からからと音を立てて
祝言をあげる日までは、一月を切っていた。
帰り道、満開とはいかずとも美しく咲いている桜並木を歩いていると、張り紙が冰遥の目にとまった。
そこには『後宮女官選抜の招集令』と書かれていた。
後宮という言葉に、
もう三年か。……会いたいな。
心の内で無意識につぶやいた言葉に驚き、冰遥ははっとする。
「……どうかなさいましたか?」
目を閉じ首をふる冰遥と、張り紙とを交互に見て、文琵が首をかしげる。
「へっ? あ、いいえ、なんでもないわ。帰りましょう? あら、おかしいわね。あははは……」
必死に笑顔をつくり、さっさと歩きだす冰遥。文琵は、じっと張り紙を見て早足で冰遥のあとを追った。
期日はちょうど、婚礼の日までだった。
婚礼まで、なにも問題はなかったというわけではない。
はじめ婚礼の話を持ちかけたときなど、丸々一月、両親を無視したくらいの拒絶ぶりだった。
だが、冰遥は十九である。
早くて十三、遅くて十七には婚礼を終えているのが普通であるのだから、冰遥は嫁ぐ時期をとうにすぎている。
そんなわたくしでも
上等な服に、これまた上等な簪。
化粧をほどこされた冰遥は、誰が見ても美しいが、その表情はうかない。
とうとう、来たのか――と冰遥は、鏡にうつるおのれを見ながら思う。
皇后になる、と躘とかわした約束を破り、この胸の悲鳴を無視し、嘆く心に、見て見ぬふりをして嫁ぐ。
一体、このままでいいのか。後悔しないのか。
冰遥の頭のなかに、蓮に言われた言葉がうかんでくる。
――最後の判断は、ご自身でなさってください。それが――、
わたくしのことをしたっているだなんて、ずうずうしいことは思わない。冰遥はぼんやりと思う。
ただ、もう一度だけ会えたのなら、この長い長い片思いを終わらせるから。
冰遥は、ばっと顔をあげた。
だがすぐに、うつむいて唇を嚙む。
冰遥は、躘がおのれのことをもう忘れていると思いたかった。そうすれば、おのれのこの、ばかばかしい
そう思うために、心のうちでつぶやいた。――どうせ、躘なんて、わたくしを覚えてなどいないわ。
心でつぶやいたのだが、胸をつきあげる悲しさに冰遥はぎゅっと目をつぶり、涙をこぼすまいとしたが、ほおには涙がつたった。
まつげが震え、あごが震える。
震えをどうにかおさえようと目をしばたたかせる冰遥の隣に、文琵がどかっと腰をおろした。
そして――あわただしく、冰遥の顔をこすり婚礼の化粧を落としはじめた。
「おい、文琵! なにをしている!」
父が文琵のことを止めにかかる。が、隣にいた母が座らせた。
「なにをする!」
父が、母を睨む。だが、母は堂々として言った。
「わたくしは、冰遥の選択を尊重いたします。冰遥の幸せは、冰遥にしか分からぬのですから」
父は頭に血がのぼっていたが、母の言葉にはっとした。
脳裏に、冰遥がこの家にきたころ、よく遊んでいた少年がうかぶ。
父は、そろそろと腰を下ろしてうつむいた。
「文琵――」
「我慢するのはおやめください」
暗かった冰遥の顔に、ぽっと血色がもどる。
「お母さま……」
すがるように呼んだ冰遥に、母が微笑んで言った。
「冰遥。……お
母の凛とした声に、冰遥がはっとする。
いつもの温厚な母ではない。
平民にまで転落した家をたてなおした、鉄の女だ。
「分かっているでしょうけれど、招集令がかかったわ。王宮で、選抜があるらしいの。お行きなさい」
母はつづける。
「冰遥はわたくしたちの誇りよ。ここまでよく育ってきた。自信をもって、行ってらっしゃい。婚礼の話はお断りするわ。それであなたが楽になるのなら、喜んでお断りするまでよ」
母には、すべてお見通しだったのである。
貴族だったころ、大人の目をぬすんで二人だけで会っていたあの少年。
そしてその少年のことを今でも慕っていること。
「あなたのしたいようにしなさい。あなたには、仏の加護がついているわ。仏があとを押してくれるはずよ。……わたくしたちのところに来てくれて、本当にありがとう」
冰遥は、じっと涙をためて力強くうなづいた。
母はすぐに使用人を呼んで支度をはじめた。父も、最後には許してくれた。
そうと決まればはやかった。
着せ替え人形よろしく
地方役人の長のむすめとして、冰遥は後宮選抜のため都へと発つ。
役人の長は、まだまだ貴族といえる——と信じたい。
上流貴族のあのころに比べれば有利とはいえないが、冰遥を信じて背中をおしてくれる両親に、涙をのみこんで笑った。
後宮では、その位が確定するまで軽く四月はかかる。
四月帰らぬ娘のことを見送っているとは思えないほどの、温かい笑顔で両親は冰遥のことを送りだした。
――「お父さま、お母さま。必ず後悔せずに帰ってきますから……!」
そう叫んだ冰遥に、おおきく手をふって両親はこたえた。
冰遥は、文琵がおつきの者としてつくことになった。
急遽駆けつけた
いまだつづいている烏の
「ここからずっと歩くのだっけ、蓮?」
冰遥が、蓮にたずねる。山へとつづく道が口を開いている。険しい山道には、馬が必須だ。
「ううん、途中から馬に乗ろうと思ってる。阿姐はのれるけど、おつきの人はのれるわけ……あっ! ――ごほっ、ごほんごほん」
冰遥が蓮のことをジト目で見上げると、蓮は苦笑して顔をそむけた。
「じゃ、ここまでだね!」
王宮の門のまえで、蓮は告げた。
冰遥は躘と別れたあの日を思いだし、つんと鼻が痛くなったがなんでもないふりをして、蓮に礼を言った。
ちょいちょい、と手まねきをすると、蓮は冰遥の口元に耳を近づける。
『あやつらは元気か?』
冰遥が尋ねると、蓮は真顔のままうなづく。あやつら、とは部下たちのことを指している。
冰遥はきゅっと目を細めると、ふっと口元に微笑をうかべた。
『次の頭はお前だ、自らの責務を全うしろ』
そうささやき冰遥は蓮から離れた。
「さあ、行くわよ。文琵!」
「はい、おともします」
文琵がうなづく。冰遥は気合をいれるように拳を握ると、皇宮へと、足を踏みいれた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます