礼虎の犠牲


 とっくに夜の帳はおりた。


 だが、いまだに行燈あんどんの明かりが消えぬ部屋で、床にせている主を心配している礼虎リィフーがいた。


「お休みになられてはいかがでございましょう。まだ病も治ったわけではありませぬし……お身体にさわるかと」


 そう説得するものの、帳面ちょうめんに視線をおとしている彼は考え事をしているのか、顔をあげる気配がない。


 礼虎は目を閉じて一呼吸あけると、次は少し大きな声で言った。


「……皇太子さま! そろそろお眠りになられないと!」


 ようやく行燈に照らされできた礼虎の影に気がつき、彼が顔をあげる。


 彼はしばらく赤子がするように礼虎の顔をみつめていたが、ふと我にかえったように帳面を閉じ顔を左右に振るうと告げた。


「あぁ、すまない……そろそろ眠るよ」


 そう言い、うつむくようにして寝台の上でかいていたあぐらを崩し、眠る準備をはじめる。


 それを隣から手伝いながら、礼虎は言う。


「……勤勉なことは、本来ならば褒めたたえるべきことだと思います。……ですが、この国を勇健ゆうけんに保つために、君主となるあなたさまが健康でいらっしゃらなければ本末転倒であります」


 礼虎はまだ若い官吏かんりだが、古くさい口調をしている。


 勤勉で人当たりの良い性格をしており、信頼がおけるとリョウは気に入っている。


 また、科挙かきょに合格した優秀な官吏でありながら、日々努力している姿が宮中では人気である。


 だが、勤続きんぞくの官吏よりも優秀な手柄をのこしていることから、嫉妬がたえないのも事実ではあるが。


 礼虎は書物がつみかさなったつくえを退かし、寝台を整える。


 いつもこうしているため、手際が良い。


 蛍宮殿けいきゅうでんという名で通っている宮殿につかえる礼虎は、配属されてから躘の睡眠の向上を目的として様々なことをやってきた。


 その度に、躘は微笑をうかべごめんな、と言い寝台にのりあげ――礼虎が、室中しつじゅうの行燈の火を消すのだ。


 だが――今夜は少しばかり違った。


 それは躘にとっては些細なことだったかもしれないが、礼虎にとっては珍しいことだった。


「……ごめんな、それと……ありがとう」


 礼虎はびっくりした。


 なぜ急にそんなことを言うのかと尋ねようとしたが、躘はすでに眠りについた様子だった。


 礼虎は驚きながらも、室内の行燈の火を消した。


 その晩、礼虎は布団にねそべりながらその言葉の真意しんい熟考じゅっこうしていた。


 皇太子さまはなぜあんなことをおっしゃったのだろうか――。


 他の人に言わせれば、たった一言のことで考えすぎだと笑うのだろうが、礼虎はいつもこうである。


「果たして、どういう意味だったのだろう……」


 小声でつぶやくが、その問いに答える者はいない。


 ――はずだが。



「もしかして、困りごとかい?」


 美しい女の白い面が、目の前で低く笑う。

 礼虎はとび起きて、構えながら後ずさる。


「……何者だ」

「なに、物騒なことをしようとはしていないさ」


 両手を顔の横にかかげ、からかうように眉をあげる女。


 礼虎は警戒しながら、刀に手をのばす。――剣の道では、女相手に斬ってはいけないが、攻撃してきた場合は別である。


 女は礼虎の背後、棚の上に無造作におかれた簪を目にして、さらに眉をあげ、目を細める。


「女物のき飾りだな。……なぜ、ここにある?」


 礼虎は顔色をかえない。


 女は礼虎に笑いかけながら続ける。


「もしや、君主に仕える官僚という立場にありながら、女と密会か? それか……盗んだのか?」


 それは上等なものだぞ、おぬしのような下郎げろうを好く女が持つ物ではないだろう。


 礼虎は片眉をあげ、警戒を強めながら女の顔をじっと見つめる。


