月のもとで



 一体なんの話をしているのだろうか――が、冰遥ヒョウヨウの、率直で、作為さくいのない純粋な感想だった。


 けれども、こちらを冷たく見すえるリョウを見れば、でかかった言葉も喉のおくへと引っこんでいった。


 足がすくむ。


 冰遥はぐらぐらと脱力して揺れるおのれの身を支えるように足趾そくしに力を入れる。


「邪術でしょう」


 躘は、ぞっとするほど冷たい声で言う。


 こんな躘、知らない。冰遥は畏怖いふに支配され、躘におびえながら思う。


 彼はすっと目を細めた。闇のなかに、うっすらと冰遥の輪郭が見える。


 冰遥はどうにか否定しようと試みたが、彼にかけるに適切な言葉を探してもみつからない。


「無言は肯定ととらえます」


 人違いをされている。――黑々が、冰遥のこころにうかんだ感情を感じとって、そのつぶらな目でふりむいた。


 邪術をあつかうのは事実だ。だが、それがなぜ冰遥が躘の姉だということに繋がるのだ。


 頭に走った稲妻のような、衝撃の威力が大きく、答える言葉が見つからない。


 黑々フェイフェイがバサッと音をたて羽ばたき、近づいてきて重みを感じさせることなく冰遥の肩にのる。


 ――もう行こう、このままでは主人が気の毒だ。


 黑々独特の重みのある声が、頭に直にひびいてくる。


 バサリ、と激しい音とともに長い尾がひるがえり、音もなく扉が開く。


 かすかに洩れた月光に照らされ、闇がぼんやりと冰遥の姿を形どる。


 ――主人。

 ――わかっているわよ、行きましょう。


 先をうながすように主人、と呼ばれ、返事をするや否やすぐに回廊にでた。背後で扉がしまる気配がした。


 黑々がしめてくれたのだろう。――黑々は時々、くちばしから姿の見えない炎をはいて、術ともいえぬなにかを使うときがある。


 磨きあげられ、月の姿を鮮明にうつしている光沢のある木の回廊を歩きながら、さきほどの躘を思いだす。


 誰かをひどく憎んでいるような目だった。


 殺気立って、今にも自分を殺めにかかりそうな危うさのある目だった。


 けれども、冰遥はあの恐ろしい目を向けられたことへの恐ろしさではなく、それ以上の大きい悲しみを抱いていた。


 ――忘れられていたたのね。人違いをされるなんて。


 冰遥は回廊の真ん中にしゃがみこんだ。瞬きとともにはじきだされた涙が、手の甲に散る。


 冰遥はうなだれた。


 ここに来たのは、間違いだったのではないか。そもそも、彼を想っていたことが間違いだったのではないか。


 覚えているわけがなかったのだ、あの躘に限って。


 いつもふらふらとしていて柔らかいあの、大事なことから忘れてしまう躘が、おのれをしたってくれているはずがなかったのだ。


 ひとつ涙をこぼせば、もう止まらなかった。


 ひきつったような声がひっきりなしに喉をとおり、嚙みしめた歯の隙間からもれでて小さな嗚咽となっていく。


 ――わたくしの、大馬鹿もの。


 期待をしていなかったのかと問われれば嘘になるのは、冰遥も知っている。


 だが、期待したかった。あの日、あんな期待させるようなことを言った躘に――期待させてほしかったのだ。


 冰遥はぼろぼろと涙をこぼしながら、悲しみにこまかく震える声で、まあるい光をたたえたおのれの涙にささやいた。


 ああ、ごめんなさいお母さま、お父さま。ふつつかな娘でごめんなさい。



「……いない」


 すた、とかすかな扉のしまる音とともに、目の前の扉がひとりでにしまる。


 現実味の欠片もないことが目の前でおきているというのに、躘は妙に冷静に闇をみつめていた。


 目をこらすが、やはりそこに先ほどまであった人影はない。


 躘はあたりを警戒しながら、枕元にあった蠟燭に火を灯す。


 それを持って部屋にあった金魚のかかれた行燈あんどんに火をともしてまわる。


 少しばかり明るくなれば、気がやすまるだろう。


 躘はすべての行燈に火をともすと、蠟燭を燭台へと戻し、寝台にのりあげた。今夜は眠れるか分からない。


 皇族に用意される薄絹うすぎぬの白い夜着が、躘を死人のように見せている。


 躘もそれを自覚しているのか、生きているのを確かめるように何度も何度もおのれの指先を動かしている。


 灰色がかった紫色の目。

 白い肌、整った顔。上等な邪術。


 はっとして、冷たい寝台に横たえたからだを再びおこす。


 目の前の闇――は、今はもうない。行燈に照らされ、闇は消えてしまった。


 もう一度、躘は目を閉じて先ほどまでそこに立っていたであろう人の面影を思いうかべる。


 そのシルエットを思いだそうとするほど、おのれの犯した最大の間違いに意識がいってしまう。


 躘は回想からぬけだすと、指を組んだ両手を胸でかかえるようにして、寝台の絹のうえで丸まった。


 なぜもっと早く気づけなかったのか。


 都にいないことを確認しては、悲しみにおぼれていたのに。あの目の色など、何度も焦がれて夢にまで見たのに。


「沙華姉さん……?」


 口に出してから、腹の奥がさぁと冷えていった。


 躘は、冰遥が女人たちのなかにいることに勘づいていた。否、きっと来てくれると思っていた。


「馬鹿……!」


 今になって気づいた。


 あの目の持ち主も、闇にたたずんでいたのも、助けにきてくれたのも、全部――姉さんだ。


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