涙のわけ


 露楊は、提案に驚き弟子にわけを尋ねた。


 舞の名手で、皇族ともあろう少女がひとりで屋敷を抜けだすなど、できないことはないが危険だからだ。


 闇市では、皇帝の血を少しでも引く女は高く取り引きされる。少女の耳元で、言葉が妖しく蘇る。


 彼女はおのれという存在の影響を、しかと理解して人一倍強く警戒し、危惧していた。


 だから、わけをきいた。その返答次第で、いくか否かを判断するために。


 だが彼女の尋ねた相手はそのわけは教えなかった。


「こないのならば、別に構わない」


 そう冷たくあしらわれ、なにか覚悟をきめたような横顔を見せられると行きたくなるのが人のさが


 露楊も、普段は落ち着き払っているが、まだ好奇心の強い少女である。


 ぶすりと拗ねたことを顔で全面に表し、ふて腐れた声で言う。


「……行きますよ!」


 冰遥は、心の底から驚いてばっと振り返った。


「ともに、行ってくれるの?」


 私じゃ不満ですか。少女の心の声が、口からでなく全身から漏れている。


 いやそうではなくて。


 冰遥は弁解しようとしたが、意味のなさないお飾りになると気づき、口を閉じた。


 冰遥は、ただ彼女が夜に抜けだすのは困難なのだと知り、無理をさせぬようにした返事があれであっただけだが。


「それでは、私たちはどこに行くのですか?」


 単純に口の形を弧にしただけの顔をした露楊が、竹馬を片づけにきた官女に聞こえないよう、声量をしぼって話す。


 兄と違い、よく気の回る妹である。


 表情を変えていないのも、きっとそこから話の内容がいかなるものか悟られないようにするためだろう。


 女官選抜からここにきた冰遥には、そういう細やかな警戒ができない。


 だからこそ、よく頭の切れる師に歎美たんびする。


「どこに行くかは、分からない」


 伝承に伝わるきらびやかに輝く美しい玻璃はりが、あるとき一瞬にしてこわれたように――。


 艶やかな美しさの器のなかに、確かに今にも崩れてしまいそうな危うさもたたえ、瞬きの先で、冰遥が芍薬しゃくやくを見つめている。


 数多の外層をもってして、なおほれぼれするほどのうるわしさをなす女性の魅力を比喩したはな


「……はい?」


 露楊は、意味がわからないという語感をはらんだ素っ頓狂な声をあげてとなりに向いた。


 冰遥はいまだ読み取れない表情を変えず、芍薬を見つめたままだ。


 分からないですって? 彼女の戸惑いが、肌に触れる空気からひしひしと伝わってくる。


「少し、気になる気配があるの」


 彼女と仙には、冰遥のもつ邪術や術の気配について、簡単にではあるが説明をしている。


 露楊は一応形だけにうなづいたが、それが夜出かけることに接続できない様子だ。


「気配のついた人が危険だから気配のもとを確かめたい。だから今夜にでも出かければならないと思って」


 森の奥から、彼女にしたう奇妙な鳥の声が飛んでくる。口調が沙華に戻ってるな、そんなに不安か。


 黑々からの揶揄やゆをぬぐい去るようにごほんとわざとらしく咳ばらいをすると、となりの少女に向いた。


「だから、その人を救うために、そしてこれから犠牲になる人を救うためにも、今夜に出かけたい。……だめかしら?」


 確認など、わざわざしなくても分かりきっていた。


 彼女の舞の師匠であり、人一倍正義感の強い露楊という少女なら、うなづくだろうと。




「やっと、外に出れた!」


 ここ最近は聞かなかったはしゃいだ声とともに、咎めるような視線が冰遥へと注がれる。


 彼女がふりむき、わざとらしく咳ばらいをする。


「なに、文琵?」

「なんでもございません」


 ツンとした表情で名を呼ぶと、うやうやしい礼とともに、わざとらしい言葉をかえされる。


 彼女の仕える主人の手により、ほぼ幽閉状態だった文琵は今日、久々に幽閉からのがれ外出を許されたのだ。


 ――優しいあなただからこそ、わたくしのことを出させなかったのでしょうけれど。


 主人のことは、文琵もどこの誰かも分からぬひとよりも格段に理解していると思っている。


 いかんせん、認識も事実も、そうではあるが。


「……そう! 文琵、わたくし、今夜は出かけるわね」


 ふと顔をあげた冰遥が、文琵が入れた茶をすすりながら今夜の予定を告げた。


 司服から手渡されたという上等な絹の下地を広げ、赤い図面と照らし合わせて難しい顔をしていた文琵がはっとする。


 しわがよらないよう、下地を伸ばしながら冰遥に問う。


「今夜、ですか」


 普段のとおり、二つ返事と同じ要領で返事があると思っていた冰遥が、歯切れの悪さに不審そうに文琵を見る。


 なにか、都合が悪いことでもあるのかしら。


 不思議がって彼女を見るが、文琵ははっとして固まっている。


 焦ったような、それでいて気まずいような表情をした彼女は姿勢を正す。


 今更ながら、主人の予定に使用人が戸惑うのはお門違いである。


 おのれの失態に気がついた文琵が、畏れながら冰遥に向きなおった。


「申し訳ありません……いってらっしゃいませ」

「なに、その言葉遣いは? 言いたいことがあるなら言ってちょうだいよ?」


 気味のわるさを感じるほど妙に丁寧な言葉遣いに、冰遥が首を傾げる。


 彼女の唇が、かすかに震えていた。


 胸につかえるところでもあるのか、苦しそうに拳を握っている。


 冰遥は、繊細な文琵がおのれを責めることがないよう、冗談めかして笑いながら本心を伝える。


 文琵がふるふると体を震わせながら、喉をしきりにつまらせ、眉をよせ、涙する。


「文琵……!?」


 急に流れ出した涙に、腰をぬかしそうになりながら彼女のもとへと寄る。


 涙など、滅多に見せない彼女だ。


 なにがあろうとも涙しなかった彼女が、腕のなかで泣いていた。


「ふがいないわたくしで、申し訳ありません……!」


 やはり、まだこの子も悩み、辛いことを抱える年頃なのだ。


 ――黑々フェイフェイ、露楊に伝えてくれる?

 ――主人のためならいつでも伝えにいくさ。


 今夜の外出のために、早々に外で待機していた黑々を呼ぶ。


 こうなることが分かっていたのか、黑々はバサリバサリと長い尾を震わせながら飛んできて装飾に爪をかけた。


 ――今夜は延期よ。また次の夜にしましょう。

 ――了解した。


 まずはこの胸で泣いている少女から、話を聞かなくては。

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