幽鬼


「ごめんなさいねぇ」ヤン夫人が、お盆のうえに菓子をならべながら言う。「急に呼びだしてしまって」

「いえ、それで、お話とは何でしょう?」


 だらだらと話をつづけるのが嫌いな冰遥ヒョウヨウがそう切りだす。


 ヤン夫人はそうねぇ、と曖昧な返事をしただけで話をするきがないらしい。


「これ、なんですか?」


 話をすすめるのを諦めた冰遥が、見慣れない菓子の名をたずねる。


 大食らいである冰遥は夜食を好まないが、目の前にある誘惑には勝てない。


「見たことがないお菓子ですけど」

「あぁ、それは豆沙包あんぱん。甜点心よ」

「舐点心ですか!?」

「ええ、うふふ。確か好物だったわよね?」


 ヤン夫人が、膝のよこに置いていた茶碗を冰遥のまえに置き、とぷとぷと茶を注ぐ。


 あざやかな緑色があらわれるとともに、芽茶めちゃの香りがぶわっと冰遥まで届いた。


 その新鮮でまっすぐな香りにうっとりとする。



 お茶を一口ふくむと、口のなかに爽やかな苦みとほのかな甘みが広がる。


 微笑んだヤン夫人に、切られた豆沙包あんぱんを手渡された。


 追うように舐点心を口に運ぶと、もっちりとした歯ぎりが心地よい。


 ふわふわとした食感とともに、甘い小豆のあんが舌のうえに広がっていく。


「んー! おいしい!」


 バタバタと足で美味しさを表現すると、ヤン夫人がにっこりと口角をあげた。


「こっちが豆花トウファで、順番に、花捲ホアジュアン月餅げっぺい落雁らくがん亀苓膏きれいこうよ。亀苓膏は薬膳やくぜんとしても有名だけれど、わたくしはこの味が大好きなのよ」


 さじで掬うと、ぷるぷると揺れる亀苓膏きれいこう


 その上に黒糖を煮つめてできた黒蜜をたっぷりとたらし、口に運ぶ。


「んふ、食べてみる?」


 あまりにもじっと見つめていたのか、匙ですくって冰遥の前に差しだしてくれるヤン夫人。


 匙をくわえると、冰遥の顔が一気にけわしくなった。


「うふふ、少し苦かったかしら?」

「……とびっきり甘い菓子をいただけますでしょうか……」


 苦さに顔をゆがめた冰遥に、ヤン夫人が笑いながら、豆花トウファが入った器を差しだす。


 甘く煮た小豆、豆花※豆乳ゼリー、寒天が黒蜜に覆われてつやつやと輝く。


 匙ですくって口のなかに入れると、滑らかな豆花と小豆、黒蜜の甘みが広がり、亀苓膏の苦みが段々とうすれていく。


 お茶を喉にとおすと、もっちりとした豆沙包――包子パオズがまた食べたくなり、ちぎって少しずつ口に運ぶ。


「うふふ。気に入った?」

「はいっ! おいしいです!」


 亀苓膏を、すずしい顔で食べつづけているヤン夫人に微笑まれる。


 白くて滑らかな肌。


 目のしたにうっすらと隈が見えて、なぜだか痛々しく思う。


 すると、突如冰遥の脳裏に、布団のなかですすり泣くヤン夫人の姿がするっと現れた。


 水面の細かな揺れがなくなったかのように、鮮明に映像が描きだされる。



 外部からの干渉をうけない邪術だが、逆に外部の記憶に、無意識に干渉してしまうことがある。


 姿も知らぬ両親のことを思い泣いていたら、死者の霊を呼びだしてしまったり。


 迷子の子どもを探していた母に出会えば、母親の記憶から子の姿を確認し、他人の記憶に自動的に入りこみ、その子がどこにいるかを告げたり。


 それらのことが、冰遥の意識とは無関係に起こってしまう。


 そして今回も、そのたぐいだった。



「眠れていないのですか?」


 脈絡のない冰遥の発言に、驚くヤン夫人。


「どうしたの、急に?」

「隈が見えたので」冰遥はそう言いながら、ぬるくなったお茶をすする。「眠れていないのかと」


 本当に、なにものなのかと時々思うことがある。


 この宮中で信頼を築こうと四苦八苦していた若かりしおのれを自覚してから、早々十年ほどがたつ。


 皇太子が連れてきた彼女を見た瞬間から、もっとも、彼女が恐れられていた大陸の将軍であることに驚かされ、それをも忘れてしまうほどの美貌に驚かされた。


 そして未だ変わらず聡明そうめいで、げんたるこの国で変わらず長い息をつづけていることにもまた、後宮ここで再会してからも驚かされている。


「あまり聡明ではありませんよ。わたくしは」

「……えっ」

「元々、勢いばかりで細かいところまで気にしていられるほど、こだわりがあるわけでもありませんし」


 今、こころで思ったことを、言い当てた。


 腹の底から温みがなくなっていく感覚をおぼえながら、ヤン夫人はかずれた声をだす。


「……いま、心を」


 指先がかすかにふるえている。


 冰遥は、視界のはしにぶるぶると震えたヤン夫人の指先が映ったことで顔をあげた。


「ヤン夫人、どうかしましたか――」


 冰遥が、はっとする。


――


 顔を青くしたヤン夫人の目には、冰遥の代わりに――おそろしい形相の幽鬼おんなが映っている。


 上等な絹のくんのすそはすねのあたりでぼろぼろにちぎれ、美しいすみれ色の披帛ひはくには、染みがぽつりぽつりとついている。


 荒野のような白髪は結いあげられた形を保っておらず、ばらばらと肩に垂れている。


 白い面に描かれた花鈿かでんはまるで紅血で彩ったかのように赤黒としており、切れ長の目は冰遥をにらむようにして覗きこみ――。


 ぐらり、脳内をかきまぜられたようなめまいがして、思わず目をつぶり眉間にしわをよせる。



 ――このまま意識を飛ばしてはいけない。


 冰遥は茶碗を力いっぱいに握りしめ、爪をくいこませる。


 この感覚を、どこかで知っていた。


 ――ああ、そうだ。あの時もこうだった。


 烏の頭領として日々室にこもり、賊徒ぞくととして名を馳せていたあのころ。


 突如として現れたによって意識を飛ばした先は、馬の背にまたがり剣をふりかざす男が目と鼻の先にいる――戦場であった。


 彼女を戦場へとさらったのは、敵対していた賊徒でも、どこぞの刺客でもないのだ。


 ——この、幽鬼だ。


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