黑々
――助けて、誰か……!
「はぁっ! はっ、はぁっ、はぁ……」
うなされてとび起きると、びっしょりと汗をかいていた。
さらさらとした肌触りを気に入っていた
いつもなら、ここで文琵を呼んでいたところだが、あいにく今はいない。
――誰かに呼ばれていた気がする。
誰ともいえぬ、けれども懐かしい声に。
「だめね……環境が変わったから、寝つきがわるいのだわ」
あのむすめ二人の寝台が空っぽなのには見て見ぬふりをし、散歩でもしようかと
昼間、丸窓から見えた庭園。
夜の散歩も良いかもしれない。
櫛をとりだすのも億劫で手櫛で結わえたため、いつもとは異なり低い位置にある髪がふわふわと首にかかる。
靴を履き、月光に照らされる夜の庭園を歩く。
夜風は冷たくて気持ちがいい。
特に春のような、散る花が美しい季節は。
「……ん?」
月を見あげた
異様なまでに長い尾。
つばさの付け根にある赤い羽。
闇よりも黒く、暗いそのからだ。
夜にまぎれた異国の鳥。
冰遥は、その鳥に見覚えがあった。
確かめる代わりに手をかるくあげ、簪を髪から引きぬく。
この簪は、赤子の彼女が手に握っていた母の形見だ。
そしてまた、邪術をあつかうときに使う
冰遥は簪を指ではさむと、くるりと回した。
――途端に、簪の先端、透き通った深い青緑の
金緑石はまたたく間に赤色へと変化し、闇のなかで燃える炎のように赤い光を放っている。
煙をからめとるように指を動かすと、形を変えてくるくると動きながら指に絡まってくる。
「……懐かしい」
冰遥だけがつかえる、とくべつな術である。
冰遥は人差し指を木にとまっている鳥へと向ける。煙が細い糸のようになり、鳥の胸元と指先とをつなぐ。
ぴくり。糸が見えているのだろうか、鳥が
指をくいくい、と動かすと、鳥が長い尾をバサバサと揺らした。
――
炎尾国にいたころ、師は
冰遥の言うことをよく聞き、戦のときなどは、鳩のかわりにその黒鳳雀で伝書をとばしていた。
その見慣れた長い尾が、闇のおくで揺れている。
――術が鈍ったようだな、
単調な声が、闇のなかから聞こえてきた。
バサッバサッと風をきる音がきこえると、黑々が木から飛びあがっていた。糸がぷつんと切れ、煙に戻る。
冰遥が肩をひらくようにして腕をのばすと、黑々はきぃ、と鳴いて肩にのった。
――なんでここに?
冰遥が尋ねると、黑々はくちばしを上へ突きだし笑ったかのように首をふる。
――主人に伝えることが。
――なに?
――あっちの宮殿で、術に首をしめられている野郎がいる。皇太子がすんでるとこだ。
バサッバサッ。
尾が月光に照らされ、濡れた瓦のように光る。
――あのままじゃ、死ぬぞ。
黑々の黒い目が、冰遥を試すようにむけられる。
黑々は、微量の呪いや術でさえも感知できる特殊な鳥だ。
師は物好きなので連れてきたらしいが、冰遥の鳥となってから、冰遥も気づかないようなものを感知できるようになっていった。
――行くか、行かないか。
黑々は事を端的に、そして知るべき情報だけを抜粋して冰遥に伝える。
――案内して、黑々。
――了解、主人。
肩から飛びあがった黑々が、大きなつばさを広げて宙を泳ぐ。
冰遥は置いていかれないように反射的に走りだした。
――ここ?
――そう、
宮殿についたが、
だがかまわず、冰遥は手ににぎりしめた簪に息を吹きかける。
煙がぶわっとくすぶり、鍵穴に素早くもぐる。
がちゃ、と音がした。鍵が開き、ばたばたと連なった扉が開いていく。
冰遥が通りぬけると、後ろにつくように飛んでいた黑々がくちばしを開いた扉にむける。
音もなく静かに扉が閉まっていく。
焦る気持ちが、脂汗をにじませる。
ずっと邪術を使っていなかったせいで、感覚がなまっている。邪術に、ここまで猛烈に苛立ったのは初めてだった。
もうすぐだ。
この先は寝室。
冰遥は、勢いをそのままに扉を――開いた。
「――!」
目の前には、苦しみもがいている
首に黒い
冰遥は、息を吸いこむ。肺いっぱいに、もう吸えないというところまで。
そして勢いよく金緑石に息を吹きかけると、ゆらりと石が歪み、パチパチと小さな火花を散らしながら煙がくすぶる。
冰遥は簪をくるりと回すと、火花を散らし
ぎゅっと目をつぶり、もがいている躘の首に指をはわせる。
靄がうごめきながら、冰遥の指に絡みついてくる。指が引きちぎれそうになるほど、強く。
絡まった指先から、血がにじむ。
躘の首にも、血がにじみはじめている。
「――消えて……!」
喉から声をふりしぼると、靄はするすると指先に吸いこまれていった。
闇のなか、冰遥の目に月光がさしこみ、透き通った紫色を浮かびあがらせる。
「ッ! がはっ、がっ――げほっ、がっ……」
咳きこむようにして息をふきかえした躘が、喉をおさえて苦しそうに荒い呼吸をくりかえしている。
助けられた。間にあった。
「ごはっ、が……ッ、ぐっ、がはっ……」
咳をしながら誰だろうと確認するために振りむいた躘は、はっと息を呑んだ。
脳裏に、父からの言葉が蘇る。
炎尾国の王族。――紫色の目。
父のに似た、灰色がかった紫。
不気味なほど、整った顔。白い肌。美しく芸に長けた才女を母にもつ、彼女がおのれの姉ならば。
まさか。
「がほっ、げほげほっ……がは、ッ」
咳きこんだ躘にかけより、あわてて背中をさする。背中には汗をびっしょりとかいていて、小刻みに震えている。
冰遥は、下唇をかんだ。
「ひっ、はぁ、はぁ……あなた」
やさしいような、だが強い警戒を露わにした声で、躘が話しかける。
バサッバサッ。
背後で、黑々がはばたく音が聞こえた。
闇のなか、
躘も例外ではなく、冰遥のすがたは見えない。
だが冰遥からは見えている。
怒りのような強い感情に染まった躘の顔が。
幼いときの柔らかい表情とは遠い、冷徹な表情でこちらを見つめる躘のすがたが。
「――あなたが、わたくしの姉ですか」
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