柴胡と石菖蒲とあとなにか



 ヤン夫人がはっと息を呑んだ。引きつった顔のままかたまる。


 そのあとに、そおっと気まずそうに目を逸らすが、冰遥ヒョウヨウはヤン夫人から目を逸らさない。


「ヤン夫人」


 催促するようにヤン夫人の名を呼ぶと、橙色の繻子しゅすの上を、ヤン夫人の指先が滑る。


 ヤン夫人は、おのれの指先をじっと見つめていたが、意を決したように拳を握り、がばっと顔をあげた。


「冰遥さま」


 ヤン夫人が、そっと立ちあがって最敬礼の形をとった。


「……ヤン夫人」

「察してはおりました。ですが、直接尋ねるのも失礼と思いお尋ねできず……どうか、ご無礼をお許しくださいませ」


 ヤン夫人は、おのれの立場がどこにあるのかをつねに考えている人だ。


 自分よりも高位なひとに対して無礼なことはしないし、おのれの立場をわきまえて行動している。


 ヤン夫人が、床に腰をおろして額をつけるようにして頭をさげた。――女性の最敬礼だ。


「あらためて、ご挨拶いたします。


 ヤン夫人は、冰遥のことを自分よりも高位だとした。


 皇太子妃になるはずだった少女に、夫人が最敬礼をしている。


 誰から見ても異常な光景だったが、冰遥はなにも言わずにそれを受けいれた。あきらめたとも言うが。


「わたくしのことを、覚えていらっしゃったのですね」

「ええ。忘れることはございませんでした」


 ヤン夫人が、最敬礼をくずし顔をあげる。なにもしないわけにはいかず、冰遥は姿勢をあらためた。


「それで……調伏は、解けるのでしょうか」


 ヤン夫人が、不安そうに眉をさげてすがりつくように冰遥へと身をのりだす。


「ええ、解けます」


 冰遥は、そっと首だけ振りかえってリョウを見た。


 青白い顔のまま、しずかに寝息を立てている。その顔には生気はない。


 術式は、じわじわと侵蝕してくる。

 今すぐに手を打たなければ、ということではないが、躘は相当衰弱している。


 冰遥は、ヤン夫人へと視線を戻す。


「では。今すぐにでも、解きましょう。お力を貸していただけますか」


 ヤン夫人が、冰遥の目を見て言う。


「はい」

 冰遥は、力をこめて大きくうなづいた。



 まず、二人は尚食局しょうしょくきょくの管理する調理処に急いだ。


 調理処のそばにある倉には、薬草や漢方、外国の珍味までもが大量に保管されている。


 そこから、必要な薬草を頂戴しなければいけない。


 まずまずヤン夫人がいる以上、とがめられることはないだろうが。


「どれがどの薬草か、分かるのですか? わたくしには一切分からないもので……」


 一つ一つ、違う薬草の入った大量の木箱から目当ての薬草を探している冰遥に、ヤン夫人が険しい顔をして言う。


 冰遥ははっとして、ヤン夫人に小声で言った。


「ヤン夫人、口調が」

「あぁっ! ……ごめんなさいね。いつものくせで」


 いつものくせで敬語になるのだろうか。


 冰遥は思ったが、会話を盗み聞きしている悪趣味なものがいないかぎり、この会話も聞かれていないだろうから、こちらも気にしないでおく。


 ――黑々、やっぱり暗記は無理だった。もう一度言って。


 倉の外にある木にとまっているであろう黑々に言うと、すぐに返答がかえってくる。


 ――柴胡さいこ石菖蒲せきしょう、高麗人参、大根草だいこんそうと、堯蛮ぎょうばん


 眠いのか、ずいぶんとはっきりしない声で返答がきた。


 黑々にしたがい、手にもっていた籠へと、言われた薬草を投げこんでいく。


 南の国にしか分布していない柴胡がある時点で、この倉が相当な薬草を網羅していることが分かる。


 大根草まで確認したところで、冰遥が振りむく。ヤン夫人が、終わった? と尋ねる。


「堯蛮という、北の国の珍味がなくて」

「ああ。ここは薬草の倉なの。隣に珍味の倉があるはずよ」


 堯蛮だけが、薬草ではないためここの倉にはない。


「……行きますか」

「そうしましょう」


 二人そろって倉を出る。


 珍味の倉へといき、堯蛮――高山の奥にいる、不思議な力をもつ獣の内臓を乾燥させたものを籠に入れる。


 その上から布をかけて、誰からも見えないようにする。


 ヤン夫人は調理処の監督ではないため、ここから堂々と出れば、きっと混乱されるはずだ。


「そそくさと逃げるのが良策ですね」

「ええ。そうね」


 二人とも駆け足で躘のいる宮殿へと急ぐ。


 ここに後宮の位を受けるものがいたら、誰もが怪しむだろう。


 知り合いの尚侍とすれ違ったり、途中で顔見知りの宦官に会いそうになったりと、肝を冷やしたがどうにか宮殿につくことができた。


 躘の宮殿にあわててばたばたと入って、後ろ手に扉をしめる。


「神経すりへった気がします……」

「わたくしもそんな気がいたします」


 そう言って、ふふ、と口元を軽く隠してヤン夫人が笑う。


 品のある所作に冰遥が感心していると、

「お二人がた、お急ぎのようですね」

 急に話しかけられて、肩が跳ねた。


 声のほうにむくと、そこには皇太子の護衛と、その隣には丸みをおびた体つきをした宦官がいる。

 

やん夫人さま、なぜお越しに?」


 宦官は、冰遥が見えていないかのようにヤン夫人にだけ話しかける。


 冰遥は喉をぐっと鳴らした。気分があまりよくない。否、とてつもなく悪い。


 だが冰遥はすでに割り切っている。性格のいい宦官はいない。探すのはやめようと。


「ええ。皇太子さまに少しばかりお話があってね」


 ヤン夫人の目は笑っていない。

 宦官は露骨に渋い顔をして、渋々といった様子で退ける。


 高位を受けるものの会話に、仕えるものが割りこんではいけないという暗黙の了解だ。


 そもそも、皇太子に仕えているのにもかかわらず、体調不良を把握していないとは何事だろうか。


 ――と思いながら、冰遥は、ヤン夫人の背に隠れるようにしてそそくさと通りすぎた。


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