吐露する
彼が地獄で手放したもののひとつ、色彩ゆたかな感情をとりもどすには、それなりの代価があった。
幼少期の出来事は、その後の生き方に大きな影響を与えるというが、それは彼も例外ではなかった。
彼は、感情の
嬉しいと幼いころのように顔を
実に言葉のとおり、彼は人形のようだった。
だがそれは長くつづくわけではなかった。
人形のように無言になったかと思えば、次の瞬間にひとにべたべたとすり寄ったり。
途端に声をあらげたりした。
それが、
だが、あの地獄を知らない外野から見れば、良い子に成長していたはずの皇太子が、豹変したように見えた。
大臣たちは困惑し、そして皇太子の
だが、それを真っ向から却下したのは父だった。
「
書斎で、顔に深い影をおとす躘のまえに座って父は言った。
「……父上」
「なんだ?」
優しく問う声に、躘は
躘は顔をかすかにあげる。
やさしい表情を浮かべている父の顔が、
穏やかな表情を浮かべる父の姿が、こちらに手を振りあげる伯父の姿へと――。
「でて、いって、ください……いま、すぐに」
「……皇太子、なにかあったのか」
――『お前のせいだ、お前さえいなければ、皇太子!』
伯父の声が聞こえてきて、喉から、ひゅっと音が鳴った。
躘はひたいに手をあてて低く
父はぎょっとするように目を細め、低く呻る彼を
悲しいかと問われれば素直には頷くまい――と躘は思う。
皇帝は、躘にとっては父である。
だがその前に、躘の父は大国を
それを理解しているからこそ、とも言えよう。
おのれの息子でさえ気遣えぬのか。――そう、寂しいを通りこした何ともいえぬ激しい感情にかられたのだ。
「出ていけ!」躘は叫んだ。「出ていけ、出ていけ!」
父は驚いたが、ただごとではないと察知し、躘の前から体を退けない。
「躘よ、何かあったのか……?」
父は躘の顔を覗きこむが、それを拒否するように後ろに顔をそむけて躘はふたたび叫ぶ。
「出ていけ!!」
これでは話は聞けないと察した父が、躘に劣らず、大声で叫ぶ。
「――皇太子!」
彼はぴたりと動かなくなった。
「父上は……」
怒りで体がふるえたまま、情けなく小さい声で言う。
「わたくしのことなんぞ、考えておられない」
ぼろぼろと言葉をおとす彼を見て、父はらしくもなく
記憶にあるのは素直な彼で、母を亡くした悲しみから立ちなおり、笑顔をみせてくれるようになった彼だった。
だが、いま前にいるのは、父が知らぬ躘だった。
一人だけで抱えこんだ何かに怯え、それを悟られまいと必死で抵抗しているように見えた。
躘は泣き、叫ぶ。
「いつもいつも! 父上は、息子であるわたくしのことを、一度として見てはくれなかったではありませんか……!」
父は、
躘は勝手にふるえる肩をかくすように、おのれを抱きしめるように、腕をにぎりしめる。
「一度として、伯父上に虐げられようとも……気丈にふるまおうとしていたわたくしのことを、見てくれなかったではありませんか……」
夜の露が滴り、はためくように、目から涙がすべりおちる。
怒りなど、今になりわいてはこなかった。
果たしてここにいる意味は何なのだろうか――と、躘はながれゆく涙を見ながら思う。
父は言葉さえ発しない。今は、それが辛かった。
「……すまなかった、躘よ」
涙にふるえる父の声で、はっとした。
躘ははためく涙を袖でぬぐい、涙に濡れ赤くはれた目を父へと向ける。
「すまない、躘よ。そなたが元気に育っていると疑わなかった朕を許してくれ」
涙をぬぐいもせず、父は頭をさげる。
皇帝ともあろう人が、国をせめられても決して膝をおらない人が、頭をさげた。
「今謝ってもどうにかなることではないのは、重々承知しておる。……すまない。そなたのことを守れぬ父で、すまなかった……」
父はしがれた声でつづけ、さらにふかく頭をさげた。
「すまなかった。愚かな朕を許してくれ、躘よ……」
その夜、躘ははじめて吐露した。
母を亡くした日のこと、伯父から受けた虐待。――すべてを、少しずつ、おのれの言葉で吐きだしていった。
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