やわらかい灯籠



「なにをなさっているのですか……」

「ごめんね、文琵ウェンビ


 あきれ顔で髪を結ってくれる文琵に、うまくできていないであろう笑みをかえす。

 

「……心配したんですからね。泣きながらこちらの屋敷にこられて。なにがあったのかと、びっくりしましたよ」

「……うん」


 文琵の心地よい低音がさとすように言葉を紡ぐ。


 冰遥ヒョウヨウは、文琵のやさしさにふれるたび、なんだかこころにある小さな灯籠とうろうに明かりを灯してもらったような心地になる。


 橙色だいだいいろのやわらかい灯籠のひかりがまた、こころに灯った。


「……ねえ、文琵」

「はい、冰遥さま」


 文琵は、なにがあっても構えているような、大山のようなやさしさがある。


「もし、したっているひとがわたくしのことを覚えていなかったら。……それでも、傍にいようとしてもいいのかしら」


 じわりと涙がうかぶ。


「ただのひと時でもいいから、わたくしの目を見て、笑いかけてほしいと思うのは、わがままなの……?」


 涙がこぼれおちた。文琵は、不思議な笑みをふくんだため息をおとす。


「わがままですよ、冰遥さま」

「え……」


 後ろをふりむくと、そこには言葉に反し、微笑んでいる文琵がいた。


「おしたいしている方にしたわれるようにしよう、と思わないのが、わがままなのです」

「あ……」


 文琵は、ゆっくり口角をあげた。柔らかいほおが、まあるく浮きあがる。


「したっているのならば、したってもらえるようにするのみ。それ以上も以下も必要ありません」


 文琵が、春の日差しのようにあたたかい声でゆったりと言う。


「それで……良いの?」

「いけない理由がどこにあるというのですか」


 文琵の言葉に、胸がじんとする。


 冰遥の恋は、相手を変わらずおもいつづけることだけで――そんな、おこがましいことをしていいのか、と自問していた。


 そんな冰遥のことを見すかしているのかのように、文琵は困ったような、それでいて少しばかり幸せそうな顔をして、口角をさらにあげた。


「ほんとうに、愛らしいお方ですね。……冰遥さま」


 文琵は、冰遥の髪に金緑石の簪を挿しながらつづける。


「わたくしは、冰遥さまに幸せになってほしいのです。……この命、冰遥さまに救われたもの。……一生を捧げるのは、冰遥さま以外におりません」


 冰遥は、はっと顔をあげ振りかえる。


「文琵っ……!」

「ええ、分かっております」


 怒ったように言う冰遥に、居ごこちの悪そうにぎこちなく笑った文琵が、やんわりと冰遥の頭をおさえて前をむかせる。


「冰遥さまがお怒りになられるのも、存じております。……ですが、わたくしは」


 文琵は、冰遥の髪をすいていたくしを置き、その代わりに手を膝のうえに置きなおした。


 冰遥が、振りかえる。


「わたくしがお仕えするのは、冰遥さまただ一人だけなのです。老いぼれになって朗君がいなくとも、それでよいのです。わたくしは……冰遥さまの手助けをしたい。できる限りのことをしたいのです」


 文琵の鋭い目が、その淵に少しばかりの涙をためて冰遥にむく。


 ここまで主人思いの使用人は、大陸中どこを探し回ってもいないだろう。


 冰遥は、ぐっと唇を嚙んだ。


 文琵のやさしさが、灯籠に火を灯すとともに涙を誘った。


「ありがとう、文琵」

「はい」


 文琵がふわりと笑う。


 その途端、躘の顔が思いだされ、昨夜のことが脳裏にうかんだが、冰遥は頭をふって昨夜の記憶を頭から追いはらった。


「文琵、行きましょうか」

「はい、冰遥さま」


 珊瑚色さんごいろ繻子しゅすでぬわれた衫襦ひとえに、橙色の薄絹をかさねる――は、文琵の案だ。


 うつくしく艶のある髪を結わえ、初日とは違い、薄絹で顔をかくさず肩にかけて冰遥は翡翠宮をでる。


 ずっと、朱氏のむすめたちふたりの姿が見えない。


 けれども、気にするだけ無駄だというのは知っていた。朱氏は腹黒いことで有名なうえ、策略家だとも有名だからだ。


 冰遥たちがねむっている間に、おのれの家の後ろ盾を使い、手を回して忙しくしているのだろう。


 そんなこと、冰遥には知る由もなければ興味もないが。


「今日の試験はなんだったっけ?」

「琴と縦笛の試験だったと思います」

「ああ、そうだったわね」


 文琵が、てくてくと半歩うしろをついていく。


 文琵は、少しも混じり気のない漆黒の髪と白い肌をしている。まさに――と言ったら失礼になるが、炎尾国の美人だ。


 そして――じっと見れば気がつかないほど、暗い青色の目をしている。


「わたくし、楽器はどうも得意ではないのよね。縦笛は得意なのだけれど、琴は……微睡まどろんでいた小鳥がひっくり返ってしまうわ」

「それは大変ですね」


 文琵はそう言って微笑んだ。


 今度の試験がおこなわれる会場は、初日に集まった大きな広場ではなく、庭園に設けられた小さな楼閣ろうかくだという。


 翡翠宮の風光明媚ふうこうめいびといえるような庭園のなか、少し離れにある小さな部屋。


 各々に呼ばれては試験をうけるらしい。時間はみな異なる。


 早朝にうけるものもいれば、夜の更けたときにうけるものもいるらしい。


「それにしても、こんな朝早くから……。官吏かんりも忙しいのでは?」


 冰遥は一番はじめに受ける。


 早朝の空気は冷たく、澄んでいる。まだ日はのぼっておらず、空は山際からだんだんと白みはじめているところだ。


 文琵はふと足をとめた。――綺麗。


 冰遥も不思議に思って足を止め振りかえり、文琵が目をかがやかせている視線の先を辿る。


 そこには、群青の山の際からあわい紫が顔をのぞかせており、わずかに感じられる朝日の橙と紫とがうつくしく空をそめていた。


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