沙華という名


調伏ちょうぶくではありませんか?」


 冰遥ヒョウヨウリョウの宮殿へと連れていきながら、さも普通かのように発せられた言葉に、ヤン夫人は足をとめた。


 振りかえると、彼女が振りかえったことに驚いた冰遥がかすかに身を引く。


「ちょ、調伏?」

「ええ」


 冰遥は冷静に構えているが、その目は落ちつかない。


 ときに忙しなく揺れては、またいつものように静かに身をひそめている。


「症状を見るに、そう考えるのが妥当かと」


 冰遥は言った。


 本当ならば、術の存在を信じるものはそういないだろう。


 だが、冰遥は邪術をあつかうもの。そこらのものが言うのとはわけが違う。

 

 一体ヤン夫人はわたくしが沙華だと気づいているのか――そんなことを思ったが、その考えを頭から振りはらった。


 考えるだけ無駄だ。これが終わったら、好物の舐点心でも舐食房てんしょくぼうからもらってくるとしよう。


 そう思い、気合いを入れなおす。


「とりあえず、皇太子さまを診てみなくては分かりません。急ぎましょう」

「ええ。近道があります、そこを通りましょう!」


 心の準備ができていない――などと、今になりこぼす余裕もなく、ただ必死になってヤン夫人の背中を追った。



 寝室に入ると、躘は気絶したかのように眠っていた。


 すぐ枕元にいた礼虎が、ヤン夫人と冰遥に気づきすぐさま立ちあがって、礼をとる。


「礼虎、様子は?」

「さきほどまで心地のむつかしい様子でいらっしゃったのですが、いましがた眠りにつかれたところです」


 丁寧に説明する礼虎に、感謝をのべたあと人払いを頼む。


 礼虎は分かりました、と言って礼のかたちをとると、静かに去っていった。


「ヤン夫人、少し換気をしてもよろしいですか?」

「ええ。どうぞ」


 すぐさま躘の枕元へと駆け寄ったヤン夫人とは対照的に、冰遥はすぐに窓を開け、部屋を見わたした。


 調伏の根源となりそうなものは――ない。

 いかんせん書物しかないのだ。


 調伏は、その人自身に接さない限りはかけることが難しい。


 躘のからだには術の影が見えない。そのため、これは術式でかけられたのだろうと推測していた。


 ――黑々フェイフェイ


 窓の外をのぞき、きっといるであろう相棒の名を呼ぶ。


 ――どうした、主人?


 やはり、いた。

 一面に生い茂った中で、もっとも高い木の頂点にとまり、こちらをじっと見ている。


 ――頼みたいことがあるんだけど。昨夜、術を解いた人が調伏されたようなの。察知できる?


 バサッバサッ。

 黑々がきぃ、と鳴きながらこちらに飛んでくる。


 ――できないわけがない。

 ――良い返事ね。


 肩を広げてやるとそこに爪をかけ、痛みも音もなくとまる。


 鳥としては大きめなのにもかかわらず、相も変わらず乗るのが上手い。


 特徴的な長い尾がバサバサと冰遥の背中をたたく。


 ――分かった?


 冰遥が尋ねると、つぶらな目で室内を見わたしている。


 ――術式だな。もぐさの代わりに術式にきく薬草を配合して、灸をすえれば解けるはずだ。

 ――なんでも知ってるのね。

 ――当たり前さ、大陸を旅してたんだから。覚えようとしてなくても覚える。


 褒めると、一気にほこらしげに胸をはる黑々に笑いながら、薬草の配合を聞き、頭の隅に記憶する。


 ――柴胡さいこと、石菖蒲せきしょうと……。


 黑々から言われたものを反芻はんすうしながら記憶していると、ふと黑々があれ、と示す。


 彼女のくちばしが示すさきには、積み上げられた書物と、横たわる死人のような顔色をした躘。


 ――変わった野郎を好きになったんだな。


 かれこれ三百年は生きているであろう黑々の言には重みがあり、なぜか説得力がでる。


 聞き捨てならないわね、と冰遥は言った。


 ――あたいの好きなひと、変わってるとか言わないでよね。


 黑々はきぃ、と低く笑い、――口調は変わらないままなんだな、とからかった。


 黑々と話していると、つい沙華のときの口調に戻ることがある。


 ――誰も聞かないんだからいいでしょ。

 ――主人は面白いな。


 黑々がそれ以上話す気がなさそうだったため、冰遥はいまだ躘の枕元で眉をハの字にしているヤン夫人に歩み寄る。


「ヤン夫人」

「はい、きゃぁぁぁぁ!!」


 顔をあげたヤン夫人が、冰遥の肩にのった、見覚えのない異様な鳥に腰をぬかして悲鳴をあげた。


 あわてて人差し指を唇にあて、しー、と息を吐くと、ヤン夫人も焦ったように口を両手でふさいだ。


 躘を見ると、微動だにせず眠りつづけている。


「その鳥は、一体何ですか……!」


 顔を強張らせたヤン夫人が、小声でささやくように言う。


 漆黒の羽の鳥など、この国にはからすくらいしかいないからだろう――ヤン夫人が幽鬼でも見たかのように後ずさりする。


「あぁ、わたくしの実家で飼っていた鳥です。どこに住んでいた鳥かは分からないのですが、実家からわたくしについてきたらしく」

「は、はぁ……」


 分かったのか分からないのか、はっきりしない相づちをうつ。


 そもそも、今は目の前の鳥の異様さに気をとられて、冰遥の話も分かる気もしないのだろう。


 ヤン夫人は、おのれの女性らしからぬ体勢に気がついたのか、ほおを染めてあわてて座りなおした。


「それで、調伏だったのですか……?」

「はい」


 黑々に術式と調伏は違うものだろ、と指摘されるが、術式と調伏の違いを説明したところで、常人に理解できる範疇はんちゅうではないのは知っている。


 ――それよりも。


 冰遥は、ヤン夫人に尋ねたいことがあった。


「ヤン夫人。……お尋ねしたいことがあるのですが」

「ええ。なんでもどうぞ」


 少し驚いたようなヤン夫人だったが、すぐに柔らかい表情をうかべて冰遥に向きなおる。


「わたくしの、前の名をご存知ですか?」


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