渦巻く暗流


 冰遥ヒョウヨウが室へと入ったとき、そこには元気なリョウの姿はなく、代わりに困憊こんぱいした様子の躘が筆をとっていた。


 机のまわりには書きちらかした紙がしわくちゃになって折り重なっており、文字を追うと公務ではないようだ。


 躘は冰遥を認めるなり、安心しきったように安堵のため息をついた。


「姉さん……」

「どうしたの、休んでる?」


 疲弊した躘の表情を見て、すかさず冰遥がたずねると、躘は首を振りながらため息をついた。


「色々あってさ……」

「そう……。あ、そういえば躘、聞きたいことがあるのだけれど、良い?」


 冰遥が看病のための用意を床に広げながら、そう尋ねると、躘が返事のかわりに筆を置いて冰遥へと向く。


セン・馬顛バテンという宦官と会ったのだけれど、異国の名前のようじゃない?」

「馬顛……ああ、あの人。ヤン夫人の推薦で、ずっとわたくしに仕えていた人なんだ。ヤン夫人が言うに……異色族いしょくぞくの者とかって」


 異色族。どこかで聞いたことがあるな――と思いながら、冰遥は異色族は何者かと尋ねる。


「目や髪の色に、遺伝的に異常が起こる特殊な北方の民族がいるんだ。兄弟なのにも関わらず、兄と弟で髪と目の色が違うとかって」


 冰遥はさきほど別れたばかりの馬顛を思いうかべた。


 うつむいていて顔は見えなかったが、確かに髪の色は、珍しい赤みがかった茶色をしていた。


 それが異色族か――と冰遥が思っていると、目の前に座っていた躘が再びため息をついた。


 安心しきったものではなく、今度は深刻な様子で。


 冰遥が看病のための道具を用意しながら尋ねると、彼は深刻そうに話しだす。


「実は……」


 朝まだき、朝が漸漸ぜんぜんと迫る夜のぬけきらぬ頃、皇太子と交友のあった官僚が、自室で倒れているのを見つかった。


 発見者の同僚はすぐに医官を呼んだが、そのときには意識もなかったという。


 駆けつけた医官は脈をはかり、損傷がないか調べたが、脈に異常はなかった。


 だが脈はあったものの、医官も頭を抱えるほど医学的に不可解な状態で、心臓と脳に損傷が見られた。


 脳に損傷が見られたことで、それが意識不明の昏睡こんすい状態におちいる要因ではないかと議論がなされた。


 躘は医官に尋ねた。彼は意識を取り戻す可能性はあるのか。


 医官は深刻な顔をして、ゆっくりとかぶりを振った。


 落胆する彼に、医官は議論でも結論が出なかったひとつの謎を告げる。


 筋肉の状態を見るに、礼虎は抵抗していた痕跡がない。


 ――それが、医官たちの間でもとけなかった謎だ。


 礼虎は優秀な官僚であった。


 そのうえ、同僚でも頭ひとつ抜けた剣筋をもつ男であったため、護身術は相当なものであった。


 だが、その礼虎が抵抗しなかったとなると、考えられるのは彼と親しい存在が手にかけたか。


 それか、礼虎が抵抗できないような速度、それも術で襲ったか。


 そこまで話しきってから、躘は体の奥底につもったおりを吐きだすように強くため息をついた。


「もしかして……」


 説明を聞いて、話の趣旨しゅしを把握した冰遥がつぶやくと、うなづきながら躘がつづける。


「うん。……仮説だけれど、もし後宮にいるという巫覡ふげきが関わっているとしたら?」


 瞳に透きとおるような琥珀色を充溢じゅうまんさせ、躘は言う。


 冷静な彼女ららしからぬ仮説を立てていることは、互いにも分かっている。


 だが、どうしてもそうとしか思えなくなってしまっているのだ。




 菖蒲あやめのような透明色を瞳にうつしながら、冰遥も躘に向きあい、うなづく。


「それならば、つじつまがあう」躘が言う。


「術を使えば、不可能が可能になってしまうから、よね……」

「そうなんだ」


 躘はそう相槌あいづちをうつと、再びため息をついた。


 ため息をつくと幸せが逃げてしまうというが、本当にそうなりそうな勢いだった。


礼虎リィフーは信頼していた官僚だった。仙と礼虎とわたくしとで協力して、これから調査をはじめる頃だったのだけれど……」

「……奇妙ね」


 唐突な冰遥の言葉に、こめかみに手を当て考えこんでいた様子の躘が視線を上げる。


「何が?」


 躘の言葉に、冰遥も不思議そうに首を傾げる。


「虎礼のほかにも、病休をとる人が多いと聞いたのだけれど」


 冰遥が言うと、聞いたことのない話だったのか、躘が身をのりだすようにして前へとのめる。


「何の話?」

「知らないの?」

「うん。知らない」


 冰遥は、有名な話なのだけれど――と不思議に思いながらも話す。


「最近、体調不良で病休をとる人が多いといううわさを聞いたのよ」


 それの何が奇妙なのか。


 そう思っていそうな躘の顔から、次の言葉で血の気が引いていった。


「それも、躘に仕える人たちだけ」

「――!」


 冰遥の言葉にはっとした躘が、ぎゅうとこぶしを握る。


 皇太子に仕える者は、婢女をふくめずとも百人を超える。


 それも、毎月昇格や降格、病休や新入りが入ってくることにともない人が変わるため、躘が覚えていなくても当然のことである。


 だが、短期間で彼に仕える者が疫病にでもかかったかのように倒れているのはけったいである。


 摩訶不思議としか言いようのない現象だ。


「それは、どういうこと……?」

「わたくしにも分からない、けれど……」


 不安そうにつぶやく躘の、握りこまれた拳を見ながら、冰遥はそこに向けて言葉を落とす。


「なにか、ありそうな感じ……」


 冰遥は、喉の奥から言葉を絞りだすようにしながらそうつぶやき、おのれの脳裏をよぎった思考に眉を曇らせた。


 そんなはずはないと思いたかった。


 だが、それは単なる願望にすぎなかった。



 冰遥はいち早く察知していたのだ。


 偶然という安い言葉では計り知れない深い暗流あんりゅうが、今まさに王宮を包みこもうと蔓延はびこっていることに。

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