ヤン夫人疾走


 病養に入り、話す相手のいないリョウの寝室では、ヤン夫人と躘とが向かいあって真剣に会話をしていた。


 冰遥のことから、昔話、辺境の様子などとこしえに話はつづく。


異色族いしょくぞく?」


 依然として体調が優れないのか、体の芯がぐらりと揺れるのを感じながら躘がヤン夫人に聞きかえした。


「知らない言葉です」

「ええ、そうでしょう」


 病養中、暇をもてあました躘が読書に走っているため、寝台がすでに本棚になりかけている。


 ヤン夫人は、いつになく真剣な表情で話しかける。


「北方の、武闘派の移牧民で、上質な馬にのっているため、軍に登用されることも多い種族です。ですが……その異色族の動きが、どうも怪しくて」


 ヤン夫人は、学識の高い名家――陳氏出身だ。もっとも品格のある貴族で、頭の切れるものばかり。


 また、外交にも深く関わっており、ヤン夫人は国務として他地域などに偵察に行くほどの重役を任されている。


 官吏かんりの仕事を務めるをするなどもってのほかだ、という意見もあった。


 だが事実、ヤン夫人は平凡な官吏よりも有能であり賛成派が多くいたため、逆らうものは段々と減り、今ではいなくなった。


 政は父である皇帝が、そして裏の貴族たちはヤン夫人が牛耳る。いわば、影の権力者だろう。


 躘の母である皇后が亡くなってから、皇后に権限が近いのはヤン夫人だ。


 ヤン夫人は躘を気の毒に思って、皇后に昇格することを拒んだが。


「動きが怪しい? 妙ですね、何かあったわけでもなく?」

「ええ。……もしかしたら、他の国の息がかかっているかもしれません」

「――!」

「憶測ですが」


 はっと目を見ひらく躘に、淡々とした口調で言うヤン夫人。


 何を思っているのか、その表情からは窺うことはできない。


「戦の予兆が、あるというのですか……」


 明らかに体調不良からくるものではない、めまいと頭痛にため息をついた躘が、力のない声で言う。


「……ええ。今度の代替わりのときを、狙っているのかと」


 ヤン夫人は言いにくそうに口をもごもごとさせながら言う。


「新しく立てた皇帝は、未熟で力が弱いから。ですよね……」


 ヤン夫人はぎゅっと唇を結んだ。


 目の前にいるのは皇太子であり、次期皇帝である躘だ。


 普通のひとならば、躘のもつ『天子てんし』の名に恥じぬ、その威圧に近い佇まいに圧倒されどもるところ。


 だが、言葉どおり、ヤン夫人は幼いころから、母のいない躘の面倒を見てきた。


 そのヤン夫人であるから躘も心おきなく相談できる。


 そのうえ、ヤン夫人も躘のもとに有益な情報を届けてくれる。


「申し訳ありません……」

「いえ、気にしないでください」


 躘は目を閉じた。頭痛がする。

 ヤン夫人が、宮殿に戻ろうかと立ちあがる。


 見送ろうと躘も立ちあがるが――前に倒れそうになって、慌てて体勢を立てなおした。


 躘に気がついたヤン夫人が、振りかえって躘の様子をうかがう。


「どうかいたしましたか、どこか痛いのですか?」

「……ごめんなさい、気分が悪くて」


 ヤン夫人はあわてて――それでいながら冷静に、顔をのぞきこんだ。


 潤んでいる瞳に、蒼白な顔。


 指先は震えている。ふ、と弱い息を吐きだした躘のひたいには、汗の粒がうかんでいる。


 ――気丈に振舞ってはいらっしゃるけれど、やはり、体調不良は回復されていないのね。


 ヤン夫人はそう思いながら首をかしげる。だが、喉になにかがつっかえたかのように、違和感を覚える。


 今まで見てきた体調不良とは違う。なにかが、引っかかる。


「ヤン、夫人……」


 寝台に座りこんだ躘が、ヤン夫人を呼ぶ。


 口元に耳をよせると、躘が弱々しくささやいた。


「姉さん、姉さんを……」


 ――姉さん?


 ヤン夫人は、また首をかしげた。


 躘は世継ぎ。公主こうしゅもいないため、姉はいないはずだ。


 そうだとすれば、そう呼ぶほど親しい年上の女性だろうか。


 精一杯の速度で思考するが、答えがでない。焦りだけが先走る。


 躘がたえきれないという様子で寝台にふせてしまう。


 答えがでず、焦りはじめたヤン夫人の脳裏に、ある映像がうかぶ。


『姉さん、沙華姉さん!』


 おさなき日の躘は、あのむすめを――沙華を、姉さんと呼んでいた。


 ――冰遥さんを、よんでこなくては!


「すぐに呼んでまいります!」


 そう声をかけると、動くのもつらくなったであろう躘は、口端をあげることで返答をした。


礼虎リィフー!」


 特に躘が信頼している官僚が、確か外にいたはずだ。


 そう思い扉の外へと呼びかけると、扉が開き慌てたように若々しい男が室内へ入ってくる。


 ヤン夫人を認めると少し驚いたようだったが、すぐに鍛えぬかれた体を折り、礼をする。


「どうしたしましたか?」

「皇太子さまの様子を見ていてほしいの、わたくしは人を呼んでくるわ」

「人……分かりました」


 ではなくを呼んでくると言ったことに違和感をおぼえたようだが、すぐに礼をするように頭を下げる。


 さすがは科挙を合格した官僚である。賢いというか、聡明というか。


 ヤン夫人はすぐに駆けだした。


 ――冰遥ヒョウヨウさんを、探さないと。


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