紫の目の持ち主は


 早朝はうつくしいのよ。


 空気は澄んでいるし、うんと吸いこむとたまに鼻の奥がつんと痛むのだけれど、ほんとうに気持ちがいいのよ。


 それにね、黎明れいめい、朝まだきの面影がのこる竜胆りんどう色の夜が、清潔な透明色のほむらによく似た赤色が上から覆うように、まっすぐに、偏屈へんくつもせず変わっていく。


 その光景が、息をのむほどうつくしいの。


 いつまでも、ずっと眺めていたいくらいにうつくしくてね。


 刻々と変わっていっては新しいしとやかな美しさを宿す空はね、深い魅力があるのよ。


 変わっていってしまうのは少し寂しい気もするのだけれど、それがまた綺麗で、うつくしいのだと思うの。


 文琵ウェンビがひろわれ、冰遥ヒョウヨウからもっともはじめに教わったのはそれだった。


 早朝の美しさ。そしてその魅力。


 それを教わってから何年も経った今になって何のきっかけもなく、澎湃ほうはいと思いだされた。


「綺麗ね」


 文琵のとなりに立って、空をともに眺めていた冰遥がささやくようにして言う。


「はい」


 文琵もそれに答えた。


 この世に産みおとされた意味について考えることがある。


 冰遥は、たまにまるで独り言のようにそうこぼすときがある。


 冰遥は、どこの誰から生まれたのか、それもおのれの身をつくる血でさえもどこのものなのか分からぬ孤児だった。


 冰遥は今でも思いだすことがある。


 はじめて文琵が笑ってくれた日のことだ。


 はじめ、文琵は言葉を話せなかった。


 確然たることを言うならば、炎尾国の言葉を話せてはいたのだが、冰遥が生涯で聞く分の悪口しか話せなかった。


 もうひとりで歩けるようになっているのに、だ。


 冰遥はその様子を見て思った。


 もしかするとこの子は――そういうことばかりを言われ、聞いて育ったのかもしれない、と。


 そう勝手に思い、冰遥は苦しくなった。この子をどうにか救いたい。


 そう考えた冰遥は、孤児である文琵にこの国の言葉をおしえ、甲斐甲斐しく世話を焼いた。


 その気持ちが文琵にも伝わり、表情を変えなかった文琵が、はじめて笑いかけてくれたとき――冰遥は大泣きした。


「あんなこともあったわね……」


 冰遥がつぶやくと、文琵が向く。


「……どのことでしょうか?」

「文琵が、はじめて笑ってくれた日のこと」


 そう返すと、文琵は不明瞭な記憶をたぐっているのか、視線を宙にうつす。


「あぁ。たしか、冰遥さまが大泣きした」

「えぇ……思いだすと恥ずかしいものだけれど」


 冰遥は恥ずかしそうにはにかむ。文琵もそれにつられるように笑った。


 いまでも文琵は、冰遥に拾われる前まで自分がどこにいたのか、どう生きていたのかを話すことはない。


 だが冰遥は、それでも別にいいと思っている。


 今こそ、使用人と主人のようになってしまっているが、もとは長年いっしょに悪ふざけをして、泣き笑った親友だ。


 血は繋がっていなくても――二人が姉妹のようにお互いを思っているということには、依然として変わりはないからだ。


「ねえ、文琵」

「はい?」


 文琵が、隣に立っていまだ儚い横顔で白みはじめた空を見あげている冰遥へと振りむく。


 話すたび、一言一言に、白い息があがり、またふわりと消えてゆく。


「もし、わたくしが何百、何千もの人を殺したとしても――」


 冰遥が、空から視線をはずして文琵にむいた。


「それでも、あなたはわたくしに仕えたいと思う?」


 紫色の目が、潤んでいた。


 これほどまでに、将軍であった過去をきれいさっぱりなくしてしまたいと願ったのは、はじめてだった。


 平民になりたてのころ、襲ってきた賊徒を追いはらったのは冰遥であるし、戦場での経験があったからこそ、ここまで生きのこれたのは確かだ。


 それは、胸を張って大声で言える。


 過去の記憶は変えられないし、それを糧にしていままで走りぬけるように生きてきた。


 ――けれども。


 ふと立ち止まってまわりを見わたしてみると、思ってしまう。


 孤児ではなかったら、わたしたちは今頃、普通の幸せを心おきなく描けていたのではないのか、と。


 普通の平民として。

 そこそこ良い商人の娘として。

 上流の貴族として。


 そう生まれていたら、果たしてここまで苦しむことはあったのだろうか。


 炎尾国ではなくて明涼国で生まれていたら――こんなに、辛くはなかったのだろうか。


 そう、風に揺れる蠟燭ろうそくのともしびのような冰遥の心の迷いを一蹴するように、まあるく笑って文琵は言った。


「もちろん、お仕えいたします。冰遥さま」


 文琵の目にまよいは見えない。


 唇が、何様とも言いあらわせぬ感情で、ふるふると震える。


「わたくしが仕えるべきは、冰遥さまただ一人。そのためには命も惜しみません」


 そう、うつくしい目の淵を曲線にして笑った文琵を見て、瞬きをすると同時に冰遥のほおにすっと涙がつたった。


 文琵が驚いた表情で、ほおをぬらす冰遥に一歩、踏みだす。


 途端、日が昇りはじめる。


 竜胆りんどう色はほふられ、焔の花をパチパチと散らしながら水がしみわたるようにして光が冰遥たちの頭上を通過していく。


 朝日は強くかがやき、この大陸を光で満たしてくれる。


 冰遥が、煌々とかがやく朝日に顔をむけた。袖でぐっと目尻の涙をぬぐう。


「ごめんね、行こうか?」


 はにかんだような、少し気まずさをのこした笑顔を見せて、冰遥が文琵に話しかける。


 文琵は何も言わずうなづき、ゆったりと歩きだした冰遥の半歩うしろを追いかけた。


 文琵の目に、朝日の光が差しこんだ。

 暗い青色が偏光する。


 文琵の目は――ぞっとするほど、綺麗なだった。



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