迫る


 舞の上達のはやさは、やはり生まれ持った素質といえようか。


 その身に宿したとくべつな術は、術の枠をこえ主人のすべてを包むほどにとくべつなのだろうか。


「トリ!」

「え、コケコッコー? それともバサバサ?」

「コケコケだ!」


 仙と露楊、そして冰遥のちょっとおばかな稽古もそろそろ終盤をむかえようとしている。


 だがこの稽古――はたから見れば気品にかけるように見える――は、決しておふざけではない。


 至極真剣にやっているだけである。


「ね、ねえ、あと何問で合格になるの……?」

 疲労で息も絶え絶えに言うと、

「とりあえずは俺の気が済むまで」

 と、笑みを噛み殺した仙が答える。


「え……」

「変な冗談言うな本気にとられるだろうが」


 絶望にそまった声をもらすと、隣から鋭い言葉をなげながら露楊が仙の頭をすっぱたいていた。


「このくそ兄貴はいいので、次やりましょう!」

「う、うん……」


 きらきらと輝く笑顔を向けてくる露楊に、冰遥は苦笑いをかえす。


 どうも竹馬の足元にいる仙が気になってしまうのだ。


 最近はもう少し仙にもやさしくしたらいいのでは――と冰遥も思うようになってきている。


 あれだけ仙を苦手としていた冰遥からも同情されるほど、不愍ふびんな兄貴だ。


「へび!」

「う、うねうね~っ」


 冰遥が竹馬のうえで動くたびに、げらげらと腹をかかえて地面を転がり、笑い転げる仙。


 息が吸えていないのか、はくはくと口を動かしている。


「……鯉かよ」


 兄に対しての毒舌がすぎる。


 露楊は顔をしかめると、くるりと人格が変わるように人当たりの良い笑みをうかべて冰遥に手を振った。


「もういいですよー」

「え?」


 意図が読めず、竹馬にのったまま立ち尽くす冰遥に、露楊は声を張る。


「もう、合格です!」

「――ええ!?」


 思わず驚きと感動で竹馬の上にいることも忘れ跳びはねる。


 やった! と喜びにひたっている冰遥の足元が、ぐらりぐらりと揺らぎ――


「あ、あぶない!」


 露楊が焦ったように声を張りあげたのと、冰遥が空中へとつんのめったのは同時だった。


 美しい襦裙のすそが宙を舞い、風にゆられ……。


「きゃああ――!」


 悲鳴をあげながら竹馬を放りだし、空中を蹴っている冰遥の体が地面へと急降下をはじめる。


 今まで一度もこうならなかったのが奇跡なのだが、突然のことに動きだせない露楊の横から、人影が飛びだしてくる。


 ――仙だ。


 仙は飛びあがり、あくまでである彼女の体を抱きとめるようにしてすくうと、静かに着地した。


「お前、そそっかしいんだよ」


 呆れたような仙に言われる。


 冰遥が、ごめんなさい……と消え入るような声で謝罪をすると、仙はまた呆れたように天を仰いで冰遥を地面へと立たせた。


 重篤にならなくてすんだ……とそっと胸をなでおろす冰遥をふりむき、仙はぎろりと獰猛どうもうな狼のような視線をむけた。


 ひっ、と声にならない声が口から洩れた。


「お前はさ、豚だけど一応皇后の候補で、貴賓きひんで、妃妾きしょうなわけよ」

「ぶ、ぶた……」


 大丈夫か、の一言もない仙の言葉に、ぐさりぐさりと胸に矢が刺さる。


「んでもって、貴妃きひの頼みで俺らが教えてるわけだからな……怪我されちゃ困るわけ。いいか、怪我だけはするな」


 慰めているのかとがめているのか分からない仙の言葉に、恐縮しながらぶんぶんとうなづく。


 不愍な兄だが、その鋭い目ににらまれれば怖い。


 涙目をかくして必死にうなづく冰遥に満足したのか、仙はひゅるりと身をひるがえすとさっさと去ってしまった。


 呆気にとられる冰遥に、残された露楊が明るく声をかける。


「やりましたね姐さま! これで、完璧です! きっと舞は合格ですよ!」


 興奮した様子で手をとり握りこむ露楊に、冰遥は曖昧な笑みを返す。


 滅多にない露楊の絶賛にも気がつかず、冰遥はただ彼の去りゆく背を見つめていた。



 ――胸が、いたい。


 冰遥はつい手で胸をおさえる。どくんどくんと、彼に睨まれてからずっと、心臓に針がささったかのようにいたい。


 彼の目が忘れられない。

 あの、今夜にでもひとを惨殺しそうな勢いの、目。


 それと、彼がまとっていた、空気。


 いやあれは――彼の存在を、外界から覆い隠すようにしてついていた。あのまがまがしく強力な邪気。


 冰遥がその身にしかと宿し蓄え、まとい、あやつり、時に役立ててきた邪術の彩に、よく似ていた。


 なぜ今まで気がつかなかったのか。冰遥は思う。


 今まで、あそこまで近くまで寄ることがなかったから、気づけなかったのだわ――。


 彼のまとう邪気が、彼を包みこまんとするの姿が、冰遥の目に焼きついて離れない。


 この正体は、一体なんなの。どうしてここまで苦しくなるの。


 目におさえきれない涙が、うかぶ。


 ――どうして、あんなに攻撃的な邪気が、彼を殺さんとしているの。


 懐かしい彩をしていた。あの日、躘を殺さんとした邪気に、よく似ていた。


 ――ついに、ここまで触手がのびてきたのね。


 冰遥の簪から、目に見えぬ絹布のような形の煙がもんやりとうかんで、宙にのぼりあがってくる。


 ぎゃしぎゃしと光の粒をまきながら、石が実に怪しげに、紅く光る。



 露楊ははっとして目を瞠り、彼女から距離をとった。


 そこに明確な理由も他ならぬ気散きさんじの鱗片りんぺんも、見られない。ただ彼女の本能が、そうしろと指示した。


 本能に逆らえば、この命は保障されない、と。


「露楊」


 冰遥がまるで名の通り――こおりのような声色で呼び、となりに立っていた少女に向く。


 紫色の目が、冷たい意思をたたえて少女へと向く。


 美しく、あざやかな華のような唇から、ゆっくりと言葉がつむがれた。


「今夜、屋敷をぬけだすことはできる? 逞しいあなたとともにいないと、行けないところに行きたいのだけれど」

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