目覚めのよい朝


 彼女は母と同じように、後宮におもむき巫覡ふげきとして様々なことをしている。


 おはらいはもちろん、頼まれれば占いをしたり、呪殺じゅさつ反魂はんごん魂呼たまよび――など、人形をつかって邪術を展開させている。


 彼女は香油こうゆを塗った髪を結び、薄い布団に寝転ぶ。


 皇太子を苦しめようと、少し前に呪詛じゅそしたのだが、まったくもって変化がない。


 花耀ファヨウは首をかしげる。


 この王宮に来てから、彼女の呪法じゅほうが機能しなかったことなどなかった。


 だが、なぜ皇太子にかけた呪法がきかないのだろうか。


 尚侍しょうじたちを呪詛し、皇太子の身を案ずるものをひとり、またひとり――と、ようやく人払いがすんだのだ。


 そのあとに首を絞めて、もがき苦しんだあとに、少しずつ体を蝕んでいく毒をふくんだ――上等な札だったのだが。



 花耀は熟考するが、あまり思考するのは好きではない。


 呪法がきかないのなら、さらに強い術をつかえばよいだけの話。


 彼女は無理やりに目を閉じ、睡魔を待つ。


 ゆらりと現れた睡魔に意識をまかせ、泥のように眠りについた。



 果たして、これ以上に目覚めのよい日はあっただろうかと思う朝だった。


 ヤン夫人をなだめ、包子パオズをともに食べ、満たされたお腹をさすって幸せの吐息をはいたころには、ヤン夫人も普段の様子に戻っていた。


 泊まるよう言われたときは、リョウのもとへと急ぎたかった冰遥は焦ったが、夫人の申し出を断るのは言語道断である。


 流石は正一品、四妃のうち最高位の夫人につくヤン夫人である。


 翡翠宮ひすいぐう寝台しんだいも相当であったが、来賓用に用意された寝台でさえも、冰遥にとっては天にのぼるほどの上質なものだ。


 それに寝転んだ瞬間、まるでとろけるように――すぐに眠りについた。


 そんなことなど、いままで一度もなかったのだが。



 あわてて夜着よぎを着替え、物音のする部屋にでれば、そこでは侍女たちがお盆を運んでいた。


 その中心にはヤン夫人が座っており、横には誰のものなのか、もう一人分の食事が用意されている。


「冰遥さん、お目覚めになったのね」


 冰遥に気づいたヤン夫人が、こちらにいらっしゃって、と手をあげる。


 あわててつまずかないようにしながら、ヤン夫人のもとへと行くと、彼女はもう一人分の食事の前を示す。


「ともにいただこうと思い、尚食しょうしょくに用意させたのですよ」


 鮮やかな椿のような唇が、形よくととのった形のまま三日月のようなうすい微笑をうかべる。


 尚食といえば、後宮の食事を用意する尚食局しょうしょくきょく舐食房てんしょくぼうの頂点にたつ女官のことだ。


 宮中でも箱庭のように仕切られ、まさに陸の孤島ともいえる後宮だが、そこに隣接するようにして、後宮の六局が配置されている。


 そのなかでも尚食など、後宮の女人たちの食事管理で忙しく、めったに姿を見ないというのに。


 忙しい尚食にわざわざ用意させるとは、さすがは正一品の夫人である。


 膳の前に座った冰遥を認めると、ヤン夫人は遠慮して硬直している冰遥に向く。


「これから、宮中では様々な儀式が催されます。季節ごとに決められた儀がおこなわれ、後宮での位階いかいが決定されるのです」


 ヤン夫人の言葉通り、宮中では様々な儀式がとりおこなわれる。


 後宮に入る者は家柄を重視されるが、不正が明らかになってからは、ある程度の家柄があれば、個人の能力が重視されるようになる。


 後宮入りを果たしたヤン夫人も、才女さいじょからはじまり、その教養と賢さで、昭儀しょうぎ、そして夫人となる貴妃きひへとのしあがった。


 要は、これからの時代、後宮で評価されるのはいかに良い女であるか、だけなのである。


 そのため、今までは家柄と寵愛ちょうあいだけで決めていた位階も、試験や儀により個人の能力を評価した上で決定するようになったのだ。


「これから、忙しくなる時期。儀が始まれば、わたくしが介入する暇もなくあわただしい日々がやってくる。冰遥さんとともに、このように食事をとれる時間もなくなるでしょう」


 経験者が語るのだ、ヤン夫人の言う通り、あわただしい日々を送ることになるのだろう。


 翡翠宮でも絶えない儀の話題だが、儀について疎い冰遥は、今まで無視を決めこんでいた。


 だがこれは、せわしなく動きまわる時がくるのかもしれない、と冰遥は思う。


「ですから、こればかりのわがままを許してもらえるかしら、冰遥さん?」


 屈託くったくのない瞳にみつめられ、冰遥はあわてて情けなく眉をたらしながら、胸の前で両手をにぎり話す。


「わたくしなど、ともに食べていいものか分かりませんが、それでもよろしいと言うのならば……一緒にいただきます」


 そう言うと、ヤン夫人の顔が花が開いたかのようにぱあっと明るくなる。


「いいの? 本当にいいのね!」

「なぜそこまで喜んでるのですか……」

「だって、だって! 冰遥さんのことだから断られると思っていて……」


 そうつぶやいたヤン夫人が、黒々とした大きな目を星の瞬くようにキラキラさせる。


「そんな! 泊めていただいたのに、断ることはできませんよ」


 冰遥が言うと、ヤン夫人が本当にうれしそうににっこりと笑う。


「義理に堅いのね」


 そうささやくように言ったヤン夫人が、さぁいただきましょう、と言う。


 目の前に用意された豪勢ごうせいな膳をながめながら、冰遥は箸をもった。


 はやく躘のもとへと行かなくては――と、思いながら。

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