 礼虎が、科挙に合格し官僚となれたのは、その類まれな記憶力の高さにある。


 彼は超越ちょうこした記憶力の持ち主で、一度目を通した書物の内容や詩、さらには人の顔まで、覚えたものは絶対に忘れない。


 礼虎は、皇太子である躘が唯一信頼をおいている官僚である。


 そのため、この宮中に渦巻く闇について躘と話しあうこともしばしばあった。


 ゼンとは血のつながらない兄弟のように親しくしており、ともに協力しながら躘の手伝いをする仲である。


 そして特に、躘から先日言われた後宮にいる巫覡ふげきについての情報収集をするかかりであった。


 白い面、美しい顔、湖の水面のような青味の強い瞳。――間違いない、この女だ。


 礼虎は、女の特徴を頭で繰りかえしながら女を睨みつける。


 ――奸悪かんあく な女め、ついには殿舎ここにまで来たか。


 礼虎の表情を見て、薄ら笑いをうかべた女は、梳き飾りの方向へ手をのばす。


 手の甲に張りつけられていた人形ひとがたが、空中へと飛びだして梳き飾りのもとへと辿りつき、女の手へと落とす。


 掌中しょうちゅうのそれの感触をたしかめるようにして強く握りこみ、女は満足げに笑みをこぼす。


「これは、わたしが預かっておくな」

「……何のためにきた」


 今まで黙っていた礼虎の言葉に、女が奇妙な顔をして首をかしげる。


「何のためだと? 理由があるとでも思ったか?」


 眉をひそめる礼虎に向きあう女は、頬の表情筋に力をいれて口の端をひっぱり、笑みに似た表情をする。


 のっぺりとしたその表情に、礼虎も恐怖をおぼえる。


「優秀な官僚だと聞いたのだが……さほどでもないのだな」


 そう言って女は笑い、いまだ刀を構えたままの礼虎に近づき、彼の胸に手を当てる。


 礼虎がその動作をたどると、人形がおのれの胸にはりついているのが目に入った。


 声を張りあげようとした礼虎だが、声が出せないことに気がつく。


 そしてすぐに、腕が動かなく刀を振りあげることができないことにも。



 混乱して女を睨むことしかできない礼虎に、女は再びのっぺりとした笑みをうかべる。


「せいぜい、あがいて死ぬが良い。……愚か者めが」


 ひらひらと手を振った女を最後に、礼虎は意識を失った――。





 冰遥は皇太子の殿舎でんしゃをおとずれていた。


 あの術を解いた日にいた礼虎が見当たらず、周囲を見渡す冰遥に声をかけたのは見たことのない宦官かんがんであった。


 どの宦官もそうであるように、体は丸みを帯びており声が少しばかり高い。


 礼虎は男らしい体格をしていたため、やはり宦官ではなく官僚か――と思いながら、冰遥は宦官に尋ねる。


「皇太子さまは中に?」

「いらっしゃいます。冰遥さま、お待ちしておりました」


 自分が認識されていたことを知り、かすかに目を見開いて驚く。


 だが、殿舎で皇太子に仕える宦官であるならそれも自然な成り行きであることに、すぐに納得した。


「名は何というのですか?」


 冰遥が尋ねると、宦官は面食らったようだったが――なぜならずっと礼をしているので表情が分からないのだ――礼をさらに深くして言った。


セン・馬顛バテンと申します。皇太子さまの側近が、ただいま体調を崩しておりまして。その代役として参りました」


 セン・馬顛バテン

 聞いたことのない異国の名前のようだった。


 だがここであんずるわけにもいかず、冰遥は温和おんわな笑みをうかべて言葉をかける。


「最近、皇太子さまに仕える人たちに体調不良が多いとうわさを聞きました。大変なのですね、くれぐれも体にはお気をつけて」

「――はい、感謝いたします」


 宦官はそう言ってまた深々と礼をした。

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