って耐えていたが、ある日寝込んでいる姉さんを横目に老婆がふとつぶやいた言葉で人生が動きはじめた。


 老婆は、咳きこんでいる姉さんの声に被せるように、小声で彼女に話した。


 あんたはよく働いて、生意気な口も利かない。すごく役に立っていて気に入っている。


 子どもには分からない単語も多かったが、彼女はしっかりと話の趣旨を理解した。


 老婆は彼女のことを褒めていた。


 だが、問題はそこからだった。


「お前に、仕事をやる。ちゃんとやれたら、一生ここに住まわせてやる。……さあ、やるかい?」


 なんだか怪しげな提案だった。


 けれども彼女は、老婆が言った「一生ここに住まわせてやる」という言葉しか耳に入っていなかった。


 彼女は二つ返事で快諾したが、次ににたついた老婆から放たれたのは意外な言葉だった。


「あのむすめを殺すか、誰もいないところへと連れていけ」


 ひゅっと畏怖からか、声にならない息が喉を通った。


 ――できない、できない! わたしにはできない! 姉さんは絶対だから、姉さんは絶対だから!


 そんな思考で頭がうめつくされる。


 彼女を拾ったのは姉さん。住まわせてくれたのも姉さん。わたしに仕事の仕方を教えてくれたのも姉さん。


 すべて、姉さんのおかげ。


「考えておくといいさ」


 老婆は特に返事を急いでいる様子はなかった。


 そのあたかも今の提案を気にしていないような姿を見て、彼女は思った。


 もしかしたらこれはそこまで深刻な問題ではないのかもしれない、と。彼女は誤謬ごびゅうを犯した。


 特に口止めもされなかったため、彼女は姉さんにこのことを相談した。


 彼女にとって、世界のすべては姉さんであったし、姉さんにすべてをさらけ出すのが最善だと思っていたからだ。


 相談したときの姉さんの顔を、彼女は鮮明に覚えている。


 目が狐のように吊り上がって、うつくしい面には不釣りあいだったこと。


 顎が外側に大きく張り出して、歯を食いしばったときのようになっていて、顔がほんのり赤黒く染まっていったこと。


 なにより、顔が痙攣したように震えていた。


 その顔は見るだけで恐ろしくて、また殴られると彼女は構えたがいつになっても拳が振り落とされることはなかった。


 その代わり、あたたかい手が彼女の髪を撫でた。


「言ってくれてありがとうね」


 姉さんは今まで見たことがないやさしい顔で言った。


 彼女は姉さんの紫色の目をのぞきこんで、そこに怒りがないことを確認して安堵のため息をもらした。


 その日の姉さんは妙に笑顔だったし優しかった。


 翌朝、挨拶をするために老婆のところへ彼女がいくと。



 ――老婆は冷たくなっていた。


 その代わりとも言おうか、枕元で眠そうに目をこすっていた姉さんは――はじけるような笑みをたたえいていた。

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