不失正鵠


「体調、いかがですか」


 ヤン夫人が尋ねると、リョウは寝台にすわったまま、苦笑をうかべて首を横にふる。


「今朝よりずいぶんと体も軽いので、よくなったのは確かなようですが……やはり、病養をとらずに働いていたせいか、回復が遅いようで……」


 躘は居ごこちの悪そうに笑った。


「医官もゆっくり休むようにと言っておりました。病養の間は、無理に起きあがったり、務めをしようとはしないでくださいね」


 躘は、ここ最近ずっと体調がすぐれなかった。


 公務を果たすため朝晩いそがしく働き、夜中には寝る間も惜しまず書物に没頭し、勉強しているような本の虫なのだ。


 行燈のあかりがいつになっても消えないことから、宮中では皇太子のいる宮殿は『蛍宮殿けいきゅうでん 』の名で通っていたほどだ。


 そんな生活が体にたたったのか、躘はとつぜん体調をくずした。


 病弱だった母の遺伝子を色濃く受けついだせいだろう。


 幼いころは一日中、起きあがれないほど病弱だった。


 だが、成長するにつれて体力がついてきたのか、ここ数年はふつうに生活していたのだが。


 時間があったので朝方に勉強がてら書物を読んでいるときに突如意識を失ったのだ。


 そのとき、もともと不健康な白い肌には血の気がなく、脂汗がふき出て、細かく全身が震えていた。


 あわてて呼んだ医官でさえも、顔を青くしたような状態だった。


 それが、三か月前の話である。


 医官は休むよう聞かせたが、頑固な躘のことである、ひと時も休まずに政の補佐と勉強をつづけた。


 そのせいか――昨夜、冰遥のことがあってか、いままで積みこんできたものがくずれるようにして、がたがたと体調をくずしたのである。


「実を言えば、ここまで体調が悪いと思っておらず……てっきり、少しばかり休めばよいくらいかと思っていたのですが」


 この現状ですよ、と言って躘は苦笑する。


 ここ最近の書物――もとい学業へののめりこみはすごく、普段ならなにも言わない皇帝でさえも「最近休んでないんじゃないか、休んでこい」というほどだった。


 ヤン夫人は、ふふっと笑う。


「昔から、夢中になると制御が苦手でしたものね」

「お恥ずかしいものですが……」


 苦笑を深くして答える躘に、ヤン夫人は遠くを眺めて、懐かしむように言う。


「あのむすめのことも、ですわね……」


 躘は、ぎゅっと唇を嚙んだ。その表情がくもる。


 ヤン夫人の声色に『もう諦めろ』という語感があったからだ。


「……愚か、ですか……?」


 わけもわからず震える声をおさえて、躘が小さくこぼす。

 ヤン夫人は、視線を躘にもどす。


「もう、忘れなくてはいけぬひとを慕い、想いつづけるのは……わたくしが、いけないのですか」


 悲しみに、ついうつむきがちになる。


「……皇太子さま、なにをおっしゃるのですか」


 お顔をお上げください、と言われ顔をあげると、そこには悲しげに微笑むヤン夫人がいる。


「わたくしのことを、愚かだと、そうおっしゃりたいのでは?」


 恐る恐る尋ねると、ヤン夫人は静かに話しだす。


「……いいえ、あのむすめのことは、昔よくともに過ごしておりましたから、わたくしも存じあげています。……ですから、お手伝いをしたいのです」


 予想とちがう彼女の言葉に、躘は驚きながらもお手伝い? と尋ねる。


 ヤン夫人は満足げにうなづき、つづけた。


「あのお方はもうすでに、ここにいらっしゃいます」

「……心あたりが、あるのですか」


 躘のふるえた問いに、ええもちろん、とヤン夫人は笑みをうかべてうなづいた。


 おのれの慕う人がここにいることに安堵し舞い上がる反面、躘の脳裏に昨夜の情景がうかんだ。


 素直に喜べない自分がいることを恥じた。


 おのれの恋慕する人のことを認識できなかったなんて――躘は思う。


 そして、昨夜のことは姉さん以外には言わないでおこう――と思った。混乱をまねきかねない。


「実は、あの方は医学に心得があるそうなのです。……ですので、皇太子さま。病養のをしている間、看病を任せようかと」


 都合がよすぎるヤン夫人の言葉に、薄くいたずらな笑みをうかべる躘。


「……仕組んだのですか、ヤンさま?」

「……わたくしはちん氏の出身なもので」


 そう冗談を言い、互いに笑いあう。


 躘を支えられるような味方はまだ、宮中には少ない。


 だが、次期皇帝のことを支えるべきひとならば、もうここにいる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る