翡翠宮にて


 輦輿れんよにのって優雅に王宮へとむかってきたむすめたちが、火花をとばしている。


 広場に集められたむすめたちが、微笑みをうかべながら目で殺しあっている中。


 冰遥ヒョウヨウはというと――すみっこに立っていた。


 戦術は知っていても、女は怖いもの。


 小心者である冰遥は――嫌味の言いあいに参加しようなどとは思わない。


「そもそも敵対視されてないのよね、わたくしが」


 冰遥はうらめしそうにつぶやく。


 矜持きょうじの高いむすめたちは、おのれよりも下級にみえるむすめとは戦わない。


「それはいいことなのかしら、一体?」


 冰遥がぶつぶつと言っていると、急にあたりが静かになった。


 不思議に思った冰遥が視線をむけると、なにやら広場のど真ん中で、火花が散っている。


 紅い襦裙じゅくんをめした女人が、一歩前にでる。


「あらあら。もしやあなた、ジィ氏のご息女では? ご機嫌うるわしゅう」

「あら、そちらはヨウ氏のご息女ではありませんか、ご機嫌うるわしゅうございます」


 対峙するようにして前に出た薄緑色の襦裙をめした女人が、披帛ひはくを風にゆらしながらこたえる。


 はじめの女人が、剣呑けんのうな笑みをたたえる。


「やはりそうでしたか! をめされていたので。上級妃をねらうなら、もう少し華やかなものを着たらいかがです? おほほほほほ……」


 向かい合っていた女人の口元が、ピクリピクリと痙攣する。


「……あら、わたくしも気づきましたわよ。。しっかり手鏡で顔を見たほうがよろしくってよ。うふふふふふ……」


 言いかえされた女人は、あまりの衝撃に口をあんぐりと開けている。


「あら、でも姫氏は美しいお顔をしていると聞いていたのですが? それでは、豚の方がまだ美人のような気もしますわね。おほほほほ……」


 また火花が散っている。


「おやまあ、褒めてくださっているの? 低俗な言葉遣いしかできぬ所詮平民あがりの猿が、わたくしを褒めてくださるなんてねえ! うふふふふ!」


 カンカンカンカン!


 戦闘の終了を知らせる銅鑼どらの音が聞こえた気がした。


「恐ろしい――」


 と、口からでそうになってあわてて止めた。


 いまだ目で殺しあっているご息女たちに聞こえたらと、想像するだけで恐ろしさに震える。


 視線を向けた先、広場がぷっつりと割れたかのように、互いの背に貴族のご息女がかたまっている。


 派閥だ。心の内でつぶやいた。


 姫氏は、いままで皇后をふくめ上級妃を数々輩出した良家。


 それに対抗する姚氏は、この数代で平民から尚書令となったいわば実力派。



 派閥の主格が、皇后にでもなったら――おこぼれで上級妃になれるかもしれない、という魂胆だろう。


 なんて、ばかばかしい。


 権力や実力のあるものがものを言う世界だ、わたくしをどうこう、など言えるわけがない。


 冰遥が呆れたような目でにらみあっているのを見ていると――



「あなたはどこのむすめ?」

「うぎゃ——!」


 あわてて振りむくと、はっとするほど美しい女人が立っている。


ヤン夫人よ……!」


 誰かが言った。


 ヤン夫人。


 一番美しいといわれる現皇帝の側室、夫人だ。

 おだやかな人で、母を亡くした躘のことを唯一気にかけてくれた人でもある。


「あら、わたくしのことをご存じなのね。嬉しいわぁ」


 ヤン夫人が、にっこりと声の方に向かって笑う。話しかけるなという語感を含んでいる。


「わたくしは貴妃、ヤン。綺麗だったから、声をかけてしまって。一体、どちらのむすめ?」


 ヤン夫人は、にっこりと笑いかける。


「あぁ……えっと……」


 返事をしようとしたものの、喉が砂漠のように乾いており、声がでなかった。


 なぜなら、ヤン夫人は――沙華を知る、数少ない人のなかの一人なのだから。


『あらあら、そんなに走りまわっては転んでしまいますよ、沙華さま?』

『この舐点心、美味しいんですよ?』

『沙華さまったら、お目がたかいっ!』


 冰遥の脳内に、思い出が次々とうかびあがってくる。


 おいしいお菓子を目を輝かせながらほおばる冰遥を、やさしく笑いながら面倒をみてくれたのだ。



 皇帝の女性たちが、こうして女官の選抜にくるのは通例だ。


 この特殊な宮での秩序を知っている彼女たちにしか分からないものがあるからだ。


 冰遥のいる翡翠宮の選抜は、運が良いのか悪いのか――ヤン夫人の担当だったのである。


「わたくしは、田舎の貴族でございます……」


 心臓がバクバクと早鐘を打ち、たらりと冷や汗が垂れる。


 目をきょろきょろと泳がせ、異様な静けさに失言したのかと血の気が引いたその瞬間。


 ヤン夫人は興奮したように目を見開き、冰遥の手をとる。


「なんて謙虚な! 心まで清らかなのね……」


 うっとりとして言うヤン夫人に、思考が追いつかない。

 どこがどうなれば、謙虚になるのだ。


「あなた、お名前はなんとおっしゃるのかしら?」


 椿のように赤く塗られた唇が、弧を描く。

 

「冰遥です……」

「『冰遥』。……名前まで美しいのね」


 夫人の肩ごしに見える向こうで、ご息女たちが、こちらをにらんでいるのが分かる。


 ひっ、と小さな声が喉からもれた。


「すみません、手……」

「あぁ! ごめんなさいね、冰遥さん」


 眉をハの字にしはにかむ。


 申し訳なさそうにはみえない。――この状況を、楽しんでいるようにも見える。


 とろりとした明かりをたたえた目が冰遥に向けられ――白い顔のうえに、にっこりと弦を引く。


「では、冰遥、頑張ってくださいね」


 ヤン夫人は満足げに再びにっこりと笑うと、選抜の会場にもうけられた椅子に腰をおろした。


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