戦場へさらった刺客


 うなされる夜がつづき、眠れなくなった冰遥ヒョウヨウへ、気まぐれにおとずれた睡魔の帳にあらがえず、まぶたを閉じたあの晩。


 幾重いくじゅうにも重ねられたたれぎぬの奥から、不気味に青白い手首をのばし赤黒い花鈿かでんを見せつけるようにしてこちらをにらむあの女。


 そう、その晩にもあの女がいた。


 若々しく美しい面をした、そのうえ異様な人相をしている女だ。


 ――あの、幽鬼がさらったのだ。


 ここで意識を手放してみろ、次に目を開いたときには戦場ではなく、ひとっこひとりいない地獄やもしれぬ。


 冰遥は更に爪を茶碗へとくいこませる。


 ぎりりりりりっ。茶碗が、爪にひっかかれて乾いた音をたてる。


 消えろ。消えて、お願いだから。


 背に広がる闇へとこちらをいざなうように、青白く光る手が、細い糸をひっぱるようにして指を動かす。


 くいっ。くいっ。


 長さもバラバラに切られた長い爪が見えぬ糸を繰るたび、段々と幽鬼の姿が鮮明になり、近づいてくる。


『おまえは目を背けているだけだ。ほんとうは知っているだろう、おまえを陥れようとしておるものの正体を』


 べにが引かれた切れ長の目からのぞくが、訴えかけてくる。


 いつの間にか目の前にあった糸を繰る指先が、ぴとり、冰遥の頬をなぞる。不思議だ。


 奇妙だが、恐怖は感じない。


 なぜだ、なぜおまえは退けようとしない。


 斜めに切られた爪が、器用に冰遥の髪を巻きとる。


『おまえは知っている。もう知っている。知っているのだ。知っているのだ』


 青色の目が、瞬きをして紫色に一瞬光る。


 ――紫だ。

 ――紫なのだ、この目は。


 冰遥は悟った。


 あの青色むらさきの瞳を。


 自分がなにものであるのかは知らぬ。聡明なんかではない。思考するのが得意なだけだ。


 だからこそ、この闇を自らの手でかきわけないといけないことを知っている。


 この女、この幽鬼の言わんとすることが分かるのだ。


 沙華だったころの記憶が戻り、その口調のまま口をひらく。


「おまえか。あの晩、あたいをさらったのは」


 身をよじるようにして、女は爪をがちゃがちゃと鳴らす。


 ぎぎぎぎぎ、背骨から陶器をひっかいたような、不気味な音が聞こえてくる。


『そう思うか、そう思えるのか。おまえは、おまえは』

「答えよ、おまえか」


 ほしいのは「はい」か「いいえ」か。

 明確な答えだけだ。


 冰遥が圧をかけると、女は美しい面をゆがめるようにして、喉からひきつった声をあげて笑う。


『おまえを助けるためだ。ひひひひひっ、あたしだ。頭の狂ったおまえの部下から、守るためだ、守るためだ』


 頭の狂った部下から、とは誰のことか。いまは考えるひまがない。


 この女がさらった、そう認めた。


 刺客でもない、やはりこの女だったのだ。あの晩、冰遥を戦場へとさらい、もつれた糸をまたさらにもつれさせたのだ。


「……もうひとつ、尋ねたいことがある」

『ひひひひひっ。答えてやる、言ってみろ、言ってみろ!』


 突如として足元に現れた水面に、二人の姿がうつる。


 瓜二つだ。


 見事に、生き写しのようにそっくりなのだ。この死んだはずの幽鬼の女と、今生きている冰遥とが。


 白い面。滑らかにすべる眉も、椿のようにあざやかな唇も。


 冰遥は目をふせ、水面をながめながら言う。


「おまえは……」



 ――わたくしの母であるのか。


 冰遥がつぶやくように言うと、女は狂ったように身をよじるのをやめた。


 額に描かれた赤黒い花鈿が、みるみるうちに形を変え、淡い桃色によって描かれた美しいはすとなる。


 荒れた砂漠のような白髪が、つやめく黒髪にかわり、上等な絹の襦裙じゅくんは汚れ一つなく披帛ひはくも透きとおっている。


 切れ長の目から青色がのぞき、白い面ははりがある。――美しい女だ。


 女は長いまつげをふせ、手を重ねて胸へと置く。


 そして、冰遥の目を見て話しだした。


『あなたが、あのものに気づきそれを認めて、姉と呼ぶのならばわたくしは自信をもってうなづけるもの。……ですが』


 言葉遣いまでまるっきり違う。


 美しい女は、琴のような綺麗な声をしていた。


『……もし、あなたが、姉だとは呼ばないのならば。……それでは』


 ――それでは、わたくしはあなたの母ではないのでしょう。



「それはどういう意味だ、おまえはあたいの母ではないのか」


 思っていた返答ではなくて困惑した冰遥が、沙華の口調のまま話す。


 てっきり、この女がわたくしの母かと思っていた。


 女は上げたまつげをしばたたかせ、もう一度、冰遥と目をあわせた。


『……同じ血が通ってはいますが、別格なのです』


 同じ血が通っている? なのに別格? ますます意味が分からず、あごに手をあて熟考する冰遥。


 女は、そのからだから華蓮かれんな少女のような雰囲気をただよわせ、すっと膝をおり、礼をした。


 見たことのない礼だ。――いや、正確には見たことはある。が、この国の礼ではない。


 ――炎尾ヤンウェイ国の、最敬礼だ。




『炎尾国にゆかりがあるのです。わたくしも……そして、も』


 


 まさか。なぜ、になる。あなた――つまり冰遥ひとりだけならば分かる。


 だが、つけたされた冰遥以外のものは誰だ。


『おのれの力を信じれば、なにごともなせるものです』


 女は白く滑らかなその美しい面を、どこからか取りだした笠をかたむけてかくした。


『あなたは分かっていない。おのれのなかに、何があるのか。何がいるのか』


 彼女の耳飾りが黒にかわり、ひとりでに炎をあげる。


 ぶわりと煙がくすぶり、ぐにゃりと時空がゆがむ。



 彼女のもつ青色むらさきの目が、ずっとこちらを見てくるようだった。


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