菖蒲と桔梗


 ここは、まさか人がいるとも考えつかないであろう、いまはもう使われていない厩舎きゅうしゃのなか、馬房ばぼうである。


 禁軍きんぐんの馬たちの厩舎だったが、新しく立派な厩舎が建てられた今、ここに近づくものはいない。


 それを知っていたリョウは、馬房のひとつを人が住めるように改造したわけである。


 馬房には灯籠とうろうがともされており、たれぎぬがどことなく垂らされている。


 さながら絹の海だ。


 紙を広げて筆を走らせるに、少しばかり苦労する大きさのつくえ


 王宮の室にくらべて質がおちるこの室を照らすのが、ただひとつの大きな紙灯籠かみとうろうである。


 いささかこの室には大きいと思える、海月くらげの形をした薄水色うすみずいろの紙灯籠は、ぼんやりとやわらかい光をはなつ。


 躘は、ちぐはぐな家具たちで構成されたこの室を、いたく気に入っていた。


「それにしても、なぜおまえのような高貴な出身のやつが、こんな薄汚れたところを好むわけだ?」


 不機嫌そうに几に肘をつき、やわらかい光をはなつ灯籠をながめ、ゼンは言う。


 躘も、仙の視線を追い、海月をかたどった紙灯籠を見る。


「そうか?」躘は紙の四隅よすみをあわせ、几からよける。「王宮より居ごこちは抜群だけれどな」


「どういう感覚してんだよ、一体……」


 あきれる仙に、気にする様子もない躘。


 躘は、背にしていた棚に紙をしまうと、肘を几につき、身をのりだす。


「進展はあったか?」


 仙は、返事のかわりに片眉をあげる。



 仙は賊徒ぞくととして烏のなかにいる。


 この話題のたびにしばしば討論になるが、仙は皇族として烏に潜入しているのではない。


 正真正銘の賊徒である。


 皇族であることには間違いないが、彼は従兄じゅうけいで、外れのほうの皇族であり、俗に言う皇族とは少し異なるのだ。


 仙は外を警戒するかのように目線をたれぎぬへとむけると、声の質を低くして話しだした。


「実はな……」


 几のうえへと声をおとすように、唇のすきまかられでる言葉をひろい、躘が目を見開く。


 ――王宮で占いをするものが、黒幕とかかわっているとの伝達がはいった。


「王宮で占いをするもの? 占い師とはちがうのか?」


 躘が指摘すると、仙は痛いところをつかれたように顔をゆがめる。


巫覡ふげきだ。占いのように予見することができるらしく、そう呼ぶやつもいるがな。それに……」


 仙は一瞬言うのを迷うかのように視線をさまよわせたが、すぐに口をひらく。


「紫色の目だとか」


 躘は仙の話に真剣に耳をかたむけていたが、その言葉に、はじかれたように顔をあげた。


 紫色の目。


 知っているし見たことがあるし、なんなら美しくてみとれてしまうほど綺麗な目だ。

 躘は思う。でも――。


「……それって」

「珍しいよな。この大陸には数少ないっていうし」


 躘の不安をあおるのような仙の言葉に、躘の顔がこわばる。


「姉さんだとか、言わないよな」


 躘が言うと、仙は躘をみつめたあと、ため息をつく。


 どういう反応かと躘がじっと見ていると、仙はふっと笑った。


「……ばかみてぇな顔すんな」

「……どういう意味?」


 躘が聞きかえすと、仙はふたたびふっと笑い躘の肩へ手を置いた。


「お前が恋慕れんぼした女人とやらは、例のやつじゃないのは確認済みだ、安心しろ」


 よかったと躘は安堵の息をはく。


 だがふと勘づく。


「なんで、姉さんじゃないって分かった?」

「……あぁ」


 仙はたまゆら真顔だったが、ふとなるほどな、とうなづく。


「巫覡と会ったんだよ、この前」


 どこから流れてきたのか、深いお香のかおりがつんと鼻をつく。


 仙はぐっと顔をしかめ、鼻をおおうように手をそえる。


「さっき、お前の想い人に会った。……目の色がちがった」


 仙は、色のちがいを識別できる。


 一見すれば色のちがいが分からないような似ている色でも、ちがうものを見ぬくことができる。


 仙はつづける。


「想い人は、赤みがかった紫。でも、巫覡は、ほぼ青に近い紫。あれじゃあただの青だ」


 仙は、ふたたび灯籠に目を向ける。


「だから安心しろ」


 だんだんと、お香のかおりが近づいてきているようで、顔をしかめた。


「くっさいなぁ……お香か?」


 仙はそう言い、広がる闇をにらむようにしてあたりを見わたす。


 ぱたぱたと手であおぐようにしてお香のかおりを散らした躘は、目をつぶった。


 宮中を静かに、だが確実に蝕んでいる闇を消すためには、彼女の力が必要不可欠だ。


 明日、沙華姉さんに会いにいこう。心で思う。


 そして、話をしよう。沙華姉さんと、わたくしとで。


